2014年9月7日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書21章5〜19節
  説教者  山岡 創

「 命をかち取る 」

もう25年ぐらい前のことになります。私と妻が新婚の頃、栃木県の日光に旅行したことがありました。そこで、東照宮に行く途中だったでしょうか、とても見事な石造りの教会に出会いました。はっきりとは覚えていませんが、幅60センチ、高さが30センチぐらいはありそうな、大きな石を積み上げた礼拝堂でした。聖公会の教会でした。思わず見とれて立ち止まり、入って見てみたいと思い、管理人の方に頼んで中に入れていただきました。とても荘厳な雰囲気のある礼拝堂でした。日光を観光した中で、何よりも印象に残った場所でした。
 今日の聖書の御(み)言葉のはじめに、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」(5節)とありました。きっとこの人たちも、石を積み上げて造られた壮大な神殿の見事さに見とれ、私のように感動していたのでしょう。
 けれども、その感動に水を差すようなことを主イエスは言われました。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)。
 回りくどい言い方ですが、つまりエルサレム神殿は壊されて全壊すると主イエスは預言された、ということです。
 歴史的には、主イエスと弟子たちが活動していた時代から数十年後の紀元66年に、ユダヤ戦争という戦いが起こりました。21章20節以下に、その預言があります。当時ユダヤ人とエルサレムの周辺地域はローマ帝国によって支配されていましたが、その時の総督だった人物がエルサレム神殿の見事な奉納物や装飾品を奪って自分のものにしようとしたため、ユダヤ人の反乱が起こりました。エルサレムの城壁の内に閉じこもったユダヤ人たちをローマ軍が包囲し、激しい戦いは数年に及びましたが、遂に70年にエルサレムは陥落し、ユダヤ人はこの時から“流浪(るろう)の民”となりました。この戦争の際に、エルサレム神殿も破壊されたのです。

 エルサレム神殿の崩壊の預言は、弟子たちの心を騒がせたようです。彼らは、「では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか」(7節)と主イエスに尋ねました。そこで主イエスは、偽の救い主メシアの出現や、戦争や暴動、大きな地震、飢饉(ききん)、疫病(えきびょう)といった、人々とその社会を揺るがすような現象が起こると言われました。
 そう言われると、私たちも思い起こす天変地異の現象があるでしょう。1995年の阪神淡路大震災は私たちを驚かせましたが、その後も中越地震、中越沖地震、北陸地震、そして3年前の東日本大震災と、日本でも近年、大きな地震が立て続けに起こっています。また、今はデング熱が世間を騒がせていますし、西アフリカではエボラ出血熱に感染する人が大量に発生していますし、大雨による土石流のために広島では大きな被害が出ています。
 こういった現象が起こると、それを「世の終わり」(9節)と結びつけて考える人が、いつの時代にもいるようです。けれども、このような現象は多かれ少なかれ、いつの時代にも起こるのです。そして、主イエスは次のように言われています。「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」(9節)。
 当時の人々は「世の終わり」が来ることを期待していました。「世の終わり」と言うと、私たちはどちらかと言えばネガティブに、“この世の滅び”のようなことを想像するかも知れません。けれども、当時のユダヤ人にとっては、“この世の完成”とも言うべきポジティブな期待でした。この世の完成は、神の国の到来・実現と言い換えることができます。神のもとから救世主が遣(つか)わされ、この世を神の国に変える。その時、自分たちは、神の国に入れられ、新しい世界、新しい命に生きるのだと期待していたのです。
 エルサレム神殿が全壊する日、それはユダヤ戦争が起こる日であり、「世の終わり」の日そのものではありません。その意味では、いつの間にか話の趣旨が入れ替わっています。弟子たちは、エルサレム神殿が全壊する日が起こる前の徴について尋ねたのですが、主イエスの答えはいつの間にか、「世の終わり」が来る前の徴の話に入れ替わっています。主イエスの答えでは、エルサレム神殿が全壊するユダヤ戦争も、「世の終わり」が来る前の徴の一つだと捉えることができます。
 「世の終わりはすぐには来ない」。それが、「世の終わり」を期待する当時のユダヤ人、弟子たち、そして教会のクリスチャンたちに対する主イエスの答えでした。天変地異のような「恐ろしい現象」を見て、“世の終わりが近い!”と騒ぎ立てるな、というのです。弟子たちの伝道によって生まれた教会も、世の終わりが近いと期待する信仰を受け継いでいました。そのために、世の終わりが近いなら日常的な生活をしていても意味がない、と落ち着かない生活を、ある意味で投げやりな生活をするクリスチャンも出て来たようです。すぐにも来ると期待していた世の終わりがなかなか来ないことに苛立(いらだ)ち、信仰に失望するクリスチャンも出て来たようです。落ち着いた、継続的な信仰生活ができなくなっているクリスチャンたちに対して、「世の終わりはすぐには来ない」との主イエスの答えは、一時的に盛り上がって、すぐにしぼんでしまうような信仰生活ではなく、日常生活の中で、落ち着いた、継続的な信仰生活をしなさい、との呼びかけだと考えることができます。

 継続的な信仰生活を送る。その中で、当時の教会のクリスチャンたちにとって大きな問題として降りかかって来たのは、「迫害」という苦難でした。
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく」(12節)。
 教会は、十字架に架けられたイエス・キリストを神と信じ、礼拝したために、ユダヤ教から異端、邪教として迫害されました。また、イエス・キリストをのみを神として礼拝し、ローマ皇帝を神と崇(あが)めなかったために、ローマ帝国からも迫害されました。クリスチャンは、地下にある墓場で、隠れて礼拝を守りました。イクスースという魚のマークは、お互いにクリスチャン同士であることを知る暗号でした。そのような迫害の中で、クリスチャンは、家族親族、友人に裏切られることがありました。捕らえられ、処刑され、殺されることもありました。
 既に天に召されましたが、かつて日本基督教団の議長をなさり、私が神学生だった時に、教会実習で大変お世話になった辻宣道牧師は、その著書『教会生活の処方箋(せん)』の中に、子どもの頃の戦争中の迫害の体験を書かれています。辻先生の父である辻啓三氏も牧師でした。ホーリネスという宗派の牧師でした。ホーリネス系の教会は、天皇を現人神(あらひとがみ)として崇めず、イエス・キリストの権威が天皇よりも上だとしたために迫害されました。辻啓三牧師も捕らえられ、牢獄の中で死にました。教会は解散させられました。父親が捕らえられ、生活に困っているさ中、子どもだった辻先生は、役員をしていた教会員のところにカボチャを分けてもらいに行ったことがあるそうです。ところが、その人は、“おたくにわけてやるカボチャはないねえ”と辻先生を追い返したそうです。子ども心に大変ショックと失望を受けたとのことですが、その時の体験が、後で“天地がひっくりかえっても教会の肢(えだ)であることをやめぬ教会員をつくろう”(前掲書9頁)という決意の元になったようです。

 国や同胞から迫害され、家族や友人には裏切られ、「すべての人に憎まれる」(17節)。もうクリスチャンをやめてしまいたくなっても不思議ではありません。そのような中で、主イエスは、「あなたがたの髪の毛の一本もなくならない」(18節)と約束してくださいます。16節では、「殺される者もいる」と言っているのですから、「髪の毛一本も‥」と言うのは矛盾しています。けれども、これは単に“命”の問題ではない。生き物が持っている、地上の命の問題ではない。神に愛され、神のものとなっているあなたのすべて、神から奪える者はだれもいない、と言っているのです。それほどに、あなたと神は堅(かた)くつながっている。神はあなたのことを、その手の中に、しっかりと握っていてくださるということです。
だから、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(19節)と、主イエスは弟子たちを、教会のクリスチャンたちを励ますのです。19節で言われている「命」も、単に生き物が持っている地上の命のことではありません。新約聖書の原語であるギリシア語では、プシュケーという言葉であり、口語訳聖書では、“魂(たましい)”と訳されている、「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」と訳されています。それは単に、命を守り保つという意味ではなく、生きるにしても死ぬにしても、神の手の中にあることをやめない、神のものであることをやめない。そういう生き方のことを言っているのではないでしょうか。
8月24日(日)午後に、教会で映画鑑賞会を行いました。〈少年H〉を見ました。主人公の妹尾肇は、母親が、肇という名前の頭文字であるHという文字を縫い付けたシャツを着ていることから、周りからHと呼ばれます。クリスチャン・ホームで育ったHでしたが、戦争が始まり、その教会の知人である外国人からHがもらった1枚の絵ハガキがきっかけとなり、Hの父親にアメリカのスパイ容疑がかかり、父親は官憲に連れて行かれ、拷問(ごうもん)されます。帰って来た父親の姿を見て、Hは友だちの○○のせいや!と怒りますが、父親はそれをなだめてHに言います。“この戦争はいつか終わる。その時、恥ずかしい人間になってたらあかん!”。
「命をかち取りなさい」という主イエスの励ましから、私は、この父親の言葉をふと思いました。この父親もきっと、神さまのことを思って、こう言ったのではないでしょうか。

 忍耐によって命をかち取る。とは言え、簡単なことではないと思います。このような状況になったら、私たちは、信仰を捨ててしまうかも知れない。自分の身を守るために、人を裏切ってしまうかも知れない。そういう弱さと罪の闇を抱えているのが私たちだと思います。その弱さと罪をご存じだからこそ、主イエスは、「あなたがた」と言い続けます。あなた独りで、とは言われません。あなた独りでは、苦難に耐え切れないだろう。でも、あなたは独りではない。あなたを支える仲間がいる。教会の仲間がいる。だから、互いに支え合いなさいと、主イエスは「あなたがた」という呼びかけに込めています。
 そして、共にキリストを礼拝し、互いに祈り合い、支え合う交わりの中に、神が働いてくださる。聖霊(せいれい)が働いてくださる。必要な言葉を授けてくださる。必要な力を与えてくださると主イエスは約束されます。自分の力では、苦しみを忍耐できないでしょう。けれども、神の力に支えられるとき、私たちは忍耐する者に変えられます。自分でも不思議に思うぐらい変えられます。自分の力に頼るのではなく、神さまに祈り、おゆだねして生きる。そこに、命をかち取る「忍耐」が生まれるのです。


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