2015年1月18日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章47〜53節
  説教者  山岡 創

「 それでよい 」

 「それでよい」とイエスは言われました。実に不思議な言葉です。大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした弟子に、イエスは、「やめなさい。もうそれでよい」(51節)と言われました。いったい何が、それでよいのか?弟子たちには訳が分からなかったに違いありません。
 22章を最初から読むとつながりが分かりますが、弟子たちとの最後の晩餐(ばんさん)を終えて、オリーブ山で祈っていたイエスを捕らえるために、「祭司長、神殿守衛長、長老たち」(52節)といったユダヤ人の政治と宗教の指導者たちが、その手下を引き連れてやって来たのです。彼らは、イエスの教えと行動を煙たく思い、憎み、イエスを捕らえ、適当な罪と汚名を着せて処刑しようと企てていたのです。弟子たちは、そのような「事のなり行きを見て取り」(49節)ました。そこで、弟子の一人が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落としたのです。ところが、イエスは「やめなさい、もうそれでよい」とお止(とめ)になり、しかも相手を癒(いや)されました。いったい何が、それでよいのか?抵抗し、戦わなかったら、主イエスがつかまってしまうではないか。処刑され、殺されてしまうではないか。そうなったら、主イエスの、自分たちの3年間の宣教活動は水の泡ではないか。それでよいのか?‥‥‥弟子たちはそう思ったに違いありません。訳が分からなかったに違いありません。
「それでよい」。主イエスは何を思って、こう言われたのでしょうか?

 事の発端は、イエスの弟子であるユダ、イスカリオテのユダが、祭司長、神殿守衛長、長老たちの一団を手引きして、イエスを引き渡すために連れて来たことでした。
 22章のいちばん初めの部分を読むと、ユダが彼らにイエスを引き渡す相談を持ちかけたことが書かれています。彼らは喜び、ユダに金を渡し、ユダをスパイにして手引きさせることにしました。この時、「ユダの中に、サタンが入った」(3節)と書かれています。日本流に言えば“魔が差した”ということです。
 教会の中にも、そういうことが起こるのではないでしょうか。主イエスは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)とお命じになりました。愛こそ、弟子たちにとって、教会にとって、ただ一つの、最も重要な主イエスの掟です。ところが、ユダはその愛のしるしである接吻(せっぷん)を見せかけに使って主イエスを陥(おとしい)れようとしました。
 愛が裏切られる。親しみと信頼が裏切られる。残念ながら、教会の中でもそれを感じることがあるでしょう。教会生活、信仰生活が長くなればなるほど、それを感じるようになります。失望して教会を離れることだって起こり得る。けれども、皆さんに一つ聞きます。その相手と話をしましたか?‥‥話をして、それでも相手が親しみと信頼を踏みにじるなら、仕方ありません。けれども、私たちは、話をしないまま、相手を誤解し、決めつけ、思い込み、感情を損ねていることが、少なからずありはしないでしょうか。もちろん、一度わだかまった相手と話をするには冷静さが要ります。勇気が要ります。無駄だと思う考えを変える必要があります。簡単ではないかも知れない。けれども、それをしようとしなかったら“愛”がない。互いに愛し合う教会ではない。もちろん、話し合ったからと言って、すぐに解決できるとも限らない。人間は感情の動物ですから難しい。感情が落ち着くまでは、かえって話さない方が良い場合だってあります。それでも、話をしようと思うことは、壊(こわ)れかかったお互いの関係を、修復に向けて一歩前進させることだと思うのです。そういう対話の心のないところに、すれ違いが生じ、その隙間に魔が差すのです。悪魔が入り込むのです。お互いに対話をすること。夫婦であろうと、同僚であろうと、友人であろうと、家族であろうと、教会の仲間、牧師と信徒であろうと、対話をすることが、互いに愛し合うことの第一歩、和解への第一歩です。

 けれども、それをしないままユダは主イエスを裏切りました。主イエスの方は、ずいぶんユダにチャンスを振っていた(水を向けていた)と思うのです。最後の晩餐の席上で、だれとは言わず、「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。‥‥人の子を裏切るその者は不幸だ」(21節)とイエスは言われました。“バカなことはするな。思い直せ。それは不幸の元だぞ”と。イエスはユダが思い直すことを望んでおられたのです。だから、みんなの前で名前を明かさない。そうでなかったら、裏切りが分かった時点で、とっくにユダを処分していたでしょう。ところが、主イエスのその気持はユダには通じませんでした。そう言われたとき、ユダは冷や汗をかいたかもしれません。“ばれている”。それがかえって、ユダに主イエスの引き渡しを急がせるきっかけになったかも知れません。
 主イエスはどんな気持だったでしょうか。裏切られ、愛と信頼を傷つけられて。しかし、それでも主イエスは、ユダを赦(ゆる)していたと私は思います。そうでなければ、とっくにユダを処分していたでしょう。裏切るために近づいて来たとき、カッとして剣(つるぎ)で切り付けていたかも知れない。けれども、主イエスはそうしなかった。なぜか?ユダを愛しておられたからです。イエスの心の中にあったのは、ユダに対する悲しみと愛、すなわち悲哀の気持だったと思います。怒る気にはなれず、ユダの考えの足りなさ、愛の足りなさを悲しみ、しかし赦す愛だったと思います。その赦しを、「それでよい」という言葉が、暗に表わしていると私は思っています。「それでよい」という言葉が表わすもの、その第一は“赦し”です。
 そうでありたいと私も思っています。裏切られたと思うことがあります。そこまででなくても失望することがあります。教会の中で、牧師と信徒、信徒同士、たぶんお互い様でしょう。傷つけられたと思い、腹が立つこともあります。その気持を飲み込んで、相手を包み込んで、赦せる人間でありたい。それは、自分が主イエスから、そのように赦されていると思うからです。人にも忍耐してもらって、赦されていると思うからです。教会というところは、互いに愛し合うことが理想化されている場所ではありません。互いに愛し合えない私たちが、そういう自分の罪に気づかされて、互いに赦し合うことを大切にし、目指していく場所だと思います。私は、皆さんとそういう関係でありたい、そういう教会を造りたいと願っています。

 「それでよい」という言葉が表わす二つ目の意味、それは“受容(じゅよう)”です。受け入れるということです。
 弟子たちにしてみれば、主イエスが「もうそれでよい」と言って、抵抗することを止め、相手を癒したことは、訳が分からなかったに違いないと、先ほどお話しました。
 けれども、主イエスの目から見れば、弟子たちの行動は、ご自分の教えに適っていないのです。愛に適っていないのです。剣を持って向かって来る相手に剣を持って立ち向かい、戦って何になるか。打ち負かし、勝って何になるか。それでは勝って、負けです。相手を愛するという信念の前で、自分に負けています。だから、主イエスは「あなたの頬(ほお)を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6章29節)と教えられるのです。イエスの愛は敵でさえも赦し、癒す愛なのです。
 けれども、イエスは剣で切りかかる弟子たちの行動を、“それはおかしい。間違っている”と否定しません。止めはしますけれど、「それでよい」と言われるのです。
 私たちは、どんな場合に「それでよい」という言葉を使うでしょうか?人に何かを頼んで、その人から“これでいい?”と聞かれたとき、“それでいいよ”と答えることがありますね。文字通りにとれば、“それでOK、こちらの要求に適っている”という意味で、そう答えます。けれども、口では“それでいいよ”と言いながら、心の中では“それでOK”と思っていないことがあります。一つには、相手に遠慮し、配慮しているときです。せっかくやってくれたのだからと思い、相手を傷つけ、不快にさせてはいけないと思って、“それでいいよ”と言います。もう一つは、今、相手に“それは違うよ”と言っても、相手が理解できない時です。その間違いが許容範囲内であれば、その間違いを受け入れて、相手が自分で気がつくまで忍耐して待つ。そういう関係が、私たちにはあるのではないでしょうか。決して相手の言葉や行動を、「それでよい」と言って肯定しているわけではない。でも、あからさまに否定せず、自分で間違いに気づくまで、忍耐し、期待して待つ。そういう受容の態度を、「それでよい」という言葉が表わしています。
 この時の弟子たちは、主イエスの御心(みこころ)を、まだまだ理解し、受け止めてはいませんでした。それを今、言っても分からない。けれども、いつか分かる時が来るに違いない。そう信じて、そう期待して、弟子たちを「それでよい」と受け入れる。
 受け入れるとは、待つことです。育てることです。待って育てることは、愛です。私たちも、欠けの多い、愚かで罪深い者でありながら、父なる神に受け入れていただいて、待っていただいているのではないでしょうか。だから、私たちも人を徒(いたずら)に否定せず、性急に説得しようとせず、受け入れて待つことが必要ではないでしょうか。信仰の成長には特にそうです。だから、教会の中には、「それでよい」と受け入れることが、受け入れて祈ることが、とても大切になってきます。

 「それでよい」という言葉の三つ目の意味は、“納得(なっとく)”だと思います。イエスがご自分の人生に、運命に納得しておられるのです。
 イエスは、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)と言われました。祭司長、神殿守衛長、長老たちの企てが成功しようとしているのです。独善的で、自分たちのことだけを考えた企てです。理不尽です。とても納得などできない。抵抗したっておかしくない。逃げたっておかしくないのです。けれども、主イエスは抵抗する道を選ばない。逃げる道も選ばない。悪意のある、理不尽な企てから生じるご自分の運命を受け止めておられるのです。それは、愛する道を歩こうとする限り、必ずぶつかる人間の悪意だ、人間の闇だということを、主イエスが納得し、覚悟しておられたからです。
 それなら、そんな愛の道、人を愛する道を歩かなければいいではないかと思います。確かにそのとおりです。けれども、神の御心を知ってしまった主イエスには、神と出会ってしまった主イエスには、もはやそれができないのです。その道の他に、人として歩く道はないのです。
 私たちもそうではないでしょうか。主イエスと、神と出会う前は、自分の損得ばかりを考えて生きていたかも知れない。けれども、主イエスと出会ってしまったら、神と出会ってしまったら、もうこの道しか歩けないはずです。人を愛する道以外、選べないはずです。もちろん、私たちは未だに自己中心であることに変わりはありません。愛において罪を犯します。失敗します。落ち込むこともあります。それでも、この道しかない。主イエスに赦していただいて、待っていただいて、たどたどしくても、この道を歩くほかはないのではないでしょうか。そして、その道で出くわす人の理不尽も、悪意も、冷たい言葉や態度も、傷つけられる出来事も、「それでよい」と納得しなければ、この道は歩けない。そう簡単には納得できません。主イエスとて、そのために血の汗を流す祈りをなさったのです。けれども、それを納得すれば、愛だけが残ります。愛の喜びだけが残ります。“こんな私ですが、よろしくお願いします”と神さまにゆだねて、“神さまがちゃんと見守っていてくださる”と信頼して、「それでよい」と納得して歩むならば、主イエスと共に、神と共に歩んでいる喜びと誇りだけが残ります。今は闇の時でも、必ず愛が勝利する時が来る。そう信じて歩きたいのです。

 「それでよい」。実に不思議な、そして深い言葉です。赦しと受容と納得、信仰を持って生きる歩みの中で、この言葉を繰り返し味わいながら進みたいと思います。




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