2014年6月8日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書19章45〜48節
  説教者  山岡 創

「 祈りの家と強盗の巣 」

 先週の礼拝で、ルカによる福音書19章28〜44節から、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになったことをお話しました。それは、ユダヤ人の伝統の祭りである過ぎ越しの祭りの時でした。当時、海外に住んでいたユダヤ人も多く、すべてというわけにはいかなかったでしょうが、多くのユダヤ人がエルサレムにやって来ました。主イエスもまた、ガリラヤ地方から上京して来たのです。
 エルサレム神殿の前には、神さまに献げる動物を売る店や、外国の貨幣を両替する店が立ち並んでいました。特別な祭りの日でしたから、普段の何倍もの店が立ち並び、にぎやかだったに違いありません。

 ふと日本のお祭りの光景を思い起こします。私は川越市で育ちました。川越には、川越祭りという氷川神社の神々を祭る大きなお祭りがあります。20台以上ある山車(だし)がお囃子(はやし)を奏でながら市内を巡り、途中で他の山車と遭遇すると、曳っかわせと言って、お互いにお囃子の勝負をする様は圧巻です。私も子どもの頃、住んでいる六軒町の山車を引いて歩きました。今でも祭囃子を聞くと、何だか血が騒ぐようなところがあります。もしも宗教抜きだったら、あの山車の上でお囃子をやってみたい、山車の前で提灯を持ち上げてワーッとやってみたいような気持があります。
 祭りを彩るもう一つの光景は、数多くの屋台です。杏子飴(あんずあめ)やお好み焼き、射的(しゃてき)や金魚すくい、他にも色々な店が街中に立ち並び、にぎわいます。特に蓮馨寺(れんけいじ)の境内は賑やかです。
 私は今日の聖書箇所を読む度に想像するのですが、もしも誰かが蓮馨寺の境内で、“こんなのは、本当の祭りじゃない!、神さまは喜ばないぞ!”と騒いで、立ち並ぶ屋台をたたき壊し始めたとしたら、どうなるだろうか?間違いなく警察に通報され、間もなく取り押さえられるだろうなあ、と思うのです。そして、実は主イエスがエルサレム神殿でやったことは、まさにそういう行為、一種の暴挙だったと思うのです。
「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始め(た)」(45節)と書かれています。ルカによる福音書では、その光景を、この一言でまとめていますが、他の福音書では、商売をしている人々の机や椅子をひっくり返し、両替の金をまき散らし、縄で鞭をつくって売られている羊や牛を境内から追い出したと記されています。祭りを妨害する、まさに暴挙だったのです。
 だから、神殿を管理している祭司長や、律法学者、民衆の指導者たちは、主イエスを取り押さえようとしました。取り押さえるどころか、「イエスを殺そうと謀(はか)った」(47節)とあるように、こちらもある意味、暴挙ですが、とにかくどんな手段を用いてでも主イエスを止めようとしたのです。
 ところが、これもまた不思議なことですが、主イエスのその行為は取り押さえられなかった。止めることができなかった。なぜなら、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」(48節)です。そのために主イエスに手出しをすることができなかったのです。民衆は、主イエスの暴挙とも受け取れる実力行使を、その後の話を聞いて、主張を聞いて理解し、支持したのでしょう。

 いったい主イエスはエルサレム神殿のどこに問題を感じたのでしょうか?神殿では例年のように祭りが営まれていました。神さまを祭り、礼拝するために、動物の供え物が献げられ、献金がなされていました。けれども、そのような礼拝の陰で、人々が商売をし、もうけている。そこに、主イエスは“偽善”を感じたのです。
 もっとも、商売と言っても、すべて礼拝に直接関わることではあります。神殿に献げるお金はユダヤの貨幣と決められていたので、海外から来た人々は、普段使っているお金を両替する必要がありました。また、神さまへの感謝や罪の赦しのために献げられる動物は何であれ、神さまに失礼のないように、傷のないものと定められていました。海外から長旅をして連れて来ると、途中で傷ついたり病気になったりする恐れがありますし、神殿で傷がないとお墨付きをもらうには、とても面倒な手続きがあったようです。そのような面倒を避けるために、既に検査済みの動物が売られていました。だから、両替や動物販売は、人々がスムーズに礼拝ができるようにするための便宜として必要であり、不当なものではないと認められていました。しかし、それによって商売人たちは、かなりの手数料を取ってもうけていたでしょうし、その儲けの一部は神殿の祭司たちにも納められていたことでしょう。
 両替や動物売買は礼拝のために必要なことと正当化し、しかしその陰で、商売に関わる人たちが私腹を肥やし、自分の欲望を満たしている。その実態に、主イエスは偽善を感じたのです。神さまと神殿を利用し、金儲けをする人々の強欲な心を見たのです。神さまのものである神殿を盗み、自分たちの利得のために利用する姿を見たのです。それが「強盗の巣」(46節)と主イエスが非難された理由です。そして、その行為と言葉は、神殿での礼拝に何か釈然としない、納得のいかないものを感じながらも、従っていた人々の心に、その通りだと受け入れられたのです。

 主イエスが願ったもの、それは「祈りの家」(46節)でした。それは、聖書の言葉を通して示された、父なる神の御(み)心でした。そして、「祈りの家」を造ることは、現代の私たち、現代の教会に対する神の御心、主イエスの願いでもあります。
 礼拝が守られ、祈りがなされていれば、「祈りの家」と言えるのか?そうではありません。表向きは礼拝と祈りがなされていても、その陰で、私たち人間の利益が追求されたり、自分たちの都合が優先されているのでは、「祈りの家」どころか「強盗の巣」になってしまいます。では、教会が真に「祈りの家」となるには、何が大切でしょうか?
 私は、詩編51編18〜19節の言葉を思い起こします。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨(みむね)にかなうのなら、
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔(く)いる心を、神よ、あなたは侮(あなど)られません」。
 神の御心、神の願いが何であるかを考え、それによって自分たちの罪に気づき、自分中心な願望や主張、都合を斥(しりぞ)ける。そのような「打ち砕かれ悔いる心」こそが、礼拝を本当の礼拝とする。祈りの家を本物の祈りの家とするのです。
 そして、私たちの願望や主張、都合が罪だと気づかされ、打ち砕かれるのは、「イエスの話に聞き入る」ときです。私たちが悔い改めへと導かれるのは、神の言葉を受け止めるときです。

 今日は聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)ペンテコステでした。弟子たちに、約束の聖霊が天から降り、教会が誕生した記念日です。今日の聖書箇所には“聖霊”という言葉は一度も出てきません。けれども、もし聖霊との関わりがあるとすれば、それは、主イエスが話をされた時、御(み)言葉を語られたときです。聖霊はしばしば、神の言葉を通して私たちに働きかけます。神の言葉に聞き入り、神の御心を受け止めるとき、私たちは赦され、愛されている喜びと感謝を感じたり、自分の罪に気づいて悔い改めへと導かれるのです。
 ごく普通に信仰生活を過ごし、礼拝を守っていると、自分が自己中心になって、自分の欲望や都合を優先させていることに、なかなか気づかないこともあります。だからこそ、絶えず主イエスの言葉を、自分自身への直接の語りかけとして、私たちの教会への語りかけとして聞くことができるように、聖霊によって心を開いていただきたいと思います。


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