2014年9月28日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  サムエル記下12章1〜9節
  説教者  山岡 創

「 その男はあなただ 」

 子どもチャペルでは、9月の礼拝(れいはい)でダビデの物語を学んで来ました。
ダビデは7人兄弟の末っ子でした。見た目も、力も優れたお兄さんがいたのに、ダビデが神さまに選ばれました。その後、ペリシテ人との戦いの戦場で、たまたま戦っているお兄さんたちに弁当を届けに行ったダビデは、敵の勇者ゴリアトと一騎打ちをすることになり、まだ子どものダビデが、羊を守る石投げで、ゴリアトを倒してしまいました。それもこれも皆、神さまの助け、神さまの恵みです。
 やがてダビデは大きくなってサウル王の家来となりました。そして、サウル王が戦いで死んだ後、その後を継いでイスラエル王国の2代目の王様になりました。最初ダビデは、神さまに感謝し、神さまに従う謙虚な王様でした。けれども、だんだん自分の力にうぬぼれるようになりました。王様だからいちばん偉い。神さま以外だれもダビデ王に命令したり、注意したりする者はいないのです。だんだんダビデ王は神さまの御(み)心に従わなくなり、自分勝手にふるまうようになっていきました。

 そんなある日のことです。ダビデ王のもとに預言者ナタンが来ました。預言者とは、神の言葉を伝える人のことです。ナタンはダビデ王に、こんな話をしました。
ある町に二人の男がいた。一人は金持ちで、とても多くの牛や羊を飼っていた。もう一人は貧しくて、たった1匹の小羊しか持っていなかった。男はその小羊をとても大事に育てた。ある日、金持ちの男の家にお客さんがやって来た。金持ちの男は客をもてなすのに、自分の牛や羊を料理するのが惜しくなった。そこで、貧しい男の1匹の小羊を奪い取り、料理して客に出した。
この話を聞くと、ダビデ王はカンカンに怒って叫びました。「そんなことをした男は死罪だ」(5節)。小羊を弁償するのに4倍のお金を払うべきだ。そんなひどいことをしたのだから。神さまはちゃんと見ているぞ!
 その瞬間、ナタンはダビデ王に向かってきっぱりと言いました。「その男はあなただ」(7節)。そう言われたダビデ王はハッとし、ガックリと崩れ落ちました。いったいダビデ王は何をしてしまったのでしょうか?

 もちろんダビデ王は“小羊泥棒”ではありません。でも、小羊泥棒と同じような、ひどい、悪いことをしてしまったのです。
ダビデ王にはたくさんの家来がいました。その中の一人で、ウリヤという部下がいました。そして、ウリヤの妻はバト・シェバと言いました。このウリヤの妻バト・シェバをダビデ王が奪い取ったのです。ダビデ王には、既に妻が何十人もいました。昔の結婚は、男の人が何人もの女の人と結婚できたのです。何十人も妻を持っているダビデ王が、ウリヤのたった一人の妻を奪った。その罪を、預言者ナタンはあのような小羊泥棒の話にたとえて話したのです。
経緯はこうです。ウリヤが戦場でアンモン人と戦っているとき、ダビデ王はバト・シェバに一目惚れし、不倫をしました。神さまの掟では、他人の妻と不倫をすることは大きな罪で、死刑と定められていました。でも、ダビデは思い上がっていましたから、平気でそれを破りました。ところが、動かぬ証拠ができてしまいました。バト・シェバが妊娠して赤ちゃんができてしまったのです。いくら王様でも証拠があったのでは、やっていないとごまかすことも、言い逃れることもできません。困ったダビデ王は、ウリヤを戦いの激しい最前線にわざと送りました。そして、わざとウリヤを戦死させた後で、独り身になったバト・シェバを自分の妻にして、何事もなかったかのように自分の罪をもみ消したのです。旧約聖書・サムエル記上11章に書かれている話です。

 けれども、神さまはダビデ王の罪を見過ごしにはなさいませんでした。そこで預言者ナタンを送り、小羊泥棒の話をさせたのです。ダビデ王は、その話が自分自身のことだなんて、これっぽっちも思ってはいませんでした。だから、小羊を奪い取った男の罪に激怒し、“こんなひどいやつは死刑だ!”と叫んだのです。ところが、死刑になるべきひどい男とは、自分のことだったのです。
 「その男はあなただ」。そう言われるまで、ダビデ王は、自分の罪に気づきませんでした。私たちも、他人の間違いや罪はよく見えます。分かります。でも、同じことをやっているのに、自分の間違いや罪はあまり見えない。気づかないということがあるのではないでしょうか。なぜなら、私たちは特殊な“眼鏡”をかけて、物事を見、人を見ているからです。それは、他人の罪は大きく見えるが、自分の罪は小さく見える眼鏡です。私たちの、このような自己中心な見方の誤りを、イエス様は次のように指摘され、注意されたことがあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。‥‥まず自分の目から丸太を取り除け」(マタイ7章3〜5節)。おが屑のように小さな罪でも他人の罪なら気づくのに、丸太のように大きな自分の罪には気づかない。それが私たちです。だから、聖書を読む時に、“この話は自分のことではない。自分には関係ない”と思わないこと。“その男(女)はもしかしたら私のことかも知れない”と思って、読んでみること。それが大事です。そうすると、自分の罪や間違いに気づくことができるかも知れません。そのとき、私たちは神さまを感じます。目に見えない神さまの前に立ちます。

 ダビデ王は不倫の罪を犯しました。そして、その罪を隠そうとして罪を重ねました。罪は隠そうとすればするほど、更に罪を犯すことになります。罪が積み重なって、大きくなっていきます。
ダビデ王は、自分の大きな罪に気づきました。そして、「わたしは主に罪を犯した」(12章13節)と認めました。けれども、ダビデ王が自分の罪を告白したとき、ナタンが神さまの赦(ゆる)しを宣言しました。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」(12章13節)。
 ダビデ王はこの時、罪を悔い改める祈りをささげたと言われています。それが、旧約聖書・詩編51編です。その中で、ダビデはこう祈っています。
「‥わたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように」(9節)。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授(さず)けてください」(12節)。
 自分ではどうすることもできない罪があります。償(つぐな)うことのできない罪があります。それはもはや神さまに赦していただき、心を清めていただくしかない。そういう罪があります。その罪を、心から悔い改めるならば、神さまは赦してくださるのです。
 夏の中学KKSキャンプで〈放蕩息子(ほうとうむすこ)のたとえ〉を皆で演じたことを思い出します。父なる神さまは、放蕩息子が罪を悔い改めて帰って来るのを待っています。あの時、息子は、自分の罪は大き過ぎて償えない。自分ではどうすることもできないと感じました。だから、“もはや息子には戻れません。雇い人にしてください”と言おうとしたのです。ところが、父は、走り寄って息子を抱きしめ、喜びのパーティーを開き、元通り“愛する息子”として迎えてくれました。(ルカによる福音書15章11節〜)
 たとえ私たちの罪がどんなに大きいとしても、神さまの愛と赦(ゆる)しはもっと、もっと大きいのです。自分の罪、過ちに絶望する必要はありません。神さまの愛と赦しの下で、放蕩息子はやり直せました。ダビデ王もやり直せました。私たちも、やり直すことができます。新しい人間になって、やり直すことができます。


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