2014年7月13日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書20章20〜26節
  説教者  山岡 創

「 神に返すべきもの 」

 「彼ら」(20節)は「機会を狙って」(20節)いました。主イエスを陥(おとしい)れる機会を狙っていました。なぜなら、主イエスの行動と非難によって、彼らの権威は痛く傷つけられたからです。「彼ら」というのは、直前の19節に記されている「律法学者たちや祭司長たち」のことです。
 19章28節以下に、主イエスがユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りに参加するために上京し、エルサレムにお入りになったことが記されています。それ以来、主イエスと「彼ら」の対立は表面化しました。それは、主イエスが彼らの権威を逆なでするようなことをしたからです。
彼らは、ユダヤ教の指導者たちでした。律法学者は神の掟である律法を民衆に教え、祭司長たちはエルサレム神殿での礼拝を司っていました。ユダヤ教の指導者であるということは、単に宗教の指導者であるだけでなく、同時に社会的、政治的な指導者でもありました。そのような指導者である彼らの権威を、主イエスは、神殿礼拝の秩序を打ち壊すことによって逆撫でしたのです。
エルサレム神殿では、数百年来、神に動物の献げ物をささげる礼拝(れいはい)が守られてきました。律法では、その動物は疵(きず)のないもの、つまり神さまに対して失礼のないものと定められていました。けれども、エルサレム神殿にやって来るまでに、連れて来た動物が疵付いたり、病気になったりするかも知れません。そこで、神殿の境内では、疵なしとお墨付きの付いた動物が、商人たちによって争うように売られていました。商人たちは、それによって多くの利益を上げ、その一部は神殿に納められ、祭司長たちの懐(ふところ)を潤(うるお)していました。疵のない動物を売り、礼拝のために便宜(べんぎ)を図る。その建前の裏で、公然と金儲けが行われている。その様子を見て、主イエスは、ここは「祈りの家」ではなく「強盗の巣」(19章46節)だと非難して、商人たちの机や椅子を引っくり返し、鞭を振るって動物を境内から追い払いました。「彼ら」は主イエスを捕らえようとしましたが、民衆が主イエスを支持していたので手が出せませんでした。自分たちが定めた神殿礼拝のシステムを否定され、ぶち壊された「彼ら」は、指導者として権威をいたく傷つけられたわけです。

それ以来、「彼ら」は「機会を狙って」いました。主イエスの権威と信望を失墜させ、民衆から引き離し、合法的な理由で捕らえ、処刑するチャンスを狙っていたのです。彼らは、「正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権威にイエスを渡そうとした」(20節)とあります。つまり、彼らは“スパイ”を主イエスのもとに送ったということです。スパイは、自分がスパイだと見破られないように、いかにも主イエスの教えを真摯に聴く民衆の一人を装いました。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」(21節)。思い上がった人間が聞いたら、いかにも喜びそうな殺し文句で主イエスを油断させ、自分たちがスパイだということをカモフラージュしようとしました。しかし、その正体は主イエスにはバレバレでした。
 スパイたちは、主イエスに正体を見抜かれていることも知らずに、質問を続けました。
「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(22節)。
 税金問題は、だれもが関心を持つ問題です。それによって自分の生活がどの程度大変になるか、心配だからです。私たちも、4月に消費税が8%に上がった時は、どうなることかと、ちょっと不安でした。
 ユダヤ人にとって、税金問題は、単に生活と暮らしの問題だけではありません。ユダヤ人のプライドに関わる問題でした。当時、ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。だから、税金はローマ帝国に、ローマ皇帝に納めていました。自分たちは、天地を創造した神に選ばれた民族だと自負していたユダヤ人にとって、これは屈辱でした。その屈辱をかみ殺して、彼らは納税していました。だから、周りにいたユダヤ人の民衆は、固唾(かたず)を飲んで主イエスが何と答えるか、耳を傾けたに違いありません。
 この質問は、とてもずる賢い問いかけです。と言うのは、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っている、つまり納めよと言えば、ローマによってプライドを踏みにじられているユダヤ民衆を失望させ、その信望を失うことになりますから、「彼ら」にしてみれば捕らえやすくなります。また反対に、律法に適っていない、納めてはならないと答えれば、民衆は満足するでしょうが、ローマ帝国に対する反逆罪として、帝国から派遣されている「総督の支配と権力」に引き渡され、処断されることになります。だから、どちらに答えても、主イエスにとって不利という質問を「彼ら」は仕掛けてきたのです。
 そのような致命的な「たくらみ」を仕掛けられて、しかし主イエスは、彼らに、税金として納めるデナリオン銀貨を取り出させ、そこにローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることを確認した上で、「彼ら」に言われました。
「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(24節)。
皇帝のものは皇帝に、つまり税金は納めよと言うのですから、反逆罪でローマの官憲に引き渡されることはありません。同時に、神のものは神に返せと言うのですから、民衆の信望を損なうことはありません。その答えに、スパイたちは言葉尻をとらえることができず、驚き黙ってしまったということです。

 いつの間にか、問う者と問われる者が入れ替わっています。最初はスパイたちが、主イエスに問いかけていました。けれども、最後の一言で、主イエスが問う者に、スパイたちが問われる者に入れ替わっています。“あなたは神に返すべきものを返しているか?”スパイたちは、主イエスの言葉によって、この問いかけの前に立たされたのです。もっと言えば、神さまの前に立たされたのです。否、彼らだけではなく、周りで聞いていた民衆も、そして私たちも、神さまと向かい合わされ、問われているのです。あなたは神に返すべきものを返しているか、と。
 先週の礼拝で扱った〈ぶどう園と農夫のたとえ〉を読んで以来、神さまに返すべきものとは何だろうか?と考えさせられています。そのことを思い巡らしながら、ふと思い起こしたのが、ローマの信徒への手紙12章1〜2節でした。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御(み)心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。
また、コリントの信徒への手紙(一)6章19〜20節にも次のように書かれています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊(せいれい)が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」
自分の体を神に献げ、神の御心を、神に喜ばれる善いことをわきまえ、それを実行することで、神の栄光を現すような生き方、それが神のものを神に返すことだと聖書の御(み)言葉から教えられています。
 では、具体的にどのように生活し、行動し、語ることか、その具体的な答えは聖書の中には書かれてはいません。自分が置かれている生活、家庭や職場とその人間関係、また政治や社会の状況の中で、何が神の御心に適い、神の栄光を現すことになるか、自分で考え、探り当てるしかないのです。特に、今日の聖書にあった「皇帝のものは皇帝に」という御言葉から言えば、日本という国家の政治や社会の中で、どのように生きるかを問われているように思えます。
 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、というのは、私たちが、政治と宗教は別物として分けて考えよ、ということではないと思います。私たちの生活を守り、支えてくれる日本の政治を、神さまがお立てになったものとして、原則承認する。けれども、もし政治が神の御心に適わず、悪の道を進んでいると判断したら、これに反対し、抵抗し、神の御心に適うように修正する。それが、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すという教えだと思うのです。
 今、日本の安倍政権は、集団的自衛権を閣議決定しました。そのことに抗議するデモが、国会議事堂前や各地で起こりました。その中には、かなりのクリスチャンが信仰的信念で加わっていたことと思います。憲法9条に触れる武力行使の問題を、私たちはどのように考えるのか。ここにも答えがあるわけではありません。私たちが、自分で考え、探り当てる必要があります。デモに加わったクリスチャンは、それが神さまから示された答えだと自分なりに探り当てたのです。でも、私たちにとってはまた別の答えがあるかも知れません。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この御言葉は、大きな生き方でもあり、同時に、身近な小さな生き方でもあります。私たちは、自分のような者が神に愛される者とされた、その喜びと感謝を現すことができるような生活を、ほんの少しでもクリスチャンとして心がけていきたいと願います。


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