2015年2月8日 
  聖  書  ルカによる福音書22章63〜71節
  説教者  山岡 創

「神の右に座る」

 もし現代において、直接イエス様にお目にかかることができたら、直接教えを聞くことができたら、直接癒しの業を見ることができたら、どんなにいいだろうか‥‥。こんなことを考えたことのある人が、私たちの中にもいると思います。
 では、イエス様が今も生きていて、私たちの教会においでになったとします。そして、私たちと一緒に愛餐会に参加され、一つの席に座ったとします。そうしたら、私たちはどうするでしょうか?。“イエス様!”と言って近づき、その隣に積極的に座るでしょうか?。どうもそうではないような気がします。ものすごくイエス様に注目しながら、でもちょっと離れた席に座るのではないでしょうか。そして、イエス様の隣は空いている。敬遠するのです。イエス様ほどのお方でなくても、たとえば、もし牧師である私が愛餐会の席に先に座っていたら、たぶん皆さん離れたところから座って、私の隣はなかなか埋まらないんだろうなあ、と思います。もちろんひがんで言うわけではありません。先日、埼玉地区の牧師会があって、講師を招いて講演を聴きました。とても良い講演でした。その方は、30年も前ですが、私が埼玉地区の青年部でも、また大学でもご一緒した人です。ところが、昼食会になって、私が少し遅れ気味に部屋に入ると、講師の隣の席は空いている。私も敢えてそこに座ろうとはしませんでした。私たちの中には、そのように敬って遠ざかるという遠慮の気持があります。
 今日の聖書の御言葉において、主イエスが、「人の子は全能の神の右に座る」(69節)と言われた言葉から、私はふと、そんなことを考えておりました。
 神さまの右隣の座席、そこはどんなにか栄光に満ちた席でしょうか。そして、私たちだったら、畏れ多くて、遠慮して、座れと言われても“いえいえ、めっそうもありません”と決して座りはしないでしょう。
 けれども、イエス様は、(ご自分のことを「人の子」と言われますが)「人の子は全能の神の右に座る」と、ある意味で積極的にそう言われるのです。神の右の座とは一体どんな座席、どんなポジションなのでしょうか。神の右に座るとは、どんなことを意味するのでしょうか。

 神の右の座の意味を勘違いして、その座に就こうとする人々もいます。私たちの祈りもむなしく、I国において、湯川さんに続き後藤健二さんも殺害されてしまいました。後藤さんは同じ日本基督教団の田園調布教会の教会員だったらしく、教団の本部から“後藤さんのために祈ってください”というハガキが届いていました。人質交換の交渉に上がっていたヨルダン軍のパイロットも殺害されて、ヨルダンはアブドラ国王を中心に、国民感情が復讐の念に燃えて、空爆を再開しました。私は、集団的自衛権を閣議決定した日本が、湯川さんと後藤さんを殺害されて、“戦え!”という空気にならないようにと願っています。
 大祭司の官邸で主イエスを見張っていた人々が、主イエスを殴り、目隠しをして「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」(64節)と、まるでゲームでもしているかのように侮辱し、ののしる姿を読みながら、私はI国のことを連想していました。もしかしたらI国の兵士たちも、捕虜に対して同じようなことをしているかも知れません。
 I国にはI国の理念、思想、信念というものがあるでしょう。それをどうこう言うつもりはありませんが、しかし、それをテロと暴力で押し通そうとするやり方は決して許されません。けれども、彼らはそういう自分たちのやり方を肯定する。おそらく、それがアラーの神のご意思だと彼らは考えているのではないでしょうか。まるで自分たちが神の右の座に座っているかのように、自分たちには神のご意思が分かっている、自分たちは正しいとばかりに、独善的に力を振るおうとするのです。もし彼らに言わせるならば、神の右の座とは、力と権力と支配の座でしょう。
 けれども、それは大きな誤解です。神の右の座とは、決してそのようなものではありません。主イエスが「神の右に座る」と言われたのは、決して権力と支配の座に座るという意味で言われたことではないのです。

 主イエスにとって、「神の右に座る」とはどんなことなのでしょうか。そのことを考える上で、今日の聖書箇所に出て来た主イエスの称号について考えてみたいと思います。
 余談ですが、そもそも“主イエス”というときの“主”というのがイエスの一つの称号です。私たちは当たり前のように“主イエス”とセットで言っていますが、それは“イエスは主である”と自分の信仰を言い表していることになるのです。イエスは世界の主、私たちの主、私の主、マスター、支配者だと言っていることになるのです。
 ところで、主イエスはご自分のことを「人の子」と言われます。ご自分のことを「メシア」(67節)だとか、「神の子」(70節)だとは言われたことがありません。
 教会に来始めて間もない方は、聖書を読み、説教を聞いていて、しばしば出て来る「人の子」って何だろう?と疑問を持たれた人もいることでしょう。いくつかの意味があります。単に“人間”という意味もあります。今日の聖書箇所にも出て来たメシアと同じ意味だという人もいます。旧約聖書のダニエル書7章13節では、神の前に「人の子」のような者が進み出て、支配する権威を受けたと書かれています。「人の子」が何を意味するか、今でも議論があるそうです。一つ言えるのは、「人の子」という言い方は、自分のことを表わすのに“ぼかした表現”だと言えるのではないでしょうか。どうしてイエスは、そのようなぼかした言い方をするのでしょうか?。それはもう少し後でお話します。
 主イエスのことを裁いて、汚名と濡れ衣を着せ、十字架刑にしようとする長老、祭司長、律法学者たちは、「最高法院」(66節)と呼ばれるユダヤ人の最高の議会において、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」(67節)と尋問しました。
 ここに「メシア」という称号が出て来ます。「メシア」というのは、聖書の巻末の用語解説にもあるように、旧約聖書の原語であるヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。イスラエル王国において、王様や祭司が神さまに選ばれたことを視覚的に表わす意味で油を注ぐ儀式が行われました。イスラエルが戦争に敗れ、国を滅ぼされた後では、メシアはイスラエルに救いをもたらす“救い主”の意味になりました。
 主イエスの当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国に支配されていました。だから、ローマとの戦いに勝利し、ユダヤ人の国を復興する政治的な英雄として、この救い主「メシア」が現れることが期待していました。けれども、長老、祭司長、律法学者たちは、その期待を逆手にとって、主イエスを陥れようとしたのです。と言うのは、イエスが自分のことを「メシア」だと言えば、ローマ帝国に対する反逆者として訴え、ローマの権力で処刑する口実になるからです。けれども、主イエスがお考えになっていたであろうメシア像はそうではありません。力と権力で支配する政治的な英雄ではなく、十字架の上で多くの人の罪の身代わりとなって死に、人々を罪から救い、神との関係を和解させる救い主を、主イエスは考えておられたと思います。ちなみに、「メシア」を新約聖書のギリシア語で言うと、“キリスト”になります。だから、私たちが“イエス・キリスト”という時には、それは苗字と名前ではありません。先ほど“主イエス”という呼び方についても話したように、“イエスは救い主キリストです”と信じる言い方なのです。
 今日の聖書箇所でもう一つ、「では、お前は神の子か」(70節)という尋問の中に、「神の子」という称号が出て来ます。これは、“子”と言えば“親”がいますから、親子関係のような、神さまとの特別な関係を表しています。神の心を知る者、神と等しい者とも言ってよいかも知れません。古代の王たちがしばしば、自分の権力を宗教的に権威付けるために“自分は神の子だ”と自称することがありました。
自分を「神の子」と言うことは、ある意味で畏れ多いことです。だから、祭司長や律法学者たちは、主イエスに、自分は神の子だと言わせることによって、神を冒涜したという宗教的な罪を、またローマ皇帝の権威を脅かす政治的な罪を着せようとしたのです。けれども、主イエスはご自分のことを一度も、「神の子」とも、「メシア」だとも言ったことはありませんでした。

 さて、先ほど、後でお話すると言いました、主イエスがご自分のことを「人の子」と、あいまいに、ぼかして表現する理由ですが、一つには、ご自分のことを煙たく思い、敵対している祭司長、律法学者、長老たちから、裁かれないための用心かと思います。
 けれども、それ以上に大きな理由は、主イエスの言葉を聞き、その行いを見、その姿に接した人に、自分の口で、自分の意思で、自分の信仰で、イエスは「メシア(キリスト)」「神の子」だと信じて告白してほしい、という思いがあるからだと思います。
 ルカによる福音書9章18節以下で、主イエスが弟子たちに、自分のことをどう思っているかと聞いたとき、ペトロが「神からのメシアです」(9章20節)と答えている場面があります。主イエスはそのように、自ら信仰告白することを望んでおられるのです。
 しかも、主イエスが望んでおられるのは、ご自分を、ローマ帝国に勝利し、国家を復興する英雄的なメシア・キリストと信じることではありません。そうではなくて、旧約聖書のイザヤ書53章で預言されているように、ご自分が多くの人々の罪を身代わりとなって背負い、十字架の死によって人々の罪を償い赦す救い主だと信じることです。人間は、最初に神によって造られた人・アダムとエヴァ以来、神さまの言葉と御心に背き、その罪のために神さまとの関係を壊してしまいました。それを修復するには、“もはやこれしか方法はない”と、イエスの命を犠牲にして解決し、和解してくださる。その神の愛を、自己犠牲の愛を、身をもって表わす救い主キリストであると信じることを主イエスは望んでおられるのです。
 今日の説教題を「神の右に座る」と付けました。神の右に座るとは、神の心を知る者が、そしてその心を実行する者が座ることを許される座席です。そして、神の心とは、力と権力で支配することではなく、愛によって人を受け入れ、包むことです。
 救いは“力”ではなく、“愛”にある。そう信じることのできる人が、“イエスは神の子、救い主キリストである”と告白することができます。私たちは、ともすれば力を望み、その力による解決を願いますが、そこに“救い”はありません。望んだとおりにならなくとも、神に愛される“愛”の中にこそ、私たちの人生の救い、魂の救いがあることを、そして神の愛に基づいて互いに愛し合う“人の愛”にこそ、この世の温かみがあることを信じて、そういう道を生きて行きましょう。



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