2014年12月28日 大人と子どもの礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章25〜35節
  説教者  山岡 創

「 この目で救いを見た 」

 今日、教会に来て、“あれっ?”と思った人はいませんか?。“クリスマスは25日で終わったはずなのに、まだクリスマスの飾りが出ている。おかしいなあ”と。でも、片付け忘れたわけではありません。
 確かに日本人の感覚で言えば、クリスマスは25日どころから24日の夜で終わり、といった感じでしょう。けれども、本当は違います。キリスト教では、クリスマス・シーズンは1月6日まで続きます。その日は、〈公現日(こうげんび)〉と言って、占星術の学者たちが輝く星に導かれて、ベツレヘムのイエス様を礼拝しにやって来た日とされています。言わば、1月6日までは“アフター・クリスマス”です。だから、アメリカやヨーロッパの国々では、クリスマスの飾りをその日まで飾ります。私たちの教会でも、役員会で“クリスマスの飾りは1月6日まで出しておいたらどうか”という話も出ました。でも、今日でほとんど片付けようと思っています。でも、ピアノの上のガラスのクリブぐらいは1月6日まで置いておこうと考えています。

 今日読んだルカによる福音(ふくいん)書2章25〜35節も、クリスマスの物語、アフター・クリスマスの物語です。それは、生まれて間もないイエス様が、神殿に連れて来られた時の事です。日本で言ったら、“お宮参り”のようなものかも知れません。先日、知り合いの人で“新しい車を買ったので、高麗(こま)神社でお祓(はら)いを受けて来た”という人がいました。生まれたばかりの赤ちゃんも、日本では悪いものや不幸が付かないようにお祓いを受ける慣習があります。
 けれども、聖書の中のお宮参りは、意味がだいぶ違います。それは、初めて生まれた男の子を神さまにお献(ささ)げするために神殿に行くのです。最初の男の子(初子)は神のものという信仰があるからです。“では、献げた男の子は返って来ないの?”と思うでしょう。返って来ます。一度神さまに献げた男の子の代わりに、動物を献げたり、献金を献げたりして男の子を返していただくのです。
 そのように、イエス様がヨセフとマリアによって神殿に連れて来られたとき、そこにシメオンという人がいました。「この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます」(29節)という言葉からして、もうおじいさんになっていたと思われます。シメオンさんは、神さまから“わたしが送る救い主を見るまでは、あなたは死なないよ”と聖霊(せいれい)によってお告げを受けていたので、長い年月の間、救い主がおいでになるのを待っていたのです。きっと、救い主を探し求めて、毎日のように神殿に来て、祈っていたのだと思います。
 ところで、その人が正しい人かどうかは、だいたい分かります。その人の信仰があついかどうかも、その人を見ていれば分かります。けれども、その人に「聖霊」がとどまっていることが分かるでしょうか?聖霊は神さまの霊です。その聖霊が、自分の目の前にいる人にとどまっているかどうか、皆さんは分かりますか?どうやって判断しますか?‥‥正直、なかなか分らないです。難しいです。聖霊は目に見えませんし、“これが聖霊の証拠”というようなものはないからです。
 けれども、私たちは聖霊を感じることがあります。目に見えたとか、理屈ではなく聖霊を感じることがあります。8月に埼玉地区の中学高校生・青年キャンプがありました。私たちの教会からも20名以上の人が参加しました。2日目の夜、キャンプファイヤーがありました。歌やゲームを楽しんだ後、自分が今、考えていることを語り合う時間になりました。すると、最初の子を皮切りに、一人また一人と、(特に学校生活とその人間関係について)自分の苦しみや悩み、また心の闇を語ってくれました。普段は決して話さないことだと思います。いや、キャンプだって初めて会った人も多く、普通だったらなかなかそこまで自分の胸の内を話せないと思います。ところが、その話せないようなことを、もちろん全員ではないけれど、その場で次々と語り始めるのです。どうしてでしょう?何がそうさせたのでしょう?私は、聖霊だと思うのです。聖霊が勇気と安心をくださったのだと思うのです。青年も3日間、分かち合いの時間を持ちました。最後の分かち合いで、私はプログラムの関係でその場にはいませんでしたが、皆が涙を流して語り合ったと聞きました。それはやっぱり聖霊がその場にとどまっていたからだと思うのです。
 聖霊は目には見えません。触(さわ)れません。でも、シメオンさんにとどまっていたのでしょう。そして、イエス様がマリアさんに抱かれて神殿に入って来たとき、シメオンさんにピーンと霊感が走った。この子こそ待ち望んだ救い主、この世の光だと感じたのです。それで、イエス様を抱き上げて、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(30節)と神さまに感謝したのです。きっとシメオンさんの顔は、感動と喜びの涙でグシャグシャだったに違いありません。

 シメオンさんは何を見たのでしょう?「救い」を見たのです。でも、その赤ちゃんが救い主だとどうして分かったのでしょう。“私は救い主”と名札を付けていたわけではありません。他の赤ちゃんと違って光り輝いていたわけでもないと思います。それなのに、たくさんお宮参りに来る赤ちゃんの中で、どうして分かったのでしょう。考えてみれば、みんな、どうして分かったのでしょう?クリスマスの夜、羊飼いたちが家畜小屋にやって来て、生まれたばかりのイエス様を探し当てました。彼らは何を見たのでしょう?また、占星術の学者たちも星を頼りにやって来て、イエス様を探し当て、礼拝しました。彼らもまた、何を見たのでしょう?“これが救いだ!、これこそ救い主だ!”と分かる、はっきりした証拠を見たのでしょうか?たぶん皆、最初から何かはっきりした救いを見たわけではないのです。ただ、シメオンは聖霊のお告げによって、羊飼いたちは天使のお告げによって、学者たちは聖書の言葉によって、つまり神の言葉によって神の救いがあることを信じて生きた、信じて人生の旅を続けた。そして、その結果として「救い」を見たのだと思います。
 「この目で見る」、自分の目で救いを見る。それは、大きな力になります。確かな、深い信仰になります。そのような確かな、深いシメオンさんの信仰を、今日の聖書は物語っています。

自分の目で救いを見た、と言うと、私はイエス様の弟子のトマスさんの物語を思い出します(ヨハネ福音書20章)。それは、イエス様が復活された時の話です。他の弟子たちは、復活したイエス様にお目にかかりました。みんな、“私たちはイエス様を見た”と言いました。でも、トマスさんだけはその場にいませんでした。だから、トマスさんは、“みんながそう言ったって、自分の目で見なければ信じない”。いや、それどころか“イエス様が十字架に架けられて死んだとき、手に打たれた釘の穴と槍で刺されたわき腹の穴に、自分の指をさしこまなければ信じないぞ!”とまで言ったのです。‥‥1週間が過ぎました。復活したイエス様がまた、みんなのところに来てくださいました。そして、わざわざトマスさんのそばに来て、“私の釘と槍の穴に、あなたの指を差し込んでごらん。それでも良いから信じる者になりなさい”と優しく言ってくださいました。その言葉を聞いたとき、トマスさんは、“イエス様、あなたは救い主です。神さまです”と叫びました。指を差し込んでいないのに、信じたのです。トマスさんは自分の目で「救い」を見て、信じたのです。
でも、何を見たのでしょう?何の救いを見たのでしょう?病気が治ったわけではありません。家族が元気で、家庭が平和になったわけでもありません。仕事がうまく行って、ガッポガッポ儲かったわけでもありません。でも、トマスさんは何かを見たのです。それは、傷ついた、ひび割れた、そして愚かで罪深い自分を包むように愛してくださるイエス様の“愛”です。トマスさんはこの愛を見たのです。目には見えない愛を、強く感じたのです。確かに心の目で見たのです。

 先ほど夏のキャンプの話をしました。あの語り合いの時、涙を流している子たちが少なからずいました。多くの子たちが、イエス様の愛に包まれて、大切な何かを感じていたに違いありません。その大切な何かを感じて、自分の目で救いを見て、愛を見て、イエス様を信じる。それが信仰になります。
 私たちも、この目で救いを見るために、このクリスマスから歩いて行きましょう。




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