2014年9月14日 慶老礼拝説教(大人と子ども)
  聖  書  創世記12章1〜7節
  説教者  山岡 創

「 祝福の源として 」

 今日は〈慶老礼拝〉を迎えました。毎年行っていますが、今年は初めて〈大人と子どもの礼拝〉として行いました。子どもたちも一緒にこの礼拝を守っています。
 私たちの坂戸いずみ教会では、75歳以上の方々のことを思いながら、この礼拝を守ります。礼拝の後で、お祝いの慶老食事会もします。週報の連絡・消息の欄に、75歳以上の教会員の方、普段教会に来ている方のお名前を書いておきました。
けれども、75歳以上の方々が皆、今日の礼拝に出席できるわけではありません。年をとれば何でも思うようにはできなくなります。体が弱くなり、体調が崩れたり、病気になることも多くなります。病院に入院していたり、施設で療養している方もおられます。週報にお名前を書いた方々の半分も、今日の礼拝においでになってはいないでしょう。
でも、今日こうして礼拝においでになった方々は、喜んで礼拝においでになったことと思います。いろんな事情で来られない方々も“礼拝に出席したい”という気持を、いつも持っておられることと思います。あるお年寄りの方が、日曜日に礼拝に出席するために、1週間、体調を整える、とおっしゃっていました。教会に来て、皆と一緒に神さまを礼拝すること、礼拝できることは“喜び”なのです。その喜びは、年を取るほどお感じになるのかも知れないと思います。

 喜びと言えば、今日行っている〈慶老礼拝〉は“老いを慶(よろこ)ぶ”と書きます。漢字を間違えたのではないか?と思った人もいたかも知れませんが、そうではありません。普通は“老いを敬(うやま)う”と書きますが、意図的に音だけ合わせて“老いを慶ぶ”と書く慶老礼拝としています。
 もちろん、老いを敬う気持がないわけではありません。若い者がお年を召した方の人生の経験と苦労を敬うのは当然のことだと思います。特に教会では、50年以上の教会生活をしてこられた方々もたくさんおられ、それは若い人にとっては、敬うべき一つの目標でもあります。けれども、神さまを信じて生きている私たち、信じて集まっている教会にとって、人が人を敬うよりも、神さまがその人の人生を、祝福をもって導いてくださったことを(共に)慶び(喜び)、感謝する方がふさわしいと考えて、老いを慶ぶ慶老礼拝と名付けています。
 けれども、誤解してはならないことがあります。神さまが祝福をもって導いてくださった、と言いましたが、それは過去のことではありません。神の祝福は過去のことだけであって、老いた将来の祝福はないということではありません。これからの祝福が、75歳から始まる祝福があるのです。

 75歳で、アブラ(ハ)ムさんは、神さまから、重大なお言葉をいただきました。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(1節)。
 子どもたちは、あまり転校って、したくないでしょう。新しい町に移って、初めての学校に行くのは不安だからです。アブラムさんにとっても、「生まれ故郷、父の家」を離れて引っ越し、そこで初めて会う人々と新たにお付き合いしていくことは大変だったと思います。特に、年を取ると、新しい場所に引っ越しし、生活し、新しい人間関係を一からつくることは、とても大変なことです。アブラムさんは、どう思ったのでしょう?
 でも、アブラムさんは、神さまのお言葉に従って出発しました。生まれ故郷であり、父の家があるハランを離れ、今まで行ったこともないカナン地方へと向かいました。
 そんなに大変なのに、どうしてアブラムさんは、新しい場所へと出発したのでしょうか。それは、「祝福の源となるように」(2節)という神さまの言葉が心に響いたからではないでしょうか。
 今日の聖書箇所を黙想して、私の心に、この「祝福の源となるように」という御(み)言葉がいちばん深く心に残りました。75歳のアブラムさんに、神さまは「祝福の源となる」という“使命”をお与えになります。75歳になっても、「祝福の源となる」ような生き方ができる。否、むしろ75歳だからこそ、祝福の源となるような生き方ができる、自分の周りの人たちに、祝福を伝える使命を担(にな)うことができるという面があるのではないでしょうか。

 祝福とは何でしょうか?私たちは、祝福ということを“若さ”とか“元気さ”ということと結びつけて考えるかも知れません。逆に、年を取れば、若さと元気さを失い、朽(く)ちていく。そこに祝福はない、良いものはないと考えてしまうかも知れません。けれども、「祝福の源となるように」と言われた神の祝福は、そういうことではないと思います。今、置かれている人生の中で、神の言葉を聞き、神の恵みに気づき、今、与えられている新しい使命に生きていく。そこにこそ祝福はあるのではないでしょうか。
 妻の両親が、80歳と75歳にして、自宅の1階を改装して、デー・サービスを始めました。昨年の12月からですので、まだ1年にもなりません。最初は正直、何もそのお歳で始めなくても‥‥と、心配しました。でも、それはお二人が、神の言葉を聞いて、神さまが自分たちを一つの使命に召してくださっていることを思い、それに従って、置かれた人生の中で生きていこうと決断した結果なのだと思います。これからどうなっていくのか、まだ分かりません。まるで、行き先をはっきりと示されずに出て行ったアブラムの出発と同じようです。けれども、成功失敗に関わらず、その生き様は、今日の聖書の御言葉を読みながら、「祝福の源になるように」との神の言葉に応えて、神の使命に生きようとする生き方なのだと、改めて思い直しました。
 もちろん、高齢の方々が皆、そのようなことができるわけではありません。けれども、祝福の源となるという神の使命に生きることは何も、特に何か新しいことを“する”のでなければできない、ということではないと思います。表面的には変わらない生活かも知れない。否かえって、衰えていくような生活であったとしても、私たちがそこで、謙虚に神の恵みに気づき、喜び感謝するならば、祝福の源にきっとなれるのです。

 私たちは皆、順々に、老いの時を必ず迎えます。けれども、私たちは、老いることを嘆くのではなく、喜んで生きる祝福の源になることができます。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、ご自分の年齢から来る衰えをかみしめながら、膠原病(こうげんびょう)の病と闘いながら、その中で大学の学長・理事長という仕事を続けながら、老いるということにおいて、一番大切な仕事は、このように、ふがいなくなった自分を受け入れて、いつくしむことだと気付きました、と書いておられます。そして、その話の中で、冬は‥‥孤独なわたしに与えられた宝の壷である、という言葉で終わる坂村真民さんという方の詩を引用しておられます。
   冬が来たら
冬のことだけを思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで
むしろすすんで
冬のたましいにふれ
冬のいのちにふれよう
冬が来たら
冬だけが持つ
深さときびしさと 静けさを知ろう
(『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎、114頁)
 老いを人生の冬に見立てて、そのいのちにふれよう、という思いに、渡辺和子さん自身、なかなか簡単にはなれないけれど、そういう生き方を願っていると書いておられます。私たちも、老いといういのちにふれるとき、言い換えれば、神さまが置いてくださった場所、今の自分を受け入れて、にっこりと生きるとき、それだけで、私たちは「祝福の源」だと言って良いと思います。


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