2014年10月19日 信徒証し礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙3章24〜29節
  説教者  山岡 創

「 希望を宣べ伝える労苦 」

 今日読んだ聖書箇所の初めに〈パウロに与えられた務め〉とありました。1章の冒頭にも書かれているように、この手紙を書いたのはパウロという人物です。パウロは、25節において自分のことをこう語っています。
「神は御(み)言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。
 つまりパウロは、神の御言葉を伝える伝道者であり、教会に仕える牧会者です。簡単に言えば今で言う“牧師”のような働きをする人ですが、1章冒頭で、パウロは、そのような務めを与えられた自分を「使徒(しと)」と呼んでいます。
 パウロの人物像については、使徒言行録7章の終りから読み進んで行くと、よく分かります。彼は熱心で優秀なユダヤ教徒であり、イエス・キリストを信じる人々を、ユダヤ教の異端、神への冒涜(ぼうとく)と考えて、激しく迫害していました。ところが、エルサレムからダマスコにある教会を迫害しに行く途中で、天からの光に包まれ、その光の中でキリストと出会う体験をします。その後、パウロはキリスト教徒に回心(かいしん)し、だれよりも熱心にキリストを伝える者となりました。特に、地中海周辺の町々を旅して異邦人にキリストを伝える者となりました。そのようなパウロが、キリストを伝えた町の一つがコロサイであり、そこに生まれた教会に、パウロはこの手紙を書き送ったのです。

 ところで、今日の聖書箇所の24節で、パウロは次のように書いています。
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(24節)。
 しばらく信仰生活を送って、聖書のことが分かって来た人の中で、「キリストの苦しみの欠けたところ」とは何だろう?欠けたところなんてあるのか?という疑問を持つ方がおられるかも知れません。「キリストの苦しみ」と言われて、真っ先に思い浮かべるのは、十字架です。キリストが十字架に架かって、私たちのために死んでくださったことです。新約聖書は至るところで、キリストの十字架は、キリストがご自分の命を犠牲として、神に対する私たちの罪を贖(あがな)い、神と和解させてくださった救いの出来事だと語っています。
先日の聖書と祈りの会で、創世記3章を学びました。アダムとエヴァが、禁断の木の実を食べて、罪を犯す場面です。この場面では、人間は神に背いて様々な罪を犯すということを示しています。そのような人間を神と和解させ、人として本来の道に復帰させてくださるのが、キリストの十字架の出来事だ、ということです。
けれども、そのような「キリストの苦しみ」に「欠けたところ」なんてあるのか?もしキリストの十字架に欠けたところがあって、その救いが不完全だと言うなら、私たちはキリストを信じても救われないことになるのではないか?神さまと和解できず、罪人のままなのではないか?そのような疑問が湧いて来ても、不思議ではありません。
けれども、キリストの十字架の出来事に「欠けたところ」などありません。キリストの十字架は、完全な、十全(じゅうぜん)な救いの出来事です。パウロも、直前の1章22〜23節で、こう言っています。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子(みこ)の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」
 「その死によって」、すなわちキリストが十字架の上で命を犠牲にされたことによって、あなたがたは神と和解し、神に愛される者とされたのです。ですから、キリストの十字架は「欠けたところ」のない救いの出来事なのです。

 それならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」とは何でしょう?キリストにもできなかったことがあります。できないことがあります。それは、後の時代の宣教・伝道の働きです。キリストは十字架にお架かりになって死なれた後、三日目に復活し、弟子たちに伝道の使命を託し、その後、天に昇られたと聖書は語っています。すると、ご自分ではもはや、教えを伝えることができない。ご自分の死によって、キリストの十字架によって、これを信じる者は救われるという御言葉を、もはや伝えることができません。だから、後の伝道を、弟子たちに託したのです。弟子たちが生み出す教会の人々に託したのです。その伝道の働きが、「キリストの苦しみの欠けたところ」です。
 パウロも28節以下で語っています。
「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽してすべての人を諭(さと)し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働くキリストの力によって闘っています」
 キリストを伝えることは「労苦」なのです。ある意味で「苦しみ」です。決して嬉しい、楽しい働きだとは言えません。パウロもキリストを伝道する上で、ずいぶん反対や迫害を受けました。肉体的な疲れも、精神的な苦しみも負います。それでも、キリストに出会ったから、キリストによって救われた確信と喜びがあるから、自分を救うために命を犠牲にしてくださったキリストの苦しみと愛を思い、キリストをほめたたえ、伝えるのです。「キリストの苦しみの欠けたところ」を我が身をもって満たそうと、伝道の働きを担(にな)おうとするのです。キリストの代わりに伝道することを使命と思ってするのです。

 今日は〈信徒証し礼拝〉でした。I.Kさんが、ご自分の信仰生活とその中でいただいた救いの恵みを証ししてくださいました。Kさんにとって、それは「労苦」だったかも知れません。日常の生活と働きがある中で、時間を割き、疲れた体を励まして、証しを考え、準備する労苦があったでしょう。そして、この礼拝の中で、皆さんの前で、神さまの前で語ることは、緊張を強いられる労苦だったことでしょう。けれども、それはキリストのための「労苦」です。我が身をもって“私”を救ってくださった「キリストの苦しみの欠けたところ」を、今度は私たちが我が身をもって満たす「労苦」です。だからこそ、キリストの苦しみと愛を知っているならば、この労苦は喜びへと変わるのです。少しでもキリストのお役に立つことができたという喜びに変わるのです。
 牧師だけではありません。信徒である皆さん一人ひとりが、この「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たす伝道の働きへと召されています。託されています。御言葉を語る、自分の救いの証しをすることによって伝える方法があります。教会に人を誘って来るという方法があります。次週26日(日)には、いよいよ教会コンサートが開かれます。家族や友人を教会に誘うチャンスです。礼拝に、というのはなかなか難しくても、コンサートであれば、誘いやすいでしょうし、誘われる方も来やすいと思います。皆さん、ぜひ祈って、今週1週間、だれかを誘うことを考えてみてください。
 ところで、伝道する上で大切なことは、何より自分自身が、その信仰を真剣に生きているということです。信仰は知識や教養ではありません。自分の信仰に、それを生きているという中身がなければ、人に伝えることなど到底できません。自分が信仰を真剣に生きている。その生きる姿が何よりも“伝道”そのものなのです。
 藤木正三という牧師先生が、伝道とは“道を伝える”と書くけれど、道とは本来、伝えるものではなく、生きるものだ、と言われました。幸福を、豊かさを、楽しさを求めて生きる。人生を生きる道は数多くあるけれど、キリストを求める道を生きること以外は選ばない。断固として選ばない。それが伝道だ。伝道の生命はこの断固さにかかっている。そのように、『断想』という著書の中で書かれています。
 ハッとさせられました。自分には、この“断固さ”があるか。労苦に負けていないか。信仰の大切なものを他のことに譲ってしまっていないか。改めて問われました。断固さとは、譲れないものを持っているということです。それは、キリストへの私たちの愛だと思います。死をもって私たちを愛してくださったキリストに応える愛だと思います。この断固さに、磨(みが)きをかけたいと思いました。それは、頑(かたく)なになり、社会や周りの人への柔軟性を失うということではありません。自分の中に、確固とした生きる道を確立することです。そこから醸(かも)し出されるものが、周りの人に感じ取られ、自然に伝わっていく。そういう伝道者でありたいなあ、と思っています。


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