2014年10月5日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書21章34〜38節
  説教者  山岡 創

「 いつも目を覚まして 」

 今日の聖書の御(み)言葉を黙想しながら、3年半目の東日本大震災の時の出来事を思い起こしていました。記憶が明確ではありませんが、あの地震で津波が押し寄せたとき、ある小学校の生徒たちが、とても迅速に、適切に避難をしたという報道があったことを覚えています。生徒たちは、地震の後、グラウンドに避難して、けれども、そこから津波を見て、このままグラウンドにいてはいけないと判断し、校舎の裏の高台へ、高台へと避難した。生徒自身が率先して、上級生が下級生を促(うなが)し、途中で会った一般の人にも声を掛けて‥‥‥確かそのような内容だったと思います。後で、その小学校の先生、生徒たちが報道番組のインタビューを受けたとき、普段から、高台へ避難する訓練をしていたということでした。突然の災害を想定して、それに対処するための訓練を積んでいる。それが、津波から適切に逃げる結果となったのです。
 今日読んだ聖書箇所の直前には、世の終わりの前には、戦争、地震、天変地異等の災害が襲って来ると、主イエスが弟子たちにお教えになったことが書き記(しる)されています。そして、今日の聖書箇所の36節には、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」との主イエスの言葉が記されています。その中にある、起ころうとしている災害から逃れて、という言葉から、ふと先ほどの小学生のエピソードを思い起こしたわけです。津波の被害から迅速に、適切に逃れることができた。その結果から考えると、かの小学生たちは、今日の聖書の言葉で言えば、「目を覚まして」いたと言うことができるのではないでしょうか。災害の想定と訓練ができていた。それを意識して生活していた、ということです。

 主イエスは、「目を覚まして祈りなさい」と弟子たちにお教えになりました。けれども、それは、戦争や地震、天変地異に対してではありません。もちろん、生命を守るということを考えれば当然、そういったことを想定し、逃げる用意が必要でしょう。けれども、主イエスが「目を覚まして祈りなさい」と言われるのは、それらの後に来る天地の滅びと神の国の到来に備えなさい、ということです。その時、神の国の王としておいでになる「人の子」、すなわち主イエス・キリスト御自身の前に立つことができるように、備えなさい、ということです。
 天地がどのように滅びるのか、神の国が、主イエス・キリストがどのように来るのか、私には想像もできません。精神的には、あるいは人生論的には考えられるのですが、具体的に、となると、分かりません。ただし、このような教え、内容は、2千年まえの聖書のおとぎ話だ、で片付けてしまうのではなく、“もし主イエスが今、私のところに来たら‥‥”と想定して生きること、信仰に基づいて生活することが大切なのではないでしょうか。
 例えば、不意にだれかが訪ねて来たとします。それが身内親族の人であれば、家に入れないわけにはたぶんいかないでしょう。その時、もし家が片付いていなかったら、私たちは恥ずかしい思いをするでしょう。訪ねて来たのが親だったら、“何、この部屋は?、だらしがない!”と小言の一つも言われるかも知れない。そういう不意の来客を想定して、常に部屋を片付けておけば、対応ができます。そういう意識を持った信仰生活をしよう、ということではないでしょうか。

 そういう意識を持たずに信仰生活を送っていると、私たちの生活はどうなるのでしょう。主イエスは、「放縦や深酒や生活の煩(わずら)いで、心が鈍く」(34節)なってしまうといわれるのです。
 それで思い浮かべたのが、〈放蕩(ほうとう)息子のたとえ〉です(ルカ15章11節〜)。夏の中学高校生・青年キャンプでは、参加者が3つのグループに分かれて、このたとえ話を劇にして演じました。演じることで、父の気持、弟の気持、兄の気持を考えました。久しぶりに発行する会報に、中高生、青年の感想が載(の)りますので楽しみにしていてください。
 ある父親に二人の息子があり、その弟の方が、自分が将来受け継ぐ分の父親の財産を生前贈与させます。そして、その財産をお金に換えて、遠くに旅立ち、そこで放蕩三昧(ざんまい)の日々を送るのです。放縦な生活をしたことでしょう。深酒もやったことでしょう。その結果、彼はやがて一文無しになり、飢饉(ききん)に見舞われてその日の食べ物にも困るようになり、ユダヤ人でありながら異邦人に豚の世話をさせられるまでに落ちぶれるのです。そうなって弟息子は我に返ります。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」(ルカ15章17節)。つまり、弟息子は、我まま勝手に、やりたい放題できる生活が幸せだ、喜びだ、楽しいと思っていたのですが、いざ、そういう生活を失ったときに初めて、そうではなかったことに気づいたのです。父親の豊かな支えの下で安心して生活できるありがたさに気づいたのです。つまり、彼は目が覚めたのです。自分の力で、自分の意思で、勝手気ままに生きられるのが人生だと思っていた人生観から、神の恵みの下で、神の御(み)心に沿って、神に生かされてこその人生だということに気づいたのです。それが、目を覚ましているということだと思うのです。
 また、「生活の煩い」という言葉から、もう一つ思い浮かべた聖書の箇所があります。それは、主イエスが山の上での説教で、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6章25節)と教えられた言葉です。そこで、主イエスは、「空の鳥」をよく見なさい、「野の花」をよく見なさい、と言われました。空の鳥が神さまによって養われていることを、野の花が神さまによって美しく装われていることに気づくように。そして、人間であるあなたがたのことを、神さまは鳥や花にもまして心にかけ、養い育て、支えてくださるのだとお教えになりました。「生活の煩い」によって信仰が鈍くなっていると、私たちは、“自分が”“自分で”と思い詰め、神さまによって養われ、支えられている恵みを忘れがちになります。目を覚ましているということはやはり、神の下に生かされ、支えられている恵みに気づくということです。
 私も最近、ある種の「生活の煩い」というか、思い悩みで、気持が落ち込んでいることがありました。その時に、9月の慶老礼拝でお話した「祝福の源となるように」との創世記の御言葉を思い起こしまして、“そうだ。自分にも今、置かれたこの場所でやるべきことがある。そうすることによって祝福の源になるという使命が託されている”と思い、気持を持ち直しました。眠っていた信仰が目覚めたのです。神の恵みに気づかせていただいたのです。
 信仰が眠ってしまう。なくなるわけではないのですが眠ってしまう。これはやっかいなことです。普段の生活が順調に行っているから、そういう時は信仰が目覚めているかと言えば、必ずしもそうではないのです。放縦な生活をしていなくても、生活の煩いがなくても、眠ってしまうことがあるのです。先ほど〈放蕩息子のたとえ〉をお話しました。父親にはもう一人、兄息子がいます。彼は父のもとでまじめに働き、順調な生活を送っていました。けれども、落ちぶれて帰って来た弟を父親が喜んで迎えたとき、彼は父親に食ってかかり、不満を漏らしました。その気持が分からないではありませんが、弟と自分を比べてか、あるいは思い上がってか、いずれにせよ父の下で生活する安心が、すなわち神に生かされて生きる恵みに気づいていなかったのです。

 私たちの信仰は眠っていることがあります。眠ってしまうことがあります。そこから目を覚ますには、神の恵み、お支えに目覚めて生きるにはどうしたらよいのでしょう。それは、「祈りなさい」と言われているように、祈りの生活をすることです。毎日の生活の中で、色々と忙しいのですが、やることから手を離し、一時でも神さまと向かい合い、祈る時間を持つことです。37節に、主イエスが「‥夜は出て行って、『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とありますが、これは主イエスが、毎夜、祈りをなさっていたものと思われます。祈りながら、父なる神が自分に何をお求めになっているかを聞いておられたのです。
 その意味で、もう一つ大切なことは、神の御言葉を聞く生活をすることです。38節に、「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」といいます。「話を聞こうとして」、つまり神の言葉を聞くためです。礼拝で神の言葉を聞くことはもちろん、普段の生活の中で聖書を読み、神さまが自分に何を語りかけているかを考える時間を持つ。そして、感謝して、いただいた御言葉に応えるべく祈る。そのように御言葉と祈りの生活をする中で、神によって生かされている恵みが見えて来ます。自分がどのように生きたら良いか、何をすべきか、自ずと見えて来ます。慰めが、感謝が、勇気が、愛が、平安が心にあふれて来ます。
いつも目を覚まして祈り続けましょう。


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