2015年1月4日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章35〜38節
  説教者  山岡 創

「 危機に備える時 」

                 〜 しかし今は 〜

「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたがたを遣(つか)わしたとき、何か不足したものがあったか」(35節)。最後の晩餐(ばんさん)と呼ばれる夕食の席上で、主イエスは弟子たちに、このように言われました。その問いかけに対して、弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」(35節)と答えています。
 これは、主イエスが弟子たちの中から72人を任命した時のことを振り返って、問いかけたものです。ルカによる福音(ふくいん)書10章で、主イエスは、ご自分が行くつもりの町や村に、任命した72人を二人組に分けて、遣わされました。神の救いを宣べ伝えるというご自分の使命を、弟子たちに分担してもらうためです。そのとき、主イエスは、「財布も袋も履物も持って行くな」(4節)とお命じになったのです。それは、救いを宣べ伝えるのは、自分の力でするものではなく、神の力に助けられてするものだということを、身をもって分からせるためでした。それを極端な形でやったのでしょう。世知辛(せちがら)い世の中だが、お金や食べ物、生活の用意をしていなくても、真剣に宣べ伝えている者に飲ませ、食べさせ、支えてくれる人が必ず現れる。そのことを通して神の助けを知りなさい、ということでした。そして実際、その通りになったのです。弟子たちが「いいえ、何もありませんでした」と答えているように、不足するものは何もなかったのです。

 その時の体験を思い出させたところで、主イエスは、「しかし今は‥」(36節)と言われます。
「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣(つるぎ)のない者は、服を売ってそれを買いなさい」(36節)。
 今回は財布も袋も持って行け。いや、それどころか剣さえも用意しておきなさい、と言われるのです。どうしてでしょうか?
 それは、弟子たちを以前に遣わした時と、「今」の時が違うからです。以前には、主イエスは、10章19節で言われているように、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を弟子たちに授けることができました。けれども、今はそれができない。なぜなら、「その人は犯罪人の一人に数えられた」(37節)と旧約聖書に書かれている預言が、主イエスの身に実現するからです。この世の救い主として父なる神に遣わされたイエスが、犯罪人の一人に数えられ、捕らえられ、十字架に架けられて殺されてしまう。弟子たちに権威を授けるどころか、全く無力にされてしまうのです。それが「今」という時です。主イエスが弟子たちをサポートすることができないのです。だから、財布も袋も持て。剣さえも買って用意せよ、と言われたのです。

 さて、今日の聖書の御(み)言葉を考えながら、“どうしてだろう?”と疑問に思うことが随分ありました。その一つは、どうして主イエスが弟子たちに、ご自分と一緒に死のう、死んでくれ、と言わなかったのだろうか?ということでした。直前の33節で、弟子たちの筆頭であるペトロが、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言っています。弟子の方からこう言っているのに、主イエスの方は“よし、一緒に死んでくれ”とは言わないのです。そのように言えば、「剣のない者は‥‥それを買いなさい」なんていう厄介(やっかい)なことを命じなくても済んだのに、と思うのです。どうして主イエスは、そう言わなかったのでしょうか。
それは、37節にある聖書の預言と関係があると思われます。主イエスは、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の預言が、ご自分に実現すると言われました。これは、旧約聖書のイザヤ書53章12節の言葉です(1150頁)。
 イザヤ書53章というのは〈苦難の僕(しもべ)の預言〉と言われる箇所です。それは、神を信じる、ある一人の人が、罪を犯さず、偽りもないのに、多くの痛みと病を負い、人々からは軽蔑され、見捨てられ、裁かれて、命を取られてしまう。それなのに、彼は黙して一言も弁解をしない、という不思議な内容です。どうしてこの人はそんな生き方をするのだろう?その疑問の答えは、最後の12節に集約されます。
「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担(にな)い、背いた者のために執(と)り成しをしたのはこの人であった」。
 この人が、多くの痛みと病を負い、死んで罪人の一人に数えられたのは、多くの人の過ちを担い、神に背いた者のために“赦(ゆる)してください”と執り成すためだったと言うのです。けれども、周りの人間は、その執り成しに気づかず、彼は自分自身の罪過ちのために罪人(つみびと)とされ、死んだと思い込み、あざけっているのです。
 主イエスは、ご自分が捕らえられ、十字架に架けられて死ぬのは、この預言の実現だと受け止めておられます。自分は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをするために、十字架にかかって死ぬ、と。そうするのは、神の預言(言葉)、神の御心(みこころ)に従って、人々に神の救いをもたらすことだと主イエスは知っておられるのです。
 けれども、主イエスの死の意味は、周りの人々には分からないのです。いや、一緒に行動して来た弟子たちにさえ分からないのです。弟子たちの目には、主イエスの死は、惨めな敗北の処刑だと映るに違いありません。そう見えたら、弟子たちは主イエスについて行けなくなる。主イエスと一緒に死ねなくなる。主イエスはそのことをよくご存知でした。弟子たちの心を見通しておられました。だから、主イエスは弟子たちに、一緒に死のう、とは言わなかったのではないでしょうか。納得していない者を無理やり道連れにしても、意味がないからです。

 けれども、主イエスは信じていました。弟子たちが立ち直ることを。弟子たちが必ず復活することを。だから、直前の32節でペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われているのです。
 主イエスを見捨てたペトロが立ち直る時が来る。主イエスを捨てて離れ去った弟子たちがきっと立ち直る時が来る。その時、弟子たちは、主イエスの十字架の死の意味が分かるようになる。多くの人の罪過ちを担い、背いた者のために執り成す死だったのだと分かるようになる。いや、多くの人などと他でもない、この自分の罪のために主イエスが死に、父なる神に執り成しをしてくださったのだと心に染み通るようになっている。その実感、その体験をもって、弟子たちは、多くの人々に、神の救いが実現したことを宣べ伝えられるようになる。アダムとエヴァがエデンの園で罪を犯して追放されて以来、神さまが計画し、苦心して来た救いが実現した、神の愛と赦しがもたらされたことを、魂の底から宣べ伝えられるようになるのです。その時が必ず来るのです。
 そして、その時が来るまでの時間を生きるための財布であり、袋であり、剣ではないか。そうだとしか考えられないのです。

 もう一つの大きな疑問はそれです。どうして主イエスは、「しかし今は」財布を持ち、袋を持ち、剣を持て、と言われたのか?その答えがこれです。弟子たちが立ち直る時が来る。主イエスの死の大きな恵みが分かるようになる時が来る。その恵みを宣べ伝えるべき時が来る。けれども、その時までには時間がかかる。その間を生き抜くための財布であり、袋であり、剣であると私は思うのです。
 それでも‥‥‥剣を用意せよ、と言われたことの意味は、まだ私の腹にストンっと落ちて納得できているわけではありません。正直、その答えがまだ見つからないのです。どうして主イエスは弟子たちに剣を用意させたのでしょうか?
 この直後の箇所で、主イエスが敵対する者たちに捕らえられた時、弟子の一人が剣を持って大祭司の手下に打ちかかり、その右の耳を切り落としたことが書かれています。弟子たちはこの時のために、主イエスが剣を用意せよと命じたのだと思っていたでしょう。けれども、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」(51節)と言われ、手下の耳に触れて癒されたと記されているのです。このことから察するに、主イエスが、敵と戦い、打ち勝つために、弟子たちに剣を用意させたのではないことは明らかです。では何のために?‥‥‥そこに、私は自分に納得のいく答えをまだ見つけられないのです。
 日本の国は「しかし今」という時ではないでしょうか。日本国憲法第9条が脅(おびや)かされています。戦後の日本は、憲法の解釈によって自衛隊を設立し、育てて来ました。しかし、今までの解釈では、自衛隊はあっても、それを戦争に使うことはできなかったわけです。ところが昨年、安倍内閣によって集団的自衛権が閣議決定されました。これによって、今までは日本が攻撃された時だけしか自衛隊を使うことができなかったのが、日本の同盟国や友好国が相手国の攻撃を受けた時、一緒に反撃し、戦うことができるということになりました。言わば、かなり積極的に戦争ができる体制になったと言うことができます。そして、憲法9条さえも改憲されそうな時の流れです。それが、「剣」という視点で見た時の、今の日本の現状でしょう。私たちはだれも、その日本の今を、賛成であろうと反対であろうと、見過ごして過ごすことはできない立場に置かれています。
 国際的には見れば、集団的自衛権を持たない日本の国は、“異端の国”と見られるかも知れません。また今日の聖書の御言葉は、時によっては剣を持つことも便宜上あり得ると解釈することもできる箇所だと思います。それでも、私は、聖書全体から見た主イエスの教え、特にその愛の教えと、愛の究極である十字架を考えるとき、主イエスが剣を持つことを、武力を持つこと、武力を使って戦うことを認めているとは思えないのです。きっと言葉の裏に深い意味がある。悲しみがある。そして、日本の国は憲法9条があったからこそ、曲がりなりにも戦後70年、戦争をすることのない“奇跡の国”であることができたのだと思うのです。
 大晦日の紅白歌合戦に、31年ぶりにサザンオールスターズが映像で登場しました。その時、ヴォーカルの桑田圭介さんは、〈ピースとハイライト〉という曲を歌いました。
歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない
硬(かた)い拳(こぶし)を振り上げても 心開かない
都合のいい大義名分(かいしゃく)で 争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(Insane)
20世紀で懲(こ)りたはずでしょう? 燻(くすぶ)る火種が燃え上がるだけ
色んな事情があるけどさ 知ろうよ 互いのイイところ!!
希望の苗を植えていこうよ 地上に愛を育てようよ
未来に平和の花咲くまでは…憂鬱(Blue)
絵空事かな?お伽噺(とぎばなし)かな? 互いの幸せ願うことなど
この素晴らしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も 人間(ひと)は何故に忘れてしまう?
愛することを躊躇(ためら)わないで
物すごい反響だったと思います。サザンオールスターズは、この問題に一つのメッセージを投げかけています。私たちも「しかし今」、聖書の教えを前にして、自分なりの答えを出すことを求められているのではないでしょうか。
 しかし、忘れてはなりません。イエス・キリストの教えは、お互いにいいところを見つけ、互いに愛し合うことだということを。それを忘れて聖書の解釈と主張をし合い、争い合ったら、教会もクリスチャンもないのです。それを忘れずに、私たちは信仰の道を進みましょう。



   ウィンドウを閉じる