2014年10月26日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  出エジプト記12章21〜27節
  説教者  山岡 創

「 神が犠牲になる 」

 先週の土日、お隣の川越市で、川越祭りという大きなお祭りがありました。川越祭りの最大の見どころは、山車(だし)という、神さまを乗せた大きな車が10数台、街中を巡ることです。そして、山車と山車が出会うと、引っかわせと言ってお囃子(はやし)の勝負をします。交差点で、四方から来た4台の山車が一緒になり、4台で勝負することもあります。
 私は川越市の出身で、子どもの頃、六軒町の山車を引いて歩きました。だからでしょうか、お囃子を聞くと何だか血が騒ぐところがあります。見に行きたいなあと思いましたが、残念、時間と余裕がありませんでした。皆さんの中には、川越祭りに行って、楽しんで来た人もいることと思います。
 川越祭りは、氷川神社の神さまのお祭りです。お祭りというと市民の楽しみのようになっていますが、本来は神さまを礼拝することです。しかも、神様を礼拝するのには、必ず理由があります。きっと氷川神社の神さまが、人々を何かしら救ってくれたから、川越の人々が神さまに感謝して、ほめたたえて祭りを始めたのです。

 聖書の世界、イスラエルの人々の社会にも、3つの大きなお祭りがありました。その中の一つが、“過越(すぎこし)の祭り”と言われるお祭りです。今日読んだ聖書のお話は、過越の祭りがどうして始まったか、その理由を伝えています。その理由はもちろん、主なる神さまがイスラエルの人々を救ってくださったからです。
 このお祭りのメイン・イベントは、家族や親戚同士、あるいは先生と弟子たちのように、人が集まって、みんなで小羊を料理して、そのお肉を食べるディナーでした。どうして小羊を料理して食べるのか、それは、料理した羊の血を、家の入口の柱と鴨居(かもい)に塗って、神さまの救いを思い出し、感謝するためです。
 今から3千年以上も昔、イスラエルの人々はエジプトの国で奴隷(どれい)にされていました。そのイスラエルの人々を救うために、神さまから送り出された人がモーセさんです。子どもチャペルでは、10月の子ども礼拝で、モーセさんのお話を続けて聞きましたね。
 このモーセさんに、神さまのお告げがありました。“今夜、わたしはエジプトの人々を懲(こ)らしめる。エジプトのすべての長男を撃(う)つ。そのとき、イスラエルの人々も巻き添えになって撃たれないように、家にしるしを付けておきなさい。家の入口の柱と鴨居に羊の血を塗っておくのだ。わたしはそのしるしを見て、イスラエルの人々を撃たずに通り過ぎる。その隙に、あなたたちは逃げ出し、エジプトを脱出しなさい”。今のお告げにあった、神さまが通り過ぎる、というのが“過ぎ越し”という言葉の意味です。
そのお告げを聞いたモーセさんは、イスラエルの人々にその通りに命じました。そして、その通りのことが起こりました。エジプトの家の長男が撃たれて、国中が大パニックになっている間に、イスラエルの人々は脱出しました。そして最後には、二つに割れた海の真ん中を、イスラエルの人々は歩いて渡り、追いかけて来たエジプト軍は、割れた海が元に戻って飲まれてしまうという有名なシーンで、この脱出劇は終わります。
だから、イスラエルの人々は今も、奴隷だったエジプトから救い出してくださった神さまに感謝して、この祭りを行います。親から子へ、子から孫へと代々受け継がれて、3千年以上、この祭りは続いているのです。

 さて、今から2千年ぐらい昔、イスラエルの人々の中から、イエス・キリストを救い主と信じる教会が生まれました。そのとき、教会の人々は、自分たちにとって過越の祭りとは何だろう、何のためにするのかと改めて考え直しました。そして、イエスさまこそ、過越の小羊そのものだと信じるようになりました。小羊の血が、エジプトを脱出する時、イスラエルの人々を救うしるしとなったように、イエスさまが十字架の上で流した血が、信じる者を救うしるしとなったのだと考えたのです。
 自分たちはアダムとエヴァのように神さまに罪を犯して、神さまから罰される罪人になってしまった。けれども、イエスさまがその罰を自分たちの身代わりになって受けてくださった。十字架の上で、ご自分の命を、罪を償う犠牲にしてくださった。その犠牲によって、自分たちは罪を赦されて、神さまから愛される人となることができた。
 教会の人々は、そのように信じました。そして、イエスさまに感謝して、イエス様をお祭りし、礼拝するようになりました。それが代々受け継がれて、海を越えて、2千年後の今も、こうして私たちの教会でも守られているのです。だからね、教会の礼拝って、お祭りなんですよ。“えっ!?私たちが知っている日本のお祭りと全然違うよ!”と思うかも知れないけれど、私たちは、イエスさまが十字架から復活した曜日である日曜日に毎週、イエスさまに感謝してお祭りをしているのです。
 そして、過越の食事に代わるものが聖餐(せいさん)式です。私たちは、あのパンをイエスさまの命として、杯(のぶどうジュース)をイエスさまの血としていただきます。イエスさまの血を飲むことは、自分にイエスさまの血のしるしを付けることです。入口の柱と鴨居に小羊の血を塗る代わりに、自分の内にある心に、イエスさまの血のしるしをつけて、父なる神さまから、“あぁ、この人はイエスによって罪を赦された者だ”と見分けていただくのです。そして、イエスさまの命をいただいて、神さまを信じる新しい人生を生きるのです。

 イエスさまの犠牲によって私たちは生きている。生かされている。そのように信じるのがクリスチャンです。私は今日の説教を準備しながら、ふと『塩雁峠(しおかりとうげ)』という小説を思い出していました。既に天に召された三浦綾子さんというクリスチャンの小説家が、実話を元に書いた小説です。明治時代のこと、永野信夫というクリスチャンがいました。この人は北海道の旭川で仕事をしていましたが、以前からお付き合いしている吉川ふじ子さんという、やはりクリスチャンの女性と婚約式を行うために旭川から札幌に向かったのですが、その途中で大事故が起こります。信夫が乗っていた電車が塩雁峠を登って行く途中で、いちばん後ろの車両が離れてしまい、レールを下り始めたのです。その車両に永野信夫も乗っていました。非常用のブレーキをかけても止まらない。どんどんスピードが上がって、このままでは脱線して大事故になり、多くの犠牲者が出る。そのとき、信夫は電車の前に飛び降りて、自分の体をブレーキにして電車の車輪を留めたのです。永野信夫さんの犠牲が、愛が、多くの人を救いました。子どもたちもぜひ一度、読んでみてください。
 私たちは自分の力で、独りで生きているのではありません。たくさんの人に支えられて生きています。それはある意味で、たくさんの人の“愛”という名の“犠牲”によって支えられて生きているといっても良いと思います。そのように、たくさんの人に支えられて、最終的には神さまに支えられて生きている。そのことに気づき、感謝させてくれるものが、イエスさまの十字架、イエスさまの犠牲なのです。


   ウィンドウを閉じる