2014年8月31日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書20章45〜21章4節
  説教者  山岡 創

「 見せかけでない信仰 」

 見せかけの信仰。私たちの信仰は、ともすれば「見せかけ」になってしまうことがあると思います。神さまへの真実があってこその信仰なのに、それを失い、他人の目を気にした格好付け、言わば“アクセサリー”のようになってしまうのです。そういう見せかけの信仰を、主イエスは、「律法学者」の姿を取り上げながら、弟子たちに、そして現代の弟子である私たちに注意を促しています。

 当時、ユダヤ人社会では、神の掟である律法を守り行うことで、神さまに認められ、救われると信じられていました。律法は、ユダヤ人にとって最も価値あるものでした。その律法を研究し、人々に教える律法学者は、社会で最も尊敬され、評価される存在でした。
 その尊敬と評価に、律法学者たちはいつの間にか慣れてしまったのでしょう。快く感じるようになってしまったのでしょう。そして、人の尊敬と評価を求めて生きる者となってしまったのではないでしょうか。
 彼らは、「長い衣をまとって歩きまわり」(46節)、「長い祈り」(47節)を会堂や街角でしました。そうすることによって、自分が律法学者であることを人々に知らしめようとしました。尊敬され、ほめられるためです。そうであってはならない、それは偽善者の行為だと、主イエスはマタイによる福音書6章でも非難しておられます。また、「広場で挨拶(あいさつ)されること、会堂では上席に、宴会では上座に座ること」(46節)で、自分が尊敬され、評価されていると喜んでいました。
 では、彼らのうちに、神さまへの真実はあったのか。神さまが喜ばれるように律法を守ろうとする真実な信仰はあったのでしょうか。彼らは、「やもめの家を食い物に」(47節)にすると非難されています。やもめは当時、その生活を保障し、守るようにと律法が命じている、社会的、経済的に弱い存在でした。律法学者も、そのことはよく分かっていたでしょう。けれども、律法の弁護士として、やもめの生活を守る上で、結果として大きな手数料を取るようになっていたようです。中には、夫の死後、やもめが受け取った遺産の管理運用を任された律法学者が、それを横領(おうりょう)してしまうこともあったと言います。
 それは極端な例なのでしょうが、いずれにしても、律法学者の信仰が、神さまに対する真実を失い、人の尊敬と評価を受けて自己満足するための「見せかけ」になっている有り様が少なからずあったのでしょう。

 信仰とは本来、神さまとの関わりです。自分が神さまに対して真実に生きてこそ、初めて意味があります。自分の信仰に対する他人の評価や尊敬は問題ではないはずです。
けれども、私たちはいつの間にか、他人の目を気にして信仰生活をするようになります。自分の信仰は他の人からどのように見られているのか、評価されているのか。そのことに一喜一憂したりします。誇ったり、いじけたりします。教会の中で役員に選ばれたり、教団・教区・地区で、委員長や委員に選ばれると、面倒でもありますが、同時にちょっと鼻が高いような気持になったりするのです。そして、そういった評価や尊敬を得て満足するために、「見せかけ」の信仰生活をすることもあるのです。
 しかし、それは信仰本来のあり方ではない。否、それどころか「人一倍厳しい裁きを受けることになる」(47節)と主イエスは警告しています。私たちキリスト者は、この世での人の評価ではなく、人生を終えた後での神さまの裁き、神さまの救いを求めながら生きている者です。であるならば、神さまから人一倍厳しい裁きを受けたのでは、私たちの信仰生活はつまらないものであったということになってしまうでしょう。

 そうならないために、見せかけではない信仰に生きるためには、どうしたら良いのでしょうか?その手がかかりを、主イエスは〈やもめの献金〉の話の中で示してくださっています。レプトンとは、当時の一日働いた労賃と言われている1デナリオンの128分の1の金額です。そのレプトン銅貨を2枚ささげたやもめの献金を、見せかけではない、「だれよりも」(3節)真実な信仰だと主イエスが喜んでくださっているのです。
 今日の聖書の御(み)言葉を読む度に、思い出すエピソードがあります。それは、京都にある同志社大学の創立にまつわる物語です。1874年、アメリカに留学して学んだ一人の日本人青年が、グレイス教会の壇上に上がりました。そのとき、教会では、海外宣教のための大会が開かれていました。青年は涙ながらに、“日本に帰ったら、若者の教育のために、ぜひキリスト教主義の大学をつくりたい。そのために、ぜひ皆さんに協力いただき、献金をささげていただきたい”と訴えました。“千ドル!”、“五百ドル!”、“三百ドル!”、会場からは多額の寄付をささげる声が上がりました。その中で、彼の手にそっと2ドルを渡した農夫がいました。それは、その農夫が自宅まで帰る電車賃であり、持っているお金のすべてでした。自宅は決して近くではなかったと言います。けれども、農夫は“なーに、それぐらい歩く力なら自分は十分持っているから”と言って、帰って行きました。同志社大学を創立した新島襄(にいじま じょう)は生涯、そのときの光景を、この農夫の志を忘れなかったようです。この、言わば“2ドルの志”の上に、同志社大学は建っている。それが同志社の創立、建学の精神です。

 レプトン銅貨2枚をささげたやもめの話を読む度に、私はこのエピソードを思い出します。この話にとても感動し、記憶に焼き付いているからです。
 けれども、同時に、よーく考えてみる必要もある、と感じています。自分がいったい何に感動したのか、何を考え、どうしたいと願っているのか。そしてそれは、主イエスが私(たち)に語りかけようとしていることと果たして同じなのか。今日の御言葉をヒントにして、深く考えてみたいと思っているのです。
 私はどうなりたいのか?あの農夫のようになりたいのです。主イエスがお話してくださったやもめのようになりたいのです。彼らのように献げる者でありたいのです。なぜなら、彼らのうちに、神さまに対する真実がある、真実な信仰があると思うからです。
 では、どこに真実な信仰を見ているのか。神のために自分の犠牲をいとわず、「生活費を全部」(4節)、帰りの電車賃として持っていたお金すべてをささげたところです。その潔(いさぎよ)さに感動しているのです。
 そこで注意しなければならないのは、私たちはともすると、たくさん献げるということに、ある種の嫌悪感のようなものを覚えるようになるということです。この話の中で、主イエスが喜び、評価しておられないからです。人から金持ちだと思われるのが嫌だからかも知れません。主イエスが2レプトンという金額を取り上げたのは、分かりやすいからです。2レプトンというのは、この世の価値観からすればごくわずかな金額として評価を受けません。たくさんの金額の方が評価されます。そういうこの世的には価値のない金額の献金が、その信仰の真実さのゆえに神さまに喜ばれるという信仰の価値観は、金額が少ない場合を例に取った方が分かりやすいからです。だから、千ドルだろうと、五百ドルだろうと、1デナリオンだろうと百デナリオンだろうと、それがいけないわけではなく、その献金に信仰の真実が、神さまのために自分を犠牲にする心が伴っていることが大切なのです。

 「生活費を全部入れた」、その神さまのためにすべてを献げる信仰が、神さまへの真実として主イエスに喜ばれています。けれども、生活費を全部ささげるなどということが、現実に私たちにできるのか?それは無理でしょう。あのやもめも、全財産が2レプトンというわずかな金額だったから、思い切って献げることができたのかも知れません。私たちは生活費を全部ささげたら、次の日から生活していくことができなくなります。そのような信仰(生活)を主イエスは、神さまは求めておられるのでしょうか?
 そうではないと思います。「生活費を全部」という言葉が示しているのは、文字通りということではなく、1つには、神に献げることに自分の真実が、言い換えれば、“痛み”が伴っているかということです。痛くもかゆくもない献金は真実と言えるか、とうことです。1回の献金が、1冊の週刊誌代以下、喫茶店で飲む1杯のコーヒー代以下で良いのか。1回の月定献金が、散髪代や子どもを塾やおけいこ事に送る月謝以下で良いのか。かつて教団議長をされた辻宣道(つじ のぶみち)牧師が書いていました。とても具体的で、人によっては、自分たちの収入からすれば、それだって大変だと引っかかる方もいるかもしれませんが、もちろん誤解はしないでください。一律にそう言っているのではなく、要するに、自分の収入、生活費に見合った真心が、神さまに対してあるか、そこが大事なところだよと主イエスは私たちに教えておられるのです。
 もう一つ、「生活費を全部」という言葉が示しているものは、自分のすべてを神さまに献げるということ。言葉を換えて言えば、すべてをゆだねる、ということではないでしょうか。
 今日の礼拝の招きの言葉、ローマ12章1節にも次のようにありました。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
 自分の体を献げることは、自分のすべてを献げることだと言って良いでしょう。それは、私たち自身が、自分のものではなく、神のものだからです。
 私たちは、主イエス・キリストの十字架の犠牲によって罪を赦された者であり、その意味で、キリストの命によって神さまに買い取られ、神のものとなったのだと、新約聖書の中に記され、教えられています。神によって、キリストによって、罪深い自分が赦され、取るに足りない自分が愛され、認められ、自分の人生を、自分の生き方を変えられた者は、感謝と謙遜な思いをもって、自分の力で生きているのではなく、神によって生かされている、と感じるようになります。神の愛とその御手(みて)の中で生きている。生かされている。それは言い換えれば、自分が神のものであるということです。その恵みを理屈ではなく認めるようになるとき、私たちの心に、自分を献げよう、という思いが生まれて来ます。犠牲とか痛みとか献身とか、そういった評価など関係なく、喜んで神さまのものを、神さまにお返しする気持で献げようという信仰が生まれて来ます。
 人の見る目は関係なく、自分は神さまのものと認めて、じぶんをささげる信仰生活、それが“見せかけではない信仰”です。


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