2014年8月10日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書20章41〜44節
  説教者  山岡 創

「 わたしの主 」

 「どうして人々は、『メシアはダビデの子』だと言うのか」(41節)。
 主イエスは問われました。ご自分と問答し、言葉じりをとらえようとするサドカイ派の人々やファリサイ派の人々、その派の祭司長や律法学者、長老たちに向かって、このように問われました。
 メシアとは、“油を注がれた者”という意味で、旧約聖書において王や預言者など、神さまから何か特別な使命を与えられた人のことです。神に選ばれたしるしとしてその頭に油が注がれました。そういう意味で、メシアは、世の人々のために神さまが送ってくださる“救世主”と考えられていました。新約聖書では“キリスト”とも言われます。
 主イエスの時代のユダヤ人は、この救世主としてのメシアを待ち望んでいました。なぜなら、彼らは当時、ローマ帝国との戦いに敗れ、支配されていたからです。その屈辱に耐えながら、ユダヤの人々は、天地を造られた神が自分たちを祝福すべくお選びになったのだから、その神が自分たちを救ってくださると信じていました。いつの日か、救世主であるメシアを送って、ローマ帝国を打倒し、自分たちを解放し、独立国家を復興してくださると期待していました。しかも、そのようなメシアは「ダビデの子」、ダビデの子孫から現われると思われていました。
 ダビデとは、主イエスの時代から千年も昔、ユダヤ人の王国であるイスラエルの2代目の王でした。対立する周りの諸民族を打ち破り、あるいは同盟し、王国の領土を大きく拡大した英雄です。信仰的には大きな失敗もしましたが、絶えず神さまと向かい合い、神さまに愛された人物でした。旧約聖書・サムエル記に、その姿が描かれています。ローマ帝国の支配が続く中で、ダビデ王は英雄として理想化されていきました。そして、王家であるダビデの血筋から、ユダヤ人を救い、イスラエル王国を復興するメシアが現れると期待されるようになっていったのです。

 ところが、主イエスはその期待を打ち壊しました。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」との問いかけの中に、“そうではないよ”というニュアンスが込められています。その根拠として、主イエスは、旧約聖書・詩編の中にあるダビデの詩を引用されました。詩編110編1節の言葉です。
「主はわたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と」(42〜43節)。
この言葉の最初の「主」は、神さまのことです。天地をお造りになった神、人の命を造り、自分に命を与えて、導き支えてくださる神を、この世界の主人、自分の主人、マスターという意味で「主」と呼んでいるのです。
 次に「わたしの主」というのはメシアのことだとイエスは捉えています。神さまを主と呼ぶダビデ王が、もう一人「わたしの主」と呼ぶ存在がある。それが、神がお遣わしになる救世主メシアのことだと言うのです。と言うことは、メシアは単に、イエスの時代に現れる人間と言うのではなく、ダビデ王が生きていた頃から、時を超えて期待されている存在だということです。神さまと並んで「主」と呼ばれるのですから、神さまと等しい存在だということです。そのような存在、ダビデ王が「わたしの主」と呼ぶ存在が、「ダビデの子」であるはずがない。それがイエスの言おうとしていることです。
「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と44節で言われるとおりです。

 主イエスは、救世主と期待されるメシアは、人々が考えているような「ダビデの子」ではないと言われました。けれども、です。私たちは、メシアはダビデの子ではないと言われる意味を、もう一歩深く掘り下げて考える必要があると思います。メシアとは何者か?と問うことは、結局“イエスとは何者か?”を考えることなのです。その答えをどのように出すかということに、私たちのキリスト教信仰がかかっていると言っても言い過ぎではありません。
 イエスとは何者なのでしょうか?ちょっと大きな話になりますが、ルカによる福音書(ふくいんしょ)全体を考えてみると、その2章で、イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに次のようにお告げになりました。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章11節)。
このように、ルカによる福音書の冒頭で、イエスは救い主メシアであると紹介されています。しかも、ダビデの町で生まれたメシアと言うのですから、ダビデと何らかの関わりを持っているのです。イエスはどのような救い主メシアなのか、その点が問題です。
 少し飛んで19章に、イエスがエルサレムにろばの子に乗ってお入りになる場面があります。ろばの子に乗るというのは、暗に“自分は英雄ではない”という意思表示ですが、そのとき、「人々は自分の服を道に敷いた」(19章36節)とあります。これは、敵を打ち破って凱旋(がいせん)する王を迎える作法ですから、人々はダビデ王のような英雄としてのメシアを期待していたということです。ところが、そのイエスが、英雄どころか神殿で無作法とも言える大暴れをしました。神を利用して儲(もう)けている神殿礼拝(しんでんれいはい)の正体を暴き、神さまに喜ばれる礼拝とするためです。しかし、神殿を管理している祭司長たちは当然、イエスを詰問(きつもん)しました。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(20章2節)。この詰問はつまり、“お前は何者なのか?、主である神から権威を与えられたメシアなのか?”と問うているのです。そのような一連の流れがあって、今日の聖書箇所で、イエスは、自分は救い主メシアとしてこの世に来た。けれども、人々が期待しているような「ダビデの子」としてのメシアではない、という答えを出してきているのです。
 けれども、それはダビデの子孫、ダビデの血筋ではない、という意味ではありません。ルカによる福音書は、イエスがダビデの子孫であることは否定していません。そうではなくて、ダビデ王のように異民族という敵と戦い、打ち破るような政治的な英雄としてのメシアではない、と主張しているものと思われます。その点を勘違いして、メシアはメシアでも間違った信仰に生きてはならないと注意しておられるのです。
 私たちはともすれば、自分勝手に、“神さまとはこういうお方だ”“イエス様とはこういう方だ”と間違った信仰を抱くことがあります。自分の願い、期待から、“神に救われるとは、こういうことだ”と自分本位なイメージを思い描きます。そして、そういう自分の信仰、自分のイメージと現実がかみ合わないと、思い通りにならないと、期待外れだったと感じ、信仰から、教会から離れていくことがあります。そのような自分本位な姿勢に信仰がなっていないか、私たちは絶えず自分を省みる必要があると思います。信仰は、聖書を通して神の語りかけを聴き、神の御(み)心を考えながら、自分の狭い考えで早合点せずに進むことです。

 イエスとは何者か?、メシアとは何者か?、その答えに、私たちの信仰がかかっていると申しました。礼拝の中で唱える信仰告白とは、実はその答えを言い表わしているのです。ただし、何も考えずに唱えているだけでは意味がありませんし、答えになりません。イエスは「わたしの主」であると心から告白できるようになるとき、イエスのこの問いかけに答える(た)ことになると、私は思っています。
 実は、今日の説教の途中から、私が“主イエス”とは言わず、“イエス”と言い続けて来たことに気づかれたでしょうか。意識して、そのようにしました。と言うのは、私たちクリスチャンである者は、何気なく“主イエス”と言いますけれども、これは当然のことではないのです。教会に来始めて間もない方は“主イエス”という言い方に、“何のこと?”と違和感を覚えたのではないでしょうか。“イエス”と“主”は元々別物なのです。イエスは「わたしの主」であると信じるから、イエスは私の救い主メシアであると信じるから、“主イエス”という呼び方が生まれるのです。
 私たちは、どのようにしてイエスを「わたしの主」と呼べるようになるのでしょうか。それは、復活したイエスと出会うときです。イエスの復活のリアリティーを実感するときです。
 ルカによる福音書には続編、第2巻がありまして、実は使徒言行録がそれに当たります。その使徒言行録2章で、天から神の霊を受けた弟子たち、彼らを代表してペトロが32節以下で次のように語っています。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それでイエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。‥‥‥だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」
この復活したイエスとの出会いから彼らの信仰が、伝道が、教会が始まりました。
 また、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の冒頭、1章3節以下で、こう書きます。
「御子(みこ)は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」
 復活したイエスのリアリティーを感じる。力と出会う。愛と出会う。その出会い方は一人ひとり違います。復活したイエスは、私たち一人ひとりに違う形で、違う内容でアプローチしてくださいます。
 その意味で、私は、主イエスの弟子トマスを思い起こします。ヨハネによる福音書20章にあるエピソードです。弟子たちのもとに、復活した主イエスが現れ、おいでくださったとき、トマスはその場に居合わせませんでした。喜び合う他の弟子たちを尻目に、独り仲間外れにされたような気持を感じたトマスは、“信じない”と意地を張ります。十字架に架けられた釘の跡を見なければ信じないと頑(かたく)なに拒絶するのです。そんなトマスに、1週間後、主イエスは現われてくださり、釘の跡に指を差し込んでも良いから、信じる者になりなさい、とアプローチしてくださいました。意地を張っていることも、とんでもないことを言ってしまったことも分かっていて後悔しているトマスの気持を丸ごと包んで受け止めてくださったイエスに、トマスは復活の力を感じ、愛を感じて、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)と叫んだのです。
 イエスを「わたしの主」と心から信じ、告白することのできる復活のイエスとの出会いを、私たちも、求道の生活、信仰の生活を通して、一度ならず与えていただきたいと願います。


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