2014年12月14日 待降節第3主日・礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書3章16〜21節
  説教者  山岡 創

「 裁くためではなく救われるために 」

 もし今、この礼拝堂が真ん中の通路のところで二つに分かれて、片側は光の射す明るい部屋になり、もう片方はほとんど何も見えないような真っ暗な部屋になったとしたら、
皆さんはどちらの部屋に移動しますか?‥‥‥たぶんほぼすべての方が、光のある明るい部屋に行く、と思われます。けれども、もしあなたがその時、裸だったらどうでしょう?人に裸を見られたら恥ずかしいので、真っ暗な部屋に飛び込むかも知れません。その方が恥をさらさず安心だからです。あるいはまた、あなたが人に見られたくないものを持っていたらどうでしょう?やはり真っ暗な部屋の方に行くかも知れません。人に見られたら、注意されたり、叱られたりして困るからです。
 19節に「光が世に来た‥」とあります。主イエス・キリストがこの世にお生まれになること、この世においでになることを、ヨハネ福音書は、光がこの世に来たと言います。主イエスはこの世を照らす明るい光なのです。
 けれども、どうやらこの世のすべてが、明るい場所になるわけではない。主イエスの周りは明るいのです。けれども、主イエスから離れた場所は暗いのです。言わば、主イエスはこの世を、光の射す明るい場所と、光の届かない真っ暗な場所とに分けるのです。そして、この世の人々に、“さあ、あなたは光の場所と暗闇の場所とどちらに行くか?”と問われる方だと言うのです。そして、どちらに行くかを決めるのは自分自身、私たち自身なのです。それはある意味で、自分自身を裁くことになるのです。

 光の方に行くか、暗闇の方に行くか。その判断は、「悪を行う者」か、それとも「真理を行う者」かによって分かれると、ヨハネ福音書は見ています。
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(20〜21節)。
 この御(み)言葉から、聖書の中のクリスマス物語を連想します。それはマタイ福音書2章の物語ですが、イエス・キリストがお生まれになった時、一つの星が輝き渡りました。その星の光に導かれて、占星術の学者たちは東の国からはるばるやって来て、イエス・キリストを礼拝し、黄金、入香(にゅうこう)、没薬(もつやく)といった宝物をお献げしました。他方、ユダヤのヘロデ王は、救い主である新しい王のお生まれによって自分の地位が脅かされるのではないかと恐れ、学者たちをだましてイエス・キリストの居場所を教えるように命じました。後でイエス・キリストを抹殺するためです。そして、学者たちが何も告げずに帰ってしまったことを知るや、激怒して、附近にいる2歳以下の男の子を虐殺(ぎゃくさつ)したと聖書に書かれているのです。ヘロデ王は言わば、闇を好み、闇の中をだれ憚(はばか)らずに歩んでいると言うことができます。一方、学者たちは光の中を歩んでいます。自分の大切な宝物をイエス・キリストに預け、来た道とは“別の道”を通って帰って行ったというのですから、その時から光の中を歩み始めたと言ってもいい。自分の生き方を変えたのです。
 このように、主イエス・キリストと出会い、向かい合うとき、私たちは光の方に行くか、闇を好むかに分けられるのです。いや、そんなに白黒がはっきりと分けられるような単純な話ではない。一人の人間の中に光と闇とがあって、薄ぼんやりとした生き方をしている。それが、私たちの現実の姿、私たちの内側のあり様ではないでしょうか。
 そして、今日の聖書の御言葉を考えながら、私自身がイエス・キリストから問われている気がします。あなたは、光と闇とどちらを好むか?私のそばと暗闇の中とどちらに行くか?と。
 私は、“イエス様のそばに行きます。光の中に行きます”と諸手(もろて)を上げて言えない自分がいることを感じます。自分は「真理を行う者」だから光の方に行く、と断言できない。光の中で明るみに出され、人に知られたら恥じ入らざるを得ないような自分を感じます。闇の中に隠れたくなるような自分を、ちょうどアダムとエヴァが禁断の木の実を食べた時のように、自分の裸を葉っぱで覆い、木の陰に隠れたくなるような自分を感じます。
 哲学者であり、キリスト者であった森有正という人は、そのように隠しておきたい自分を“心の一隅”と言いました。醜い考え、秘密の考え、ひそかな欲望、恥‥‥そういった、人に知らせることのできないものを私たちは抱えている。友だちにも、親にも、恩師にも言えず、自分一人で悩み、恥じている部分を持っている、と森有正さんは言います。そして、こう言うのです。私たちは、その心の一隅(ひとすみ)でしか、神様に会うことはできない、と。“ああ、それも本当だなあ。隠しておきたいと思う一方で、そういう心の奥底でこそ、本当の意味で神さまと出会える、救いと出会えるのだ”とも思う自分がいます。

 さて、光を憎み、光の中に行きたくないもう一人の自分がいます。それは、心の一隅を隠したいと思っている自分ではありません。むしろ、隠れる必要などない自分です。なぜなら、自分は「真理を行う者」だと思っているからです。既に光の中を歩んでいる者だと思っているからです。つまり、自分は正しい、正しく生きていると自負している時です。それなのに、イエス・キリストのそばへ行くと、光の中へ行くと、“あなたは罪人だ”と言われる。自分は罪人なんかじゃない、間違ってなんかいない。腹が立つ。だから、光の方に行きたくないと思う自分がいるのです。けれども、そのように思うこと自体が、“自分の闇”を浮き彫りにしているのではないでしょうか。
 先日、青年たちと4名で、キリスト教作家であった三浦綾子さんの著書『光あるうちに』を読んで、話し合いをしました。その本の中で〈罪とは何か〉という章を読んだのですが、三浦綾子さんはその中で、“罪を罪だと感じ得ないことが、最大の罪なのだ”と書いておられます。私たちは、“人のすることは大変悪い”“自分のすることは、そう悪くない”という二つの基準を持っている。それどころか“自分のすることはすべてよい”と思っている人もいる。つまり、自己中心で、独善的なのだ。だから、自分の間違いや罪には気づかず、平気で“この人は悪い”“あの人は罪人だ”と裁くのだと書いておられました。
 自己中心的で、自分の罪に気づかず、平気で人を裁く。その時、私たちは闇の中にいます。“あなたは自己中心的で、自分の罪に気づいていないよ”などと言われようものなら、その人に対して、その光に対して、腹を立て、憎むのです。
 そこで思い出す聖書の話があります。同じヨハネによる福音書の8章にある、主イエスが姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女性を裁かないエピソードです。〈わたしもあなたを罪に定めない〉と見出しが付けられています。神殿の境内で民衆に教えていた主イエスのもとに、男性と姦通しているときに捕まえられた女が連れて来られました。連れて来た人々は、“姦通の罪を犯した女は石で打ち殺せと律法(神の掟)で命じられています。あなたはどう思いますか?”と主イエスに詰め寄りました。殺すなと言えば、主イエス自身が律法違反に問われ、殺せと言えば、主イエスにがっかりする民衆も少なくなかったでしょう。主イエスを陥れようとする巧妙な手段です。主イエスの教えを聞いていた民衆も、固唾(かたず)を飲んで見守ったことでしょう。そのとき、主イエスはこう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8章7節)。これを聞いた人々は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」、女に石を投げつける者は一人もいなかったといいます。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が‥」という主イエスの言葉によって、人々は皆、思いがけなく光の中に立たされたのです。自分の内側を照らされたのです。
それまでは自分は正しく生きていると思っていたかも知れない。人から後ろ指を指されるような罪などないと思っていたかも知れない。あるいは、誤魔化(ごまか)し、フタをしていたかも知れない。罪を罪と感じなかった。認めなかったのです。けれども、光を当てられて“自分で見てごらん”と、自分の心の一隅を示されたとき、自分の罪を、自分の自己中心さと独善を認めざるを得なかったのです。その意味で、彼らは自分で自分を裁きました。でも、それは、滅びへと向かう裁きではなく、救いへと一歩踏み出す裁きだった、自己吟味だったのではないでしょうか。
 後には、主イエスと姦通の女と二人だけが残りました。そして、主イエスは、この女性を断罪し、処罰しませんでした。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8章11節)。
 この女性の罪をうやむやにしたわけではないのです。主イエスはこの女性の罪を知っているのです。けれども、それを罪に定め、罰するのではなく、「もう罪を犯してはならない」と戒めて、赦された。無罪放免にされたのです。
 石打ちの刑で死を覚悟していたであろうこの女性にとって、どんな大きな驚きであり、また喜びと感謝であったか分かりません。この女性は、姦通という、言わば人に知られたくない心の一隅を抱えていました。けれども、思いがけない形で暴(あば)かれ、明るみに出されました。人に知られ、イエス・キリストに知られ、自分の人生は終わったと絶望したかも知れません。けれども、想像さえしなかった救いを与えられたのです。それは、罪人が神に赦され、愛されるという奇跡でした。罪人は神に裁かれ、滅びる。それが当時の信仰の常識でした。いや、時代は変わっても、また宗教信仰を持っていなくても、罪人は自他共に赦されない、裁かれなければならないと否定するのが私たちの人間観ではなでしょうか。けれども、神の救いはそれをひっくり返すのです。罪人が赦され、愛されるのです。自分の心の一隅に悩む者は、自分の自己中心な言葉や行為によって人を傷つけたことに苦しむ者は、イエス・キリストを通して、自分のような存在が認められている救いと、自分のような人間が生かされている救いと出会い得るのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(16〜17節)。
 クリスマスを迎えます。主イエス・キリストは、裁きではなく救いをもたらすためにおいでになります。だからこそ、救い主です。このキリストを信じるとき、私たちの心の内に、キリストの霊(れい)が宿ります。キリストによる神の赦しと愛が宿ります。この信仰と愛によって、私たちは新しく生まれるのです。生まれ変わった思いで、別の生き方を歩み始めるのです。「永遠の命」と言われる天国へと連なる命を、今から歩み始めるのです。




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