2014年7月27日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  創世記22章1〜14節
  説教者  山岡 創

「 神は備えてくださる 」

 子どもチャペルの礼拝で、子どもたちは、アブラハムさんの物語を、7月の間、聞き続けて来ました。神さまの命令によって、住み慣れた故郷を離れ、旅立ったお話。神さまの預言により、100歳にして、90歳の妻サラとの間に、待望の息子イサクが生まれるお話。そんなお話を聖書から聞いて来ました。
 その後も、アブラハムさんには色んな出来事が起こります。もう一人の妻ハガルとその息子イシュマエルをサラがいじめるので、どうしたら良いか。また、自分が飼っている家畜に水を飲ませるために井戸を掘ったら、その井戸を他人に奪われてしまって、どうしたら良いか。両方とも、なかなか難しい問題、悩みです。
 けれども、その二つの問題とも、神さまが“こうしたらいい”と教えてくださり、助けてくださり、解決していきました。“困難や問題が起こっても、神さまが導いてくださる”。アブラハムは、そのように信じるようになっていったでしょう。

 ところが、「これらのことの後で」(1節)、神さまは、もっと大きな困難を与えて、「アブラハムを試された」(1節)と、今日の1節に書かれています。「試された」ということは、テストした、ということです。
 中学生や高校生は、期末テストが終わりましたね。大学生は前期のテストの真っ最中でしょう。けれども、神さまのテストは、そのような机の上でするペーパー・テストではありません。“えーっ、どうしてこんな事が!?‥‥”と思うような困難を与えて、私たちの心をテストされるのです。そういう困難があっても、神さまを信じるか、ということを試されるのです。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを‥‥‥焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2節)。
神さまは、アブラハムに、こうお命じになりました。これ以上の辛(つら)い、大変な困難はない、と言ってもいいほどの神さまの命令です。“えーっ、どうしてそんな事を!?‥‥”と、アブラハムさんも口には出していませんが、心の中では叫んだに違いありません。欲しくて欲しくて、でもなかなか与えられなくて、100歳にしてやっと生まれた愛する息子、祝福を受け継ぐ後継ぎです。“そんなこと、いくら神さまの命令でも聞けるもんか!”と拒絶し、逃げ出したとしても不思議ではありません。
けれども、次の日の朝、アブラハムさんは息子イサクを連れて、神さまが命じる山に向かいました。三日間の旅路だったとあります。どんなに重たい気持で、この三日間をアブラハムさんは歩いたことでしょうか。
三日目にその山が見えました。アブラハムは二人の召使に、その場で待っているように伝え、イサクに薪(まき)を背負わせて、その山に「礼拝(れいはい)」(5節)をするために向いました。 
当時の礼拝は、神さまに献げ物をささげることが中心でした。自分の飼っている羊や山羊を薪(まき)の上で燃やして焼き尽くし、そのおいしそうな薫(かお)りと煙を、天にいらっしゃる神さまに届けるのです。けれども、今回その献げ物は、動物ではなく、一人息子のイサクです。
一方のイサクは無邪気(むじゃき)なものです。父であるアブラハムと歩きながら、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(7節)と、自分がその献げ物にされるとも知らずに尋ねるのです。その問いかけにアブラハムは、
「わたしの息子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(8節)と答えました。イサクはその答えで納得したかも知れませんが、アブラハムの心の中は、竜巻(たつまき)のような嵐がゴーゴーと吹き荒れていたでしょう。“どうしてこんなことを?!”という叫びと、“神さま、やめさせてください”という祈りと、“いっそ神さまに従わず、逃げてしまおうか”という衝動(しょうどう)が渦巻いていたに違いありません。そして、その心に渦巻く嵐を抑え静めるのは、「神が備えてくださる」と信じる信仰以外になかったでしょう。
 山の上に着きました。アブラハムはイサクを縛(しば)り、薪を組んで作った祭壇の上に載せました。そして、自ら刃物を振り下ろそうとした刹那(せつな)、神さまがそれを止めました。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏(おそ)れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12節)。

 イサクは助かりました。“神さま、そこまでして私たちの信仰を試さなくてもいいでしょう?!”と思うような試練は終わりました。けれども、私たち自身、人生において、まさに息子をささげなければならないような試練に見舞われることがあると思います。
 先ほど讃美歌21・533番を歌いました。
  どんなときでも どんなときでも 苦しみに負けず くじけてはならない
  イェスさまの イェスさまの 愛を信じて
  どんなときでも どんなときでも 幸せをのぞみ くじけてはならない
  イェスさまの イェスさまの 愛があるから
これは、1967年に亡くなった高橋順子さんという女の子が作った讃美歌です。順子さんは骨肉腫(こつにくしゅ)という難しい病気で、7歳でその命を失いました。でも、イエスさまの愛を信じて、最後までくじけない。そんな気持で逝(い)ったのでしょう。それはまさに、「神が備えてくださる」と信じ抜いた信仰だったと思います。
けれども、その順子さんを失う、言い換えれば天にささげなければならない親は、家族は、どんな気持だったでしょうか?勝手な想像ですが、“どうして順子がこんな病気で?!”“どうして自分たちは、こんな小さな娘を失わなければならないのか?!”という怒りや悲しみ、納得できない穴の空いたような気持を捨て切れなかったと思います。アブラハムはイサクを返され、雄羊を備えられましたが、このご遺族に、神さまは何を備えてくださったのでしょうか?人生に備えられた何かを、家族の方々は「目を凝らして」(13節)見ることができたのでしょうか。そう信じたいですね。

 私たちも、息子を、娘を、家族を失うことがあります。天にお献げすることがあります。その悲しみ、怒り、空洞のようになった心に、神さまはいったい何を備えていてくださるのでしょうか。今日の御(み)言葉の中に、「目を凝らして」という言葉が4節と13節と2回出て来ました。いつの日か、神が備えられた大切な何かを、凝らした目で、凝らした心で、すなわち信仰で見つけることができたなら、私たちは慰められるでしょう。
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」(14節)と最後にあります。私たちの人生はヤーウェ・イルエです。主である神が備えてくださる場所です。自分にとって都合の良いものばかりが備えられるわけではありません。嫌な出来事、受け入れたくない結果だってあります。けれども、天の父なる神さまは、「求める者に良い物をくださるに違いない」(マタイ7章11節)と主イエスはお教えになりました。神さまは私たちの人生に、きっと「良い物」を備えてくださるに違いない。そう信じて、くじけず、あきらめず、希望を失わずに歩き続けましょう。


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