2014年6月15日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書20章1〜8節
  説教者  山岡 創

「 天に従うか、人に従うか 」

 「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(2節)。
 私が皆さんからそのように問われたら、いったい何と答えようか?ふと、そう思いました。私は、なぜ教会の礼拝において説教ができるのか。主イエスに代わって、主イエスのように神の言葉を取り次ぐ「権威」をだれに与えられたのか。当たり前のように毎回している説教の根本を、ふと考えさせられました。
 「権威」ということからちょっと離れて、私がなぜ、説教を語っているのか、語ることができるのかと言えば、それは、私がこの教会の牧師・説教者だからです。では、どうして私は、坂戸いずみ教会の牧師となったのか。皆さんに選ばれ、招かれたからです。
 教会には、教会総会があります。教会員が議員となって、教会の方針や計画、予算、色んなことを決める最高会議です。1992年にこの教会が始まる時、私は、この教会の教会総会で牧師に選ばれ、招かれ、承認されたのです。当時はまだ、教会がこれから始まるところでしたから、厳密に言えば、教会総会はまだなかったのですが、それに代わる教会会議で選ばれ、招かれ、承認されたのです。
 教会総会にはそのように、自分の教会の牧師を決める決定権があります。ついでに言うと、牧師を解任し、やめさせる決定権もあります。自分たちの教会の牧師が、礼拝の説教において神の言葉を語っていない、福音を語っていないと判断したら、あるいは、教会の牧師としてふさわしからぬ言動があると判断したら、教会総会は牧師の解任を決議することができるのです。それだけの「権威」を教会総会は持っているのです。
 だから、私が牧師として、この教会の礼拝で説教を語る「権威」は、教会員一人ひとりから成る教会総会によって与えられたと言うことができます。
 では、それは「人」から与えられた権威なのでしょうか。そうではありません。私たちは、教会総会には聖霊が働く、そして、総会を通して神さまの御(み)心が実行されると信じます。だから、教会総会によって与えられた権威は、人によって与えられた権威ではない。神さまから与えられた権威です。天から与えられた権威、神の権威です。
 ということで、最初の問いかけに戻って、私は何の権威で、だれからの権威で、神の言葉である説教を語ることができるのかと言えば、それは、神さまによって与えられた神の権威によってだ、ということになります。
神の権威を与えられている。だからと言って、牧師が偉そうにしてはなりません。自分は偉いと勘違いしたら終わりです。牧師は神の権威を預けられているだけです。権威を持っているのは神さまです。偉いのは神さまです。その神の権威の前で、牧師は小さくならなければならない。小さくなって、自分の思いや主張ではなく、神さまの御心が何なのかを謙虚に探し求め、神の御心を語っているか、実行しているかを問い、自分が間違いを犯していないかを反省する必要があると思うのです。
 もちろん、それは牧師だけのことではありません。牧師に権威を与える教会総会もそうです。偉そうにして、自分たちの考えで、総会の権限を使うのではなく、神さまの前に小さくなって、真摯(しんし)に、謙虚に、神の御心は何かを祈り求め、実行していく必要があります。そして、それは教会総会を構成する教会員一人ひとりが、神さまの属する一人ひとりが、そのような信仰の心で生きることが求められていると思うのです。

「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。
 このように主イエスを問いただそうとした祭司長、律法学者、長老たちには、そういう信仰の心が欠けていました。神さまの前に、小さくなって、自分自身を問いただそうとする謙虚な信仰に欠けていました。最初から、自分は正しい、主イエスは間違っている、だから主イエスに間違いを認めさせる、という考えなのです。
 事の発端は、直前の聖書箇所にあるように、主イエスが神殿から商人たちを追い出した事件でした。神殿に参拝に来る人々に、神さまに献げる動物を売ったり、外国のお金を両替したりするサービスを、主イエスは、神殿を利用し、神さまを利用して金儲けをし、私腹を肥やす偽善だと非難しました。「祈りの家」を「強盗の巣」(46節)にしていると言って、神殿の境内から商人たちを力ずくで追い出すという実力行使に出たのです。しかし、そのような主イエスの行動は、祭司長たちの目には、神殿礼拝の秩序を乱し、神殿を管理する彼らの権威に逆らう暴挙と映りました。そのような主イエスが、神殿の境内で、自分たちの許しも得ずに、「民衆に教え」(1節)ている。一体この男は、何の権威があって、神殿をめちゃくちゃにし、境内で神の教えを説教しているのか?本当は、すぐにも取り押さえたいところなのです。けれども、民衆が主イエスを支持し、夢中になってその教えを聞いているので、それができない。それで、主イエスの行動の権威、教えの権威は何かと問いただすという形になった。主イエスが答えられなければ、違反だと言い立てて、捕らえることができるからです。

 主イエスは、祭司長たちが“初めに答え有りき”だということを見抜いていました。自分たちが正しい、イエスは間違っている、という答えです。だから、彼らには、一緒に祈り、真摯に話し合って、権威とは何か、ここに神の権威はあるかと答えを尋ね求めていく謙虚な姿勢が欠けていました。そもそも、だれが神の権威を持っているかなんて、人間には分からないのです。“絶対にこの人が持っている”などと言うことはできません。私たちにできるのは、神さまこそが唯一の権威だと認めて、自分を権威にしないこと。自分が絶対に正しいとしないこと。神さまの前に小さくなって、自分は間違っていないかと問いただすことだけです。そのような者同士が、何が神さまの御心か、どこに神の権威があるかと、互いに祈り合い、話し合って、考えていくことができるだけです。
 けれども、そういう姿勢が祭司長たちには欠けていました。自分たちは正しい、神の権威は自分たちにある、イエスは間違っているという反省のない主張だけを最初から持っていたからです。だから、主イエスも、共に語り合うことは無理だと判断されたのでしょう。「何の権威で‥」と問う祭司長たちの問いかけに、まともにお答えになりませんでした。もし祭司長たちのことを、話の通じる相手だと、共に語り合うことのできる相手だと思われたら、主イエスは、“それは、神の権威だ。神から与えられた権威だ”と、お答えになったでしょう。そして、真摯に祭司長たちの話し合われたことでしょう。
 けれども、それはできないと判断した主イエスは、逆に彼らに問い返されました。
「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(4節)。
 ヨハネは、ユダヤのすべての人々に、神さまの前に悔い改めることを説教して、悔い改めのしるしとして洗礼を授けた人物です。自分は正しい、神の御心に適っていると思い込んでいたユダヤ人に、“本当にそうか”と問いかけたのです。そして、主イエスもまた、ヨハネから洗礼をお受けになりました。
 今は亡きヨハネの教えと行動、それは天からの神の権威によって行ったものか、それとも自分の人間的な考えで行ったものか、どちらだと主イエスは問われたのです。
 祭司長たちの答えには、信念がありませんでした。本当は「人からのもの」だと言いたいのです。でも、そう言えば民衆の信頼を失ってしまう。「天からのもの」だと言えば、「なぜヨハネを信じなかったのか」(5節)と主イエスに責められる。そのような自分たちの立場、自分たちの損得を考えて、「分からない」(7節)と曖昧(あいまい)な、誤魔化(ごまか)しの答えをしました。
 損得を考えて言葉や態度を変える。それはまさに、神さまの権威の前に謙虚になって、自分が正しいのか、間違っているのか、自分の善悪を問いただそうとしない人間の取る行動だと思います。そのような人間に対しては、主イエスもまた、何もお示しにはならないのです。

 主イエスはその行動によって、その言葉によって、祭司長たちの生き方を、その信仰を問われています。祭司長だけではなく、私たちの生き方と信仰をも問われています。神さまの御心を権威として、自分を見つめ直し、謙虚に、真摯に生きる姿勢があるかどうかを問われているのです。私たちにできることは、この主イエスの問いかけの前を通り過ぎないことだけです。
 私たちは、鏡の前に立って、自分の身だしなみ等を見直し、整えます。それと同じことが、私たちの“心の身だしなみ”にも必要だと思います。私たちの心を映す鏡は聖書の御(み)言葉です。聖書によって示される主イエスの行動と言葉です。この鏡の前を通り素通りしないこと。自分は問題ない、自分は関係ないと、自分のことは棚に上げて通り過ぎ、あの人は、この人は、と他人のことばかりを気にする。非難する。それでは、まことに虚(むな)しい信仰になります。
 主イエスは、私たちのために、ご自分の正しさを捨てて、命をお懸けになるほどに、私たちを愛してくださいました。その主イエスが、聖書を通して語りかけて来る神の言葉によって、素通りせずに、自分自身を問い直す。その時、神の権威は、本当に“権威”となるのだと思います。信仰が、本当に信仰になるのだと思います。


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