2015年3月1日受難説第2礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書23章1〜25節
  説教者  山岡 創

「神を裁く陪審員」

 私たちは毎週の礼拝で、使徒信条(しとしんじょう)を告白します。信仰の告白です。父なる神とイエス・キリストの前に、また全会衆と共に、私たちの信じることはこれです、と言い表します。その使徒信条の中に、“ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け”と告白するところがあります。その告白の内容に当たるのが、まさに今日読んだ聖書の箇所です。
 使徒信条は、ただ暗記して唱えるだけでは意味がありません。自分が告白している言葉がどんな内容、意味を持っているのか、理解し、思い浮かべてこそ、信仰告白だと思います。ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、と告白するたびに、この聖書の箇所を思い出してほしい。そして、主イエスが受けた苦しみとは何かを思い浮かべてほしい。その苦しみを与えたのはだれなのか、心に深くとらえほしいと思うのです。

 当時、ローマ帝国が地中海周辺の広大な地域と民族を支配していました。ユダヤ人もその一つでした。帝国は支配地域を州に区分けしました。主イエスが捕らえられ、裁かれた地域は、エルサレムのあるユダヤ州でした。このユダヤ州を治めるために、中央から派遣されたユダヤ総督がポンテオ・ピラトでした。
 総督は2つの権限を握っていました。一つは税金を集める権限、もう一つは人を死刑にする権限でした。支配されているユダヤ人は、この2つの権限を許されていませんでした。だから、直前の箇所で、ユダヤ人の長老会、祭司長や律法学者たちは、「最高法院」(22章66節)と呼ばれる最高裁判を開きながら、「イエスをピラトのもとに連れて行った」(1節)のです。彼らには、主イエスを死刑にする権限がなかったからです。そこで、ピラトによって死刑判決を下してもらおうとしたわけです。言わば彼らは、原告として主イエスをピラオに訴えたと言うことができます。
 けれども、ユダヤ教の信仰上の問題では、ピラトは裁きを下しません。ローマ帝国に実害を与える犯罪でなければ、まして余程の重罪でなければ、死刑の判決など下さないのです。だから、最高法院に集まった全会衆は、主イエスのことをローマ帝国に歯向う政治犯として訴えました。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(2節)。民衆の扇動、納税の禁止、王と自称‥‥そういった政治上の罪として主イエスを訴えたのです。
 けれども、ピラトは、この訴えを政治上の問題ではなく、宗教上の問題と見なし、帝国には実害なしと判断しました。だから、「わたしはこの男に何の罪も見だせない」(4節)と言いました。何度も繰り返して言います。ガリラヤ州の領主ヘロデのもとに送って、何ら政治的な罪がないことを証明させています。 にもかかわらず、祭司長、律法学者、長老たちは、その判断に納得しようとしません。何としても主イエスを死刑にしようとします。主イエスと信仰が合わないからです。主イエスに自分たちの立場と人望を取られてしまいそうだからです。主イエスが妬(ねた)ましく、邪魔だからです。
 ピラトが法廷を再開し、主イエスを「鞭(むち)で懲(こ)らしめて釈放しよう」(16節)と判決を下そうとすると、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」(18節)と叫びました。ピラトが改めて呼びかけても、人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」(21節)と叫びつづけます。「イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた」(23節)といいます。「その声はますます強くなった」(23節)といいます。以前に使っていた口語訳聖書は、この23節の最後の言葉を「そして、その声が勝った」と訳しています。ピラトはその声に屈し、群衆の暴動を恐れ、「彼らの要求をいれる決定を下した」(24節)のです。

 ところで、「十字架につけろ」と、ピラトを負かした声の“主(ぬし)”はいったいだれでしょう?祭司長たちかと思いきや、そうではありません。長老たちでも律法学者たちでもありません。最高法院の議員たちでもありません。もちろん、彼らも「十字架につけろ」と叫んだに違いありません。けれども、その声の主は特定のだれかではなく、「人々」(18節)と記されています。22章から23章にかけて注意深く読むと、主語が少しずつ変化していることが分かります。そして、23章13節以下の場面では、主語はすべて「人々」です。ユダヤ人の群衆、民衆を含めた“一般人”です。人々です。
 福音書(ふくいんしょ)記者であるルカは意図的に、こういうぼかした表現にしたのだと思われます。それは、主イエスを十字架につけたのは、特定のだれかではなく、すべての「人々」なのだと訴えているのです。そして、その「人々」の中に“あなた”も入っていると読者に語りかけているのです。あなたも、主イエスを十字架につけた祭司長、長老、律法学者、議員、民衆と同じ“罪の心”を持っているのだ。そういうメッセージを込めて、「人々」という言い方を敢えてしているのだと思います。

 法廷で主イエスを「十字架につけろ」と要求したのは、一般の人々でした。私は、このことを考えながら、ふと日本の裁判員制度を思い浮かべていました。言わば、ユダヤの一般の人々が裁判員となって、主イエスに死刑判決を下したようなものだと思ったのです。
 2009年から日本でも裁判員制度が始まりました。刑事事件について、一般人から無作為に6人の裁判員が選ばれ、3人の裁判官と共に、その事件が有罪かどうか、有罪ならどのような刑罰を下すかを考え、判断する制度です。司法を、私たち一般人にとって身近なものとし、信頼を得るという狙いがあるといいます。
 裁判員の召集状は、私たちのもとにいつ送られてくるか分かりません。皆さんの中でかなりの方が、自分が裁判員に選ばれたらどうしよう、なりたくないなあ、と思っておられるのではないでしょうか。自分は人を裁くことなんてできない。気分が悪い。まして、殺人事件の担当になって、死刑の判決を下すようなことになったらどうしよう。心に重いダメージが残るのではないだろうか?‥‥‥そんな不安を感じることでしょう。ある牧師が、裁判員裁判で人を裁くことは、牧師という職務上、また聖書の教えの上で差し障りがあるといった理由で辞退を申し出たというような話を聞いたことがあります。その結果がどうなったのかは知りませんが、いずれにせよ私たちは、人を裁くということに不安を持っていて、諸手(もろて)を上げて“やります!”とは言えない気持だと思います。けれども、どうしても裁判員をしなければならなくなったら、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)との主イエスの心を思い、隣人愛を忘れずに裁判に当たることだと私は考えています。そして、人を裁こうとするとき、私たちは、人の目の中にある小さな罪のおが屑は見えるのに、自分の目の中にある大きな罪の丸太が見えなくなるのだ、ということを思い出して、裁こうとしている相手を蔑(さげす)むのではなく、相手と同じ罪の心が自分の中にもあるかも知れないと、謙虚にならなければならないと思っています。
 主イエスの裁判員となった人々は、どんな気持で主イエスを裁き、「十字架につけろ」と叫んだのでしょうか?その心に謙虚さはあったのでしょうか?愛はあったのでしょうか?たぶんなかったのだろうなあ、と思わずにはいられません。あったのは、自分は正しいとする独善的な正義感だったでしょう。その正義感で、何も意識せず、省みず、すべてを正当化したのだと思います。自分の悪意も、妬みも、憎しみも、怒りも、殺意も、酷(むご)さも、愛のない冷たさも、侮辱も、あざけりも‥‥‥何もかも自分中心に、自分に都合のよいように正当化し、主イエスを裁いたのでしょう。そのような人々の罪の心の結晶が、主イエスの十字架刑に他なりません。 そして、そのような罪の心は、特定のだれかにだけあるのではなく、すべての「人々」の内にある。それが、ルカの語りかけるメッセージです。つまり、“あなた”の内にある。“私たち”一人ひとりの内にある。その罪を、主イエスの十字架の前で見つめてごらん。自分に罪なんてないと突っ張らず、自分は正しい人間だと正当化せず、独善と自己本位の心を砕いて、自分の罪を見つめてごらん。そうすれば、自分もあの「人々」の中にいることが見えてくる。主イエスを十字架につけたのは“自分”だ、自分もその一人だということが見えてくる。
 私たちは、裁判員に選ばれて、人を裁くことは恐れるかも知れない。けれども、日常生活の中での、普段の人間関係においての、目には見えない、形にはならない裁きについては無意識であり、無頓着(むとんちゃく)ではないでしょうか。自分中心な目で、人を非難する。悪口を言う。レッテルを貼る。悪く、低く評価する。軽蔑し、差別する。意地悪をする。善意と愛を失う。その裁きの心、罪の心が、主イエスを十字架に磔(はりつけ)にしたのです。

 今日の礼拝の讃美歌(T・249)で、“われ罪人の、かしらなれども”と歌いました。これは、初代教会の時代に、異邦人伝道に力を尽したパウロという使徒の言葉に由来する歌詞だと思います。テモテへの手紙(一)1章15節にある言葉です。
 パウロは、主イエスを直接迫害し、十字架につけたわけではありません。ユダヤ教の律法学者のエリートとして、イエス・キリストを信じる信仰など認められない、律法違反であり、神への冒涜(ぼうとく)だと言って、教会を激しく迫害し、クリスチャンを捕らえ、処刑する先頭に立った人物です。けれども、ダマスコという町の教会と信徒を迫害しに行く途中で、天からの光に照らされ、その光の中で「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9章4節)とのイエス・キリストの声を聞きます。その時から回心して、パウロは主イエスを信じるクリスチャンとなり、当時最も精力的に伝道する人となりました。そのパウロが、自分自身を振り返り、省みて告白したことが“われは罪人のかしら”ということでした。自分を最も罪深い人間だと見なしたのです。理屈ではありません。
 けれども、パウロの告白はこれだけでは終わりません。“主はわがために、生命を捨てて、つきぬ命を、与えたまえり”。パウロはこのように、主イエス・キリストの救いの恵みを歌っています。十字架は、私たち一人ひとりの罪の結晶です。けれども、その十字架に架かって、主イエスはご自分の命を犠牲とし、私たちの罪を償(つぐな)い、神の赦(ゆる)しをもたらしてくださったのです。
 私たちは罪深い人間です。そんな自分を意識し、良心の呵責(かしゃく)を感じ、苦しみ悩み、葛藤(かっとう)することが私たちの信仰生活には起こります。けれども、私たちは主イエス・キリストの十字架によって“赦された罪人”だと聖書は私たちに語りかけます。この救いの恵みを信じて受け入れると、私たちの心に悔い改めが起こります。平安に満たされます。愛と謙遜が生まれます。




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