2014年11月23日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章31〜34節 
  説教者  山岡 創

「 無くしてはならないもの 」

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。
 捕らえられ、十字架に架けられる前夜、最後の晩餐(ばんさん)の席上で、主イエスは弟子のペトロに、このように言われました。シモンとはペトロのことです。ペトロは言わば、一番弟子だと言ってもよいでしょう。その彼を、サタンがふるいにかけると言うのです。
 サタンとは悪魔です。誘惑する者とも言われます。目に見える存在ではありません。あるいは誘惑そのものがサタンだと言うこともできます。いずれにせよ、サタンは人を誘惑することによって、神から離れさせ、信仰を失わせるのです。そのサタンが、ペトロをはじめとする弟子たちを、「小麦のようにふるいにかける」と言うのです。
 若い人は「ふるい」という道具を知らないかも知れません。お菓子作りが好きな人は知っているかと思います。ふるいは底が網目状になっています。その道具に、例えば小麦粉を入れて揺(ゆ)すると、網目から小麦粉の細かい粒子が下に落ち、荒い粒は網の上に残ります。下に落ちた細かい小麦粉を水や牛乳で溶けば、より滑らかなものができます。そのように、ふるいは粉などを振るい分ける道具です。
 主イエスの時代に、小麦をふるいにかけると言えば、それは粉に挽(ひ)いたものではなく、収穫したばかりの小麦でした。脱穀した小麦をフォークのような形をした農具(ホーク)ですくって、空に放り投げます。そうすると、殻は軽いので、風で飛ばされ、重い小麦の粒だけが下に落ちて来ます。それが当時で言う「ふるいにかける」ということでした。
 サタンが、ペトロたちの信仰をふるいにかける、と言うのです。ふるいにかけるかのように、信仰をより分ける。すると、神を信頼している、主イエスを信じているつもりでいた信仰は、誘惑という網目をくぐって落ち、何も残らないかも知れない。そのようにしてサタンはペトロたちの信仰を無くさせようとしているというのです。
 とは言え、サタンが目に見える存在として、直接ペトロに働きかけてくるわけではありません。ペトロの信仰が揺さぶられ、神と主イエスから引き離すような“現実”の出来事が起こります。その現実が“サタンのふるい”だということです。では、ペトロや弟子たちにとって、そのような現実とはいったい何だったのでしょう?
 それは、主イエスが捕らえられ、裁かれ、十字架に架けられて殺されるという出来事でした。今まで弟子として、主イエスを慕(した)い、従って来た。様々な試練も忍耐し、踏みとどまって来た。直前の28節で、主イエスはそのような弟子たちの忍耐を、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と認めています。けれども、今度の苦難には耐えられないだろう、今度の試練には踏みとどまれないだろう、と主イエスは見ておられるのです。なぜなら、命が懸かってくるからです。主イエスが十字架に架けられるという試練に踏みとどまるということは、自分も主イエスの弟子として、共犯者として、主イエスと共に死ぬということだからです。自分の命を懸けて踏みとどまることができるか、その決断が問われているのです。

 ペトロにしてみれば、心外な言葉だったでしょう。彼は既に覚悟ができているのです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)。ペトロは、“お言葉ですが‥”と、主イエスの言葉を跳ね返すかのように言い放ったことでしょう。イエス様、あなたのその予想は違いますよ、と言わんばかりに。
 ペトロには、その自信があったのです。いつも大切な場面では、自分が第一に声をかけられ、連れ添(そ)われて、弟子の筆頭としての自負があったのです。だから、直前の場面で、主イエスが弟子の中から裏切る者が出ると予告され、弟子たちが動揺(どうよう)して、だれが裏切るのかと議論をし始めた時も、ペトロは、自分は決して裏切らないという自信に満ちていたことでしょう。また、その議論の後で、今度はだれがいちばん偉いかという議論が起こったときにも、ペトロはその渦中に巻き込まれず、一段高い位置から、自分は最も主イエスに信頼されていると自信を持って聞いていたかも知れません。偉い人は仕える者になるようにと主イエスが教えられたとき、ペトロは、“そうだ、自分はいちばんイエス様に仕えて来た。仕えるということが、その人のために命を捨てることならば、自分は主イエスのために命を捨ててもよい”と思ったことでしょう。その思いが覚悟となり、口をついて出たのです。ご一緒になら死んでもよい、と。
 ところが、その覚悟を、主イエスは決して喜ばれませんでした。ペトロの熱とは裏腹に、実に冷静に、ペトロの覚悟の底を見抜くように、こう言われたのです。
「あなたは今日、鶏(にわとり)が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。
実際、ペトロはこの後、主イエスを知らないと三度、その関係を否定します。ペトロの覚悟は嘘だった、出まかせだったということでしょうか。そうではないと思うのです。ペトロの気持に嘘、偽りはなかったでしょう。けれども、この後、主イエスが捕らえられ、大祭司の館(やかた)に連れて行かれ、ユダヤ人の最高法院で尋問(じんもん)されることになる。ペトロは見つからないようについて行き、中の様子を伺いました。そこで、主イエスが神を冒涜(ぼうとく)する罪人という汚名を着せられ、罪人として十字架刑に処せられる成り行きを知ったのです。それは、ペトロが想像していた死に様とだいぶ違っていたことと思います。ペトロは、主イエスの弟子の筆頭として、名誉ある死を考えていたかも知れません。ところが現実は、神を冒涜する罪人に愚かにも従って来た弟子であり、同じ罪人という、間抜けな、何の名誉もない、人々からあざけられる、惨(みじ)めな死だったのです。その汚名を知ったとき、ペトロは主イエスと一緒に死ぬことができなくなってしまったのではないでしょうか。そのために、大祭司の館で見つかって、お前も仲間だろうと言われたとき、知らない、関係ないと答えてしまったのではないでしょうか。
 それが、ペトロにとって“サタンのふるい”でした。“汚名を被(かぶ)った死でも、お前はついて行けるか?”というふるいにかけられ、彼はこぼれ落ちてしまったのです。人生は、何がふるいとなって、私たちを襲い、試して来るか分かりません。

 では、ペトロは信仰を無くしてしまったのでしょうか?主イエスを知らないと関係を否定し、主イエスから離れてしまったペトロは、信仰を無くしたのでしょうか?どうやら、そうではないようです。なぜなら、主イエスがこのように祈ってくださっているからです。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22節)。
 ペトロがご自分のことを知らないと言うことを、主イエスは想定しておられました。その上で、主イエスはペトロの信仰が無くならないように祈られたのです。と言うことは、主イエスを知らないと言って、離れることが、信仰を無くすということではない、ということです。知らないと言ってしまっても、信仰はあるのです。そして、信仰を無くしていなければ、後で立ち直ることができるのです。ペトロは後で、立ち直ります。そして、主イエスを救い主キリストとして宣べ伝え、教会を造り上げる中心となります。と言うことは、ペトロは信仰を無くさずにいた、無くさずに済んだということです。ならば、信仰とはいったい何でしょうか?主イエスを知らないと否定し、離れても、失われない信仰とは何でしょうか?
 一昨日の御言葉を分かち合うディボーションの席上で、こんな感想が出ました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)との御(み)言葉を分かち合っていたのですが、ある方が、“自分のこれまでの人生を振り返って、自分のやったこと、言ったことを思い出してみると、神さまに裁かれたら、自分が地獄行きだと思うことがある”と言われました。私もその感想、よく分かるのです。私も自分のことを地獄行きだと思うことがあるのです。牧師として、神の恵みを宣べ伝えている。主イエスが十字架の上で私たちのために命を懸けてくださったことで、私たちの罪は赦され、神に愛される者となった。天国に行ける者となった。そのように語ります。けれども、矛盾(むじゅん)しているかも知れませんが、自分は地獄行きだと思うことがあるのです。自分のことを考えると、こんな自分は赦されない、赦されるはずがない、赦されてはいけない、赦されると甘えてはいけないと思うことがあるのです。
 ペトロもこの時、“自分は地獄行きだ”と絶望したのではないでしょうか。弟子失格だと思ったのではないでしょうか。ご一緒になら死んでも良いと豪語(ごうご)しながら、その舌の根も乾かぬうちに、主イエスを知らないと否定したのですから、そう思ったとしても不思議ではありません。その意味で、主イエスに最も近いところで仕えて来た自信も、弟子筆頭だというプライドも、根こそぎ失ってしまったに違いありません。
 けれども、ペトロが失っていないものがあります。無くしていないものがあります。それは、主イエスの祈りです。主イエスが、ペトロのために、信仰が無くならないように祈ってくださったという恵みの事実です。イエスを知らないと否定し、裏切っても、信仰を失わないように、立ち直ることができるようにと祈ってくださった。その祈りには、ペトロに対するこの上ない愛が込められています。そして、この愛は、ご自分が神を冒涜する者との汚名を着せられ、弟子たちには裏切られ、見捨てられても、それらすべての罪を負って死ぬという命がけの愛として結晶します。その愛の結晶が、主イエスの十字架の死なのです。
 ペトロは自信も、プライドも、すべて失いました。自分は今までこれだけやって来たのだから、神さまに認められ、愛され、救われる。そう思える功績や誇りを根こそぎ失いました。けれども、神に救われるということは、そのような自分の中の何かに根拠があるのではありません。救いの根拠は、自分の外にあります。それは、主イエスの祈りと愛です。どんなに罪深い者でも、自信がなくても、これだけやって来たという実績がなくとも、裏切り、見捨ててしまっても、神は裏切りません。神は見捨てません。私たちの中に、救いの根拠となるべき何ものもなくても、神は私たちを愛し、私たちのために祈り、その命を私たちのために使ってくださる。献げてくださるのです。
 その恵みを知っているなら、私たちは信仰を無くしてはいないのです。地獄行きだと思っても、その恵みによって、きっと立ち直ることができるのです。絶望から立ち直り、希望に生きることが、きっとできるようになるのです。そのために、主イエスは、たとえ自分の力と自信を失うことがあっても、私の恵みを見失うな、私の愛を無くすなと、命がけで祈ってくださっているのです。

 「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主イエスは、ペトロに、そして私たちに、教会の友を、周りの人々を力づけることを期待しておられます。自分に自信がある者、力があると思っている者、自分は正しいと思っている者は、“人の弱さ”を知らない故に、人を裁きがちになります。失敗し、挫折し、自分の弱さを、自分の醜さを、自分の罪を味わった者こそが、そしてその苦悩から、人の優しさによって、祈りと愛によって、それらを通して示された神の恵みによって立ち直らせていただいた者こそが、人を力づけることができるのです。
 私たちは、時に信仰につまずきます。神から離れ、教会から離れ、信仰生活を捨てたくなることもあります。その陰で、主イエスが私たちを愛し、私たちのために祈ってくださっています。その祈りと愛が、いつか私たちを立ち直らせます。私たちを、人を力づける祈りと愛の人に変えます。それが信仰です。無くしてはならないものです。




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