2015年1月11日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章39〜46節
  説教者  山岡 創

「 いつものように 」

  弟子たちとの最後の晩餐(ばんさん)を終えて、主イエスは「オリーブ山」(39節)に出て行かれました。そこで祈るためです。マタイやマルコ福音書には、そこにゲッセマネと呼ばれる園があったと書かれています。そのため、この時の主イエスの祈りは〈ゲッセマネの祈り〉と呼ばれます。
 この時の主イエスの祈りは、とても激しい祈りだったと思われます。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた」(46節)という言葉からその激しさが分かります。「苦しみもだえ」とあるように、主イエスはこの時、大きな苦しみを抱えていました。それは、自分がつかまり、十字架刑にされる時が間近に迫っていたからです。主イエスという方は、言わば時代の“革命児”でした。神の御(み)心は何かということを考えながら、生き生きとした命と喜びを失っていた当時のユダヤ教にメスを入れ、変えようとされた方でした。その教えと行動は、保守的なユダヤ教の指導者たちと対立し、彼らは、神への冒瀆罪(ぼうとくざい)と国家への反逆罪とすることで主イエスを処刑しようとしていました。そのような指導者たちの作戦と包囲網がぎりぎりまで絞られていることを主イエスは勘づいておられたのです。
 自分の死ぬ時が迫っている。しかも、その死は、汚名(おめい)を着せられての処刑である。更に、弟子たちには裏切られ、見捨てられる死である。それが主イエスの苦しみでした。

 けれども、主イエスのこの時の祈りは、俗に言う“苦しい時の神頼み”ではありませんでした。言わば“いつもの祈り”でした。「いつものように」「いつもの場所」(40節)で祈る祈りでした。継続的な、積み重ねられて来た祈りでした。
 先日8日の聖書と祈りの会は、昨年を振り返って感謝し、新年の思いと抱負(ほうふ)を語り合う祈り会でした。その場に出席された多くの方が、特別新しいことと取り組むという抱負はないけれど、今までやって来たことを継続することだ、そして充実させることだと言われました。私もその一人です。
 私は自分のことを継続的な人間だと思っています。やり始めたら、一つのことをずっとやり続けるところがある。良く言えば飽きっぽくない、悪く言えばしつこいのです。けれども、今回自分のことを省みて、自分は継続的な人間ではないのでは?と思いました。例えば、私はダイエットをします。牧師になってから20数年で、10キロ以上のダイエットを4回やりました。20キロ近く落としたこともあります。我ながら、ある意味ですごいと思う。けれども、4回もやっているということはリバウンドしているということです。落した体重を継続的にキープできない。徹底的にやって、でもその後で反動が来るような感じです。どうも私は細く長くできないところがあるのではないか。ジョギングもそうです。私はすぐそこの高麗川(こまがわ)の土手を走ります。ジョギングというほど遅くはない。5km、10km、かなり早ペースで走ります。だいたい早朝、週に3回か4回走るのですが、今はやっていません。3ヶ月ほど前から下腹部と股関節周りに痛みがあって、走ると痛いからです。でも、歩くことはできる。走れなかったらウォーキングに変えればいい。良くなったら徐々に走ればいい。でも、それでは納得がいかない。どうも私は、やるなら徹底的にやらないと気が済まないタイプです。
 だから、私の今年の目標は、日常生活の中での祈りを、継続的に、さぼらずにすることです。“一日の計は朝にあり”という諺(ことわざ)がありますが、私は朝、聖書を読んで祈ります。欲張って、徹底的にやろうとすると、たぶん続かない。だから、細く長く続けたいと願っています。時には5分だっていい。忙しいと言い訳せず、眠いと言ってさぼらず、継続したいと願っています。“いつもの祈り”にしたいと願っています。その継続が祈りに厚みをつくることだと思うのです。
 “継続は力なり”という言葉がありますが、祈りを継続していくとどうなるか。祈りが毎日積み重なって、祈りに厚みが増すのです。重厚な祈りになっていくのです。その重厚さが祈りの力を生み出します。どんな苦しみにあってもぶれない生き方の土台になるのです。
 苦しい時の神頼みが悪いとは思いません。私たちには、そういうところがあります。何か苦しみにあって自分の力では解決できず、その時、わたしたちは初めて、真剣に神に祈ろうとすることがあります。それがきっかけとなって入信することだってあります。
 けれども、苦しい時の神頼み的な祈りには、祈りの厚みがありません。その祈りによって、その時その場の苦しみが解決したとしても、それはまだ祈りの“入口”です。その先にある、祈りの本当の力、信仰の本当の恵みを手にするには、祈りを積み重ねて厚みを増していく必要があります。薄い紙をピンと張っても、私たちはその上に立つことはできません。体重の重さで紙は破れ、私たちは下に落ちます。けれども、何百枚、何千枚と積み重ねたら、その紙は分厚い板のようになり、私たちはその上に安定して立つことができるでしょう。祈りと人生の関係も同じではないでしょうか。

 主イエスは、いつものように、いつもの場所で祈られました。さて、その祈りは、
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)
という祈りでした。主イエスは神を「父」と呼びます。親しみと信頼を表しています。「御心」とは、その父なる神のお考え、ご計画のこと。そして、「この杯」というのは、苦しみのことです。主イエスが間もなく見舞われる逮捕と十字架刑のことです。そこで着せられる汚名と人々の罵声(ばせい)、そして弟子たちの裏切りです。つまり主イエスは、“私の願いは、この苦しみが取り除かれることです。神さまもそのようにお考えなら取り除いてください。しかし、そうお考えでなければ、私はあなたのお考えに甘んじて苦しみを受けましょう”と祈っているのです。簡単に言えば、“神さまの御心のままに行ってください”という祈りです。
 教会に来始めて日の浅い方や、この聖書の言葉を初めて聞いたという方は、“えーっ、これ何?こんなの初めて。よく分からない”と思われたのではないでしょうか。“人生って、自分で考えて自分で決めるんじゃないの?自分で行動するんじゃないの?そうではなくて、神さまが考えて決めるの?そんなのよく分からない。あり得ない”。そう思われたとしても不思議ではありません。けれども、主イエスはそうお考えになっています。そして、イエスを救い主と信じて従うクリスチャンもそのように受け止めるのです。皆さんは、自分の人生を、自分の考えや力の及ばないところで、別の何かに定められていたかのように感じることがあるのではないでしょうか。また、起きた結果から振り返って考えると、単に自分の考えや力ではなく、何かに導かれていたかのような不思議さを感じることもあるのではないでしょうか。クリスチャンというのは、そういう人生の出来事を、いや人生そのものを、主イエスの教え、聖書の教えに従って、神の御心(お考え)によって定められ、導かれていると信じて生きるのです。どんなに不都合で、苦しい出来事であっても、そこに神さまの愛と善意が込められていると信じて生きるのです。その信仰を生み出すものが、積み重ねられた祈りの厚みです。
 分かりにくい方は、このように考えてみたらどうでしょうか。昨晩、娘がレンタルして来た〈プラダを着た悪魔〉という映画をDVDで見ました。大学を優秀な成績で卒業し、ジャーナリストを夢見る一人の女性が、なかなかその職には就けず、最後に有名なファッション雑誌の編集会社に就職し、そのやり手女性社長のアシスタントを務めることになります。けれども、その女社長の要求は厳しく、家庭の世話まで押し付けてくる命令に、彼女は嫌気がさし、認めてくれない社長に不満を持ち、涙ながらに上司にその気持を訴えます。けれども、返って来たのは慰めの言葉ではありませんでした。君はこの仕事をジャーナリストになるための踏み台だと思っている。だれもが憧れるこの仕事を、“やってやっている”という気持でやっている。その態度に問題はないか?‥‥その上司の言葉に、彼女はハッとします。そして、自分本位だった仕事態度を改めて、女社長の要求を受け止め、どうしたら社長が喜ぶかを考えながら仕事をするように変わっていくのです。これはまだ映画の半ばの話ですが、この映画の中の仕事を人生に、女社長を神さまに置き換えて考えれば、ちょっと分かりやすいのではないかと思うのです。
自分の人生です。でも、自分の人生に何かを考え、命令し、求めて来る方がおられる。自分中心に考えて、突っぱねることもできます。けれども、その要求を受け止めて、その方が喜ばれるように生きることによって、人生がナチュラルになる。流れに突っ張って生きていたのが、無理のない、自然な流れになる。自然体になって、生き生きとし始める。労苦の中でも輝き始めるのです。
 ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神医学者がいました。『夜と霧』という本を書きました。第二次世界大戦の時、ナチス・ドイツによって強制収容所に入れられた体験をつづったものです。何百万人ものユダヤ人が言われもなく過酷な環境で働かされ、そして虐殺されました。その死と隣り合わせの状況の中で、死んだ者と生き残った者の違いは何であったかを書いているのです。その違いは、人生の捉え方、生き方でした。それは、自分の力で何とかしようとする者と、神が何かをなしてくださると信じる者の違いだったと言います。自分の力で何とかしようとあがく者には絶望しかなかったけれど、神が何かをなしてくださると信じる者には落ち着きと希望があった。その希望が、強制収容所の中で、その人の精神と肉体を支えたというのです。
 主イエスの祈りとは、言わばそういう祈りです。苦しみの中で、神にお任せした“希望の祈り”だったのです。もちろん、人生は自分で考え、決断し、努力するという面があるのは当然です。けれども、神の御心を考え、御心に沿って生きようと心掛けるときに、私たちの心には、信仰による信頼と希望が生まれます。慰めと励まし、導きと支えが生まれます。苦しみの中にあっても、ぶれずに生きていけます。そのための祈りです。
 もっとも、私たちの祈りは、「御心のままに」と格好をつけなくても良いと思います。私たちの中には“こうしてください”という願いがあります。それを脇において、「御心のままに」なんて祈ったら、嘘くさい祈りになります。“神さま、こうしてください”という願いの祈りでいい。大事なことは、祈ったとおりにならなくても、“祈ったって無駄だ。神も仏もあるものか”と祈りを捨てないこと、信仰を捨てないことです。自分の願ったとおりにいかなくとも、捨てないことが、すなわち神の御心に従うことになります。その体験と祈りを積み重ねていくうちに、「御心のままに行ってください」と、いつか心から祈れるようになる日が来ると思います。

 主イエスは弟子たちに、「誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と2度、言われました。「誘惑」とは何でしょうか?それは、苦しみや悲しみによって、神を信じられなくなり、神から引き離されそうになる、信仰を捨てそうになる私たちの心の動きです。その誘惑に陥らないようにするためには、祈る以外にない。祈りを「いつものように」繰り返し、積み重ね、厚みを増す以外にない。祈りによって信仰を重厚にする以外にない。その祈りと信仰の厚みが、私たちの人生を支える大きな力になるのです。
 先ほど8日の祈り会のことを話しました。その席で、ある方が“今は、特に苦しみやストレスもなく、神さまに感謝している”と言われました。すると、別の方が“でも、またどこかで苦しみに襲われるかも知れませんよ。そうなった時の信仰だと思うのですが”と言われました。そう言われて、最初の方が、“そうですね。でも、ここまで祈りと信仰の生活を継続してきたら、どんなことが起こったとしても、神さまからは離れないでしょう”と言われました。本当にそうだなぁ、と感じました。祈りと信仰の厚みから生まれる神への信頼があるからです。この一年も、祈りを継続し、信仰生活を継続し、信仰の厚みを加えながら、希望と平安のぶれない歩みを心がけて行きましょう。



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