2015年3月8日受難節第3礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書23章26〜38節
  説教者  山岡 創

「神の愛 〜 敵をゆるす」


 主イエスは、ユダヤ人の祭司長、律法学者、長老たちに捕らえられ、訴えられて、ユダヤ州の総督ポンテオ・ピラトによって裁きを受けました。ピラトは、主イエスにどんな悪事も罪も見出すことができず、釈放しようとしました。けれども、「十字架につけろ、十字架につけろ」(21節)と叫び続ける人々の声に負け、主イエスを十字架刑に処する判決をくだしたのです。
 先週の説教において、「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に“あなた”もいる。“私たち”一人ひとりがいる、とお話しました。それは、主イエスを十字架につけた人々と同じ罪を、同じ罪の心を、私たちも持っているという意味です。自分は正しいとする独善的な正義感、自己中心な考えで、相手を決めつけ、裁き、怒ったり、憎んだり、妬んだり、争ったりする。相手を赦し、受け止めようとするのではなく、打ち負かそうとする。そのような、だれにでもある、私たち一人ひとりの内にある罪が、主イエスを十字架につけて殺したのです。主イエスの十字架は言わば、人間の罪、私たちの罪の結晶だと言うことができます。そして、私たち一人ひとりは、神の前に罪人である、神の独り子イエスを十字架につけた罪人である。そのことを心に深く思い巡らしてみることです。

 だから、主イエスを十字架につけた罪を思い、私たちは泣かなければならない。弟子のペトロが自分の罪を思い、激しく泣いた(22章62節)ように、私たちも泣かなければならない。罪を悔い改めなければならない。そのことを主イエスは求めておられます。
 「嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」(27節)とあります。婦人たちは、当時の男尊女卑の社会において、裁判に出ることはできず、後で、主イエスに十字架刑が下されたことだけを知らされたのでしょう。その結果に、婦人たちは嘆き悲しむほかなかったのです。
 けれども、その婦人たちに、主イエスは言われました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(28節)。
 もし私たちが、主イエスが十字架につけられたことを“かわいそう”と悲しんで泣き、“ひどい”と憤って泣くならば、それは主イエスの十字架の意味を間違って受け止めたことになります。そうではなくて、私たちは主イエスのために泣くのではなく、自分のために泣くようにと求められているのです。自分の罪を見つめる。その罪がどんなに深く、解きほぐせないほど私たちの心に食い入り、そして自分を壊し、また人を傷つけるか。その罪の姿に気づかされた時、私たちの心は痛みます。悔い改めの涙が生まれます。主イエスはそれを望んでおられるのです。

 そのような罪人である私たちのために、主イエスは十字架の上で、父なる神に、赦しを祈ってくださいました。命がけの祈りです。自分の命を犠牲にしての赦しです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(34節)。
 「彼ら」とはだれのことでしょうか?。主イエスを陥れ、十字架刑に処した首謀者である祭司長、律法学者、長老たちです。「十字架につけろ」と叫んだ民衆です。判決を下したピラトです。主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちです。そして、「彼ら」の中に、私たち一人ひとりもいます。
 私たちは、主イエスを十字架につけた「人々」の中にいます。罪人です。けれども、主イエスによって父なる神に赦される「彼ら」の中にもいます。赦される罪人です。神に愛される罪人です。
 主イエスの祈り、神の赦しについて、私たちがしっかりと受け取るべき内容があります。それは、「彼ら」が、私たちが、自分の罪に気づき、謝り、償い、改めたから、赦されるのではないということです。そうではなくて、自分が何をしているのか知らないのです。つまり、自分の罪に気づいていないのです。気づいていないのですから、謝ることも、償うことも、改めることもないのです。未だに自分は正しい人間だと思い込んで生きているのです。
 けれども、そういう私たちのために、主イエスは赦しを祈ってくださる。その祈りに応えて、神は罪人のままの私を赦してくださる。こういう赦しを無償の赦し、無条件の赦しと言います。
 無償の赦し、無条件の愛は、私たちの命の在り方に関わる事柄、私たちの生きる姿勢、生きる心構えを決定づける重大な事柄だと言うことができます。それは、私たち人間が、Doingな存在ではなく、Beingな存在として神さまから命を与えられ、生きていることを悟らせる根拠です。つまり、人間はDo、何かをする、何かができるから生きる価値があるのではなく、Being、命が与えられ、存在せしめられているだけで、言いかえれば“生かされている”だけで、生きる価値がある、ということです。この命の価値を知らないと、人はいつも不安な気持を抱えて生きることになります。償わなければ赦されない。良い子でいなければ愛されない。何かができなければ認められない。そうだとすれば、私たちは絶えず“こうしなければ”“ああしなければ”という条件に追い立てられて、不安と焦りを感じるでしょう。私たちの社会や教育は、ともすればそういう傾向を持っています。けれども、それでは心底の平安は得られません。何ができなくても、罪人であっても、そのままで、人は無償で神さまに赦され、無条件で愛されている。この命の真理こそ、私たちの心に、根本的な平安を与える元です。
 もちろん、だから開き直って良い、ということではありません。開き直ることと、神の無償の赦し、無条件の愛におゆだねすることとは、似ていますが全く違います。開き直りは、未だ自己中心で、自分の罪に反省がありません。けれども、ゆだねることは、神さまに赦され、愛されている深い平安の中で、自分の罪に気づくこと、謝ること、改めること、必要ならば償うことです。
 けれども、私たちは自分ではどうすることもできないことがあります。謝るタイミングを失うことがあります。その時は知らず、後で気づくからです。償いたくても償えないこともあります。改めようとして改めきれないこともあります。その時、それができなかったら、お前はだめだ、赦されない、愛されないと言われたら、私たちは立つ瀬がありません。やり切れません。存在する意味を、生きる価値を失います。けれども、そうではない。赦しは無償です。命は無条件です。だからこそ、私たちは、自分ではどうにもならない罪を神さまにおゆだねして、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈り続けるのです。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。この祈りを前にして、なお「彼ら」は嘲笑い続けました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)。まさに、自分が何をしているか知らないのです。自分が何をしたか知らないのです。自分の罪の姿を知らないのです。
 しかし、そのような「彼ら」を主イエスは赦すのです。赦しを祈るのです。自分を陥れ、十字架につけた相手のために祈り、赦す。しかも、その過ちに気づき、悔い改め、謝るのでもなく、なお嘲り続ける相手を赦す。これは、人間がよくできることではありません。まさに、神業、神の赦し、神の愛と言う以外にありません。
 先週の日曜日、礼拝の後、交わり会を行いました。説教の感想や信仰の思いを語り合う会です。その中で、もし自分が、いや自分の家族が殺されるようなことが起きたら、その相手を赦すことができるか、という話題が出ました。普通に考えれば到底、赦すことなどできません。私も、この問題を思い巡らしながら、20年ほど前に山口県の光市で起きた母子殺人事件を思い出しました。ちょうどその当時、我が家も同じ3人の家族構成でしたから、“絶対に赦せません。死刑を望みます”と号泣した被害者の気持が痛いほど分かる思いがしました。私もそういう気持になるだろうと思うのです。けれども、そういう気持、怒り、憎しみの反対側に、信仰がある。その信仰を通して、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた主イエスの御言葉が、きっと私の心に響いてくるでしょう。その御言葉と、相手を殺してやりたいという怒り、憎しみの間で、私は葛藤するだろう。そう思うのです。
 そのような大きな問題ではなくとも、私たちは、日常の人間関係、家族関係の中で、愛と赦しの問題で葛藤します。罪人である自分が、そのままで赦されている。だから、自分も人をそのままで赦そうという思いと、赦せない、謝りたくないという頑固な気持が葛藤します。私は、この愛と赦しの課題を背負う、葛藤を背負うことが、自分の十字架を負って歩むということだと思うのです。
 十字架刑に処せられる死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで背負って歩くのが慣わしでした。けれども、主イエスは既に衰弱していて背負えなかったのでしょう。田舎から出て来て、たまたま通りがかった「シモンというキレネ人」(26節)が無理やり主イエスの十字架を背負わされました。ルカによる福音書9章23節に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主エスの教えがあります。この教えは、シモンが主イエスの十字架を負うこの光景から、後で弟子たちが生み出した言葉ではないかとさえ想像します。
 無理やり十字架を負わされる。けれども、十字架とはそういうものでしょう。そして、愛と赦しの問題もまた、無理やり負わされるものです。人として、人と関わりながら生きている限り、逃げられない、嫌でも背負って歩まなければならない、大切な事柄です。自分の心、自分の力、自分の知恵では、とても赦せない、愛せないと思うことがあります。その時、信仰を通して、神の愛が心の底から、命の底から、自分の人生に漏れ出して来てほしい。そうしたら、少しは赦せるようになる。少しは愛せるようになる。
 主イエスを十字架につけた人が回心して、教会に加わることがあったでしょう。その時、主イエスの母マリアや、イエスの兄弟たちはどうしたのでしょうか?。葛藤したに違いありません。でも赦すほかなかったでしょう。エルサレム教会の信徒だったステファノも、自分を罪に陥れ、石を投げつけ処刑する人々のために、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)と祈りながら死んでいきました。自分の息子を殺した相手を赦した日本人のクリスチャン女性もいます。人間にできることではありません。けれども、神の業です、神が人の内に働いて、それを可能にするのです。
 葛藤はあります。今できないこともあります。大きなことはできなくていい。でも、私たちも、大きな神の愛と赦しに生かされている者として、小さな愛と赦し、その心で歩みましょう。小さな愛と赦しを祈り続けていきましょう。



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