2014年6月1日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書19章28〜44節
  説教者  山岡 創

「 神に必要とされる 」

 昨日は、長女の通う恵泉女子学園大学でスプリング・フェスティバルが行われました。昨日は行けませんでしたが、2年前のフェスティバルに、妻と三女と3人で行ったことがあります。小さな大学なので、割と簡単にすべてのコーナーを回れるのですが、グラウンドに行くと、そこにポニーの乗馬体験コーナーがありました。三女が乗ってグラウンドを1周しましたが、思い出してみると、ポニーはトコトコとゆっくり歩き、新緑の薫る日差しの中で、のどかな光景でした。
 2千年前に、主イエスが、子ろばに乗ってエルサレムに入って行かれた時も、トコトコゆっくりと、弟子たちの讃美の中を入って行かれたのだろうか?ふとそんな光景を想像しました。

 主イエスは「エルサレムに上って行かれ」(28節)ました。普段はガリラヤ地方という田舎(いなか)で活動している主イエスが、ユダヤ人の都エルサレムに上京するのは珍しいことです。この時には、過ぎ越しの祭りがエルサレムで催(もよお)されていました。千年以上昔、エジプトで奴隷だったユダヤ人の先祖たちを神さまが救い出してくださったことを記念し、お祝いするお祭りです。ユダヤ人の掟では、成人男子はすべて参加するように定められていました。それで、主イエスはエルサレムに行かれたのです。
 その際、主イエスは子ろばに乗って登場するという、ちょっと変わった出で立ちで、エルサレムにお入りになりました。祭りのために、地方から上京してきたユダヤ人たちが、エルサレムの城壁をくぐる門を通って、ひっきりなしに入場していたことと思われます。そういう大勢の入場者たちの中で、これはまた、ろばに乗った珍妙な一団が現れた。エルサレムの人々は、そんな目で主イエスと弟子たちを見たかも知れません。

 それにしても、今日の聖書の御(み)言葉を読んでいて、不思議に思うところがあります。それは、主イエスはなぜ、「まだだれも乗ったことのない子ろばのつないである」(30節)ことを知っていたのだろう?どうして、その子ろばの持ち主が貸してくれると断言することができたのだろう?そんな疑問を感じた方も、この中におられるのではないでしょうか。
 そのことについて、主イエスは神の子なのだから、神が人の姿になられた方なのだから、人間にはない予知能力を持っていたのだと言う人もいます。あるいは、ベトファゲとベタニアには主イエスを支援する人がいて、その人に前もって子ろばのことを頼んでおいたのだと説明する人もいます。確かにベタニアには、マルタ、マリア、ラザロという、主イエスを支援する姉妹と弟が住んでいますから、そういうことも考えられます。
 けれども、超能力か事前予約かを考えるよりも、もっと大切なことを私たちは読み取る必要があります。それは、どうして主イエスが、ごく普通にエルサレムに入るのではなく、子ろばに乗って入場したのかという理由です。そしてそれは、主イエスが神のご計画に従ったことによって起こった出来事だったのです。
 主イエスは聖書をよく読んでおられた方でした。当時はまだ旧約聖書が今の形のようにまとまってはいませんでしたが、旧約聖書の中に預言書というまとまりがあります。その中にゼカリヤ書という預言書があり、その9章9〜10節に、次のようにあります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。
  見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
  高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌(め)ろばの子であるろばに乗って。
  わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。
  戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。
  彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」
 このゼカリヤの預言の中に、神さまのご計画が示されている。相手と戦い、力で支配する道ではなく、高ぶることなく謙遜に、従順に神に従うことによって平和を告げ知らせる道が示されている。その平和の道を歩み、告げ知らせる者こそ、神さまが遣(つか)わされる本物の王である。主イエスは、この神のご計画を、ご自分に語りかけられた神の言葉だと深く受け止めたのです。だからこそ、神のご計画に従って、子ろばに乗ってエルサレムに入場するという象徴的なパフォーマンスをなさったのでしょう。
 そして、言わばこの“神の平和計画”を実現成就(じょうじゅ)するために、弟子たちもまた必要とされ、主イエスによって用いられたのだと言うことができます。
 弟子たちの中から二人が選ばれ、使いに出されました。子ろばを借りて主イエスのもとに引いて来るという役割です。命じられた弟子たちにしてみれば、主イエスの言葉を聞きながら、どうしてイエス様はそんなことが分かるのだろうと不思議に思ったり、本当に大丈夫かな?泥棒と間違われて捕まったりしないかな?と不安を感じていたかも知れません。
 けれども、不思議や不安を感じながらも、主イエスの言葉に従ってみた。そうしたら、その言葉のとおりになったわけです。弟子たちは、主イエスの言葉に従って生きることの確かさを体験し、主イエスとその言葉に対する信頼感が強められたに違いありません。
 そのように弟子たちもまた、主イエスに言葉に従って生きることに用いられ、神のご計画に必要な者とされたのです。そういう意味では、「主がお入り用なのです」(31節)と直接言われているのは子ろばですが、主イエスが、神のご計画の成就実現にお入り用としているのは、子ろば以上に弟子たち一人ひとりである、と言うことができます。弟子たち自身が言わば、主イエスを乗せて運ぶ子ろばなのです。そして、主イエスにお入り用、神のご計画に必要とされているのは、当時の弟子たちだけではなく、現代の弟子として、聖書から主イエスの言葉を語りかけられている私たちもまた、主イエスからお入り用、必要とされていると言うことができます。何か大きな働きかも知れないし、日常のごく小さな営みや人間関係の中で、聖書の言葉に従って生きてみることで、神のお入り用に応え、神さまのご計画を小さく実現しているのです。

 さいたま市にある日本キリスト教団の埼大通り教会に、N.Tさんという教会員の方がおられます。幼稚園教諭だったNさんが蕨市でカフェ〈五つのパンと二匹の魚〉を始めたことが、『こころの友』6月号に掲載されていました。近くに行った時は、ちょっと寄ってみたいと思っています。悩みを抱え込んでいるお母さんたちに、得意の手作りケーキを届けると、パッと笑顔になるのを見て、“今までは子どもの相手をしてきたけれど、これからは大人たちの愚痴(ぐち)の聞き役になりたいと思ったのです。それがカフェをやりたいと思った動機です。美味しいものを食べたら笑顔になれますから”と言って、始めたということです。
 けれども、出店の際の借金の返済と仕事に追われ、お客が来ないと不安になり、つらい時期もあったようです。でも、そんなときにふと気づいたことがあったと言います。
“ここは神さまがいろいろなことを備えて始まったお店。ならば私が気をもんでもしかたがない、神さまにお任せしよう”。それ以来、肩の荷が下りて、お客さんも自分もゆったりできる店になった、ということです。
 Nさんは、仕事の疲れや不安というつらさの中で、神さまのご計画を思い出し、神さまにお任せしようと思い直したのだと思います。そうすることで心の平安を得ることができた。神の御言葉に従って生きる確かさを味わわれたのです。そして、お客さんも自分もゆったりできる平和を、そこに実現しているのだと思います。

 今日の御言葉を黙想し、Nさんの記事を読みながら、私は最近、色んなことに不安を感じ、気をもみ、ネガティブな信仰になっている自分に気づかされました。聖書の言葉に聞き従い、神さまにお任せしていない自分に気づかされました。
 主イエスが、エルサレムとそこに住む人々のために、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら‥」(42節)と泣いておられますが、主イエスは私の不信仰をも悲しみながら、お任せすれば大丈夫だと語りかけてくださっている気がします。
 人間の力、自分の知恵ですべてを行おうとすれば、そこには、やがて起るユダヤ戦争とエルサレム陥落(かんらく)と同じような人生の破綻(はたん)が待っているかも知れない。けれども、神のご計画を信じ、聖書の言葉に従って歩むとき、困難の中にも不思議と神の導きがあり、神の平和、平安を経験することができるのではないでしょうか。そのように、自分の人生に、神が訪れてくださっていることを信じて味わう者となりたいと願っています。


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