2015年1月25日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  ヨシュア記24章14〜18節
  説教者  山岡 創

「 この方こそ、わたしたちの神 」

 私は今、ぜひ見たいと思っている映画があります。1月30日から公開される〈エクソダス〉という映画です。旧約聖書の出エジプト記に書かれている物語で、イスラエルの人々がモーセに導かれて、エジプトの国を脱出する話を実写化したものです。
 イスラエルの人々は今から3千年以上も昔、エジプトで奴隷(どれい)にされていました。“辛(つら)い。助けて!”と人々が神さまに向かって叫ぶと、神さまはモーセさんを遣(つか)わして、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださったのです。
 エジプトを脱出したイスラエルの人々は砂漠と荒野を旅しました。神さまが、くださると約束してくださったカナンの地を目指しました。40年かかって、カナンの手前にたどりつきました。神さまは40年間、砂漠と荒野で人々に食べ物を与え、養ってくださいました。でも、そこでモーセさんが死に、リーダーがヨシュアさんに代わりました。ヨシュアさんは、神さまから「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」(1章5節)と励まされ、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入りました。そして、まずエリコの町を占領しました。高い壁に囲まれた町でしたが、神さまに命じられたとおり、イスラエルの人々が町の周りを7周回って鬨(とき)の声を上げると、壁が崩れ落ちたというお話を、先週の子ども礼拝(れいはい)で聞きましたね。今日の聖書のお話は、その時から何十年か経った後のお話です。

 最初にエリコの町を占領してから、イスラエルの人々は、何十年もかかって、カナンにある町を一つひとつ占領していきました。そして、約束の地カナンをすべて手に入れました。その時、ヨシュアさんは、イスラエルの人々をすべて、シケムという町に集めて集会を開きました。子どもたちは学校で、朝礼をやりますね。あんな感じで、もっと人がたくさんいる風景を想像してみてください。朝礼台のような台はないから、ヨシュアさんは大きな岩の上か、丘の上に立って、イスラエルのすべての人々にお話ししたと思います。簡単な話です。“どっちを選ぶ?”という話です。でも、とても重大な話でした。どっちの神さまを選ぶ?という話です。今まで“主”(マスター?)と呼ぶ神さまが自分たちを助けてくださった。エジプトから脱出させてくれた。砂漠の旅を、食べ物を与え、導いて下さった。カナンの土地を与えてくれた。だけれども、人が“神さま”と信じる神々はたくさんいる。カナンの地にも色んな神さまがいる。出て来たエジプトにも色んな神さまがいた。そこで今日、あなたたちは、主である神さまか、それとも他の神さまか、どちらを信じて仕えるか、選びなさい。そのように、ヨシュアさんは、イスラエルの人々に問いかけました。きっと、まだ迷っている人がいたのでしょう。どちらかを選びなさい。そう言った後、ヨシュアさんは、「ただし、わたしとわたしの家は主(である神)に仕えます」(15節)とはっきりと宣言しました。その宣言に打たれたかのように、応えるかのように、人々も、「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」(18節)と答えました。

 さて、皆さんが、“あなたはどの神さまを選びますか?”と聞かれたら、何と答えますか?。日本は“八百万(やおろず)の神”がいると言われる国です。八百万と言われるぐらい、たくさんの神さま、宗教があるということです。子どもたちは、ジブリのアニメ〈千と千尋の神隠し〉を見たことがあるでしょう。あの映画の中にも、鳥のような顔をした神さま、大根の神さま、川の神さま、お腐れ神‥‥‥いろんな神さまが出て来ました。トイレにも神さまがいると言われるぐらいです。それだけではありません。私たちは神さまでないものまで神さまにしてしまう。例えば、コンピューター・ゲームばかりしてゲームの虜(とりこ)になっている人がいたら、ゲームがその人の神さまです。お金が一番、何するにもお金のために、という人がいたら、お金がその人の神さまです。それはともかくとして、日本には色んな神さまと宗教があります。仏教、神道(しんとう)、教会はイエス・キリストとその主なる神を信じるキリスト教です。そういう中で、“どれを選ぶ?”と聞かれたら‥‥。
 子どもたちには、まだ難しい、よく分からない質問かも知れませんね。日本人は、何となく色んな神さまを信じているところがあります。お正月には初詣(はつもうで)に行って、お寺や神社の神さまに願掛けをして、でも日曜日には教会に来て、イエス様を礼拝するという人もいるかも知れません。生まれた時は神社でお祓(はら)いを受け、結婚式は教会でキリスト教式でやり、お葬式はお寺で仏教でやる、という人も少なからずいます。それはそれでよいのかも知れません。神さまを信じることは、人から強制されることではなく、自分で決めることだから、自分がよければ、それでよいのです。
 ただ、真剣に考えていたら、真剣に信じようと思ったら、いつか“私はこの神さまを選ぶ”という時が来るかも知れません。「この方こそ、わたし(たち)の神です」と言える時が来るかも知れません。その神さまが、イエス・キリストと主である神さまだったら、私はキリスト教の牧師としてうれしく思います。教会も嬉しいし、何より天におられる主である神さまが喜ばれるでしょう。
 神さまを信じるって、ある意味で“結婚”のようなものです。結婚相手の候補者がたくさんいる中で、ただ一人の人の良さを見つけ、その人を選び、その人を愛して、私たちは結婚します。神さまの場合も、その神さまの良さを見つけ、選び、この神さまを信じて生きていこうと心に決める時があります。(今、E‐girlsというグループが、ドリーム・カムズ・トゥルーというグループの〈うれしい、楽しい、大好き〉という曲をカバーして歌っています。あの曲の中で、探し求めていた彼と巡り合って、その人と初めて手をつないだら、私の右手はその後、スペシャルでスーパーになったもの、と歌うところがあります。私たちも、人とはもちろん、神さまと出会い、巡り合ったとき、自分の右手が、自分の心がスペシャルでスーパーになることがあるのです。)キリスト教で言えば、その時、イエス・キリストと結婚式を挙げる。それがつまり洗礼式です。

 イエス様のお弟子さんに、トマスさんという人がいました。イエス様が十字架に架けられて処刑され復活したとき、他のお弟子さんたちはイエス様にお目にかかることができました。けれども、トマスさんだけが会えませんでした。それで、トマスさんは“どうして自分だけが‥”と悔しくなり、悲しくなり、“ぼくは信じないぞ。そんな人が現れても、手の釘の穴に僕の指を差し込んでみなければ、イエス様だとは信じないぞ!”と意地を張りました。でも、そんなトマスさんのところに7日後、復活したイエス様が来てくれました。そして、“私の手の穴に指を入れてでも良いから、信じておくれ”と言われました。そのイエス様の優しさ、広く深い愛を感じて、トマスさんは「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)と叫びました。つまり、イエス様こそ「わたし(たち)の神」と信じたのですね。
 皆さんは、そういう感動を感じているでしょうか?私は、大学受験に2年続けて失敗し、人生に迷い、“自分はダメ人間だ”と落ち込んでいたときに、神さまの優しさによって救われました。神さまが“敗者復活”の新しい道を与えてくださいました。教会には、そういう人が私の他にもたくさんいます。教会に来て、みんなで礼拝して、聖書の教えを聞いていたら、いつか主である神さまの良さ、イエス様の良さ、教会の良さを感じる時が来ると思います。神さまの愛の暖かさに感動する時が来ると思います。私はこの神さまのもとに安心して居られると平安を感じる時が来ると思います。この神さまを信じたら、希望を持ってがんばれると思う時がきっと来ると思います。その時、私たちは、「この方こそ、わたし(たち)の神」と心から信じることができるでしょう。




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