2015年3月15日受難節第4礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書23章39〜43節
  説教者  山岡 創

「今日、悔い改めるなら」


  昨日、Eさんの納骨式を、越生町の地産霊園にある教会墓地で行いました。ご長男のESさんご夫妻と、私の他、教会から6名が参列されました。Eさんの骨壺を墓に納めながら、私たちは、Eさんがいる天国に、今日の聖書の言葉で言えば「楽園」(43節)に思いを馳せました。
 改めて思い返すと、Eさんはまさに、いつも神さまと一緒に、イエス様と一緒におられるような方でした。長期療養型病院での入院が8年近くに及びましたが、お訪ねするといつもニコニコされ、“私のような者のために教会の皆さんがいつも祈っていてくださり、感謝です”とおっしゃっていました。どこにいても主と一緒にいる。その信仰がにじみ出ているような方でした。1月26日の3時に、眠るように召された時、Eさんは夢の中で、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)との主イエスの御言葉を聞いたのでしょうか。
 私たちも、召される時には、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との主の言葉を心に聞ける者でありたい、確信できる者でありたいと思うのです。

 主イエスは、対立するユダヤ人の指導者たちに陥れられ、また、「十字架につけろ」(21節)と叫ぶ人々の悪意によって、十字架につけられました。その際、他に二人の犯罪人が一緒に十字架につけられました。どんな犯罪を犯したかは分かりませんが、十字架刑は極刑でしたから、相当な重罪を犯したのです。
 その内の一人が、主イエスをののしったと言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。
 「メシア」とは、ユダヤ人の言葉で“救世主”という意味です。新約聖書のギリシア語で表わせば、“キリスト”という称号になります。この犯罪人は、イエスに対して、お前は救世主キリストだ、と言ったのです。けれども、それは信仰を込めた告白ではなく、身勝手な自分の都合から出た言葉に過ぎません。けれども、私たちもともすれば、自分本位な都合から、イエスは救世主キリストだ、と告白していることがあります。それは、目に見える救いを求めている時です。
 この犯罪人は、「自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。つまり、救世主ならその力で十字架から降りて、この刑をやめさせてみろ、俺を助けて見せろ、ということです。直前の箇所にも、議員や兵士たちが、メシアなら「自分を救うがよい」(35節)、「自分を救ってみろ」(38節)とののしる言葉があります。ユダヤ人には、何かはっきりとした救世主たる証拠を見せれば信じよう、という傾向がありました。けれども、それは私たちにもあるかも知れません。ご利益という言葉がありますが、家内安全、商売繁盛、無病息災‥‥確かにそれは私たちの願うところかもしれませんが、自分の願い通り、自分に都合良く行ったら信じるけれど、そのように行かなかったら信じない。反対に自分に不都合な苦しみや辛い出来事が起こったら、“もう神も仏もあるものか”と言って、信仰を捨てるとしたら、イエスは主である、キリストであるとの私たちの信仰は、身勝手な、自己本位な自分の都合から出たものと言わざるを得ません。
 その気持は、弱い人間として私も分かります。けれども、信仰とは、そういうことではありません。救いとはそういうことではないはずです。たとえ自分にとって不都合な出来事でも、苦しみや悲しみの中にあったとしても、その中にあるもの、その中に見出し得るものが本当の“救い”です。自分から、自分の人生から逃げずに担う勇気と希望と愛が与えられること、それが本当の救いです。それを与えてくださると信じて初めて、私たちは“イエスは主である、キリストである”と、本当の信仰告白ができるのです。
 この犯罪人は、この期に及んでも、自分と向き合うことができません。自分の罪を認めることができません。ただ主イエスをののしり、周りの人間をののしり、社会をののしっているのです。自分と向き合わず、自分を素直に認めない人生には、見せかけの救いはあっても、本当の救いは訪れないと私は思います。

 さて、主イエスをののしる犯罪人に対して、もう一人の犯罪には、それをたしなめました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40〜41節)。
 彼も今まで、自分を見つめ、自分と向き合うことができなかったのかも知れません。自分を認め、逃げずに自分の人生を担うことができなかったのかも知れません。人のせいにし、社会のせいにし、呪い、自暴自棄になって、犯罪に走ったのかも知れません。
 けれども、彼は、自分が十字架刑に処せられる土壇場になって、自分を見つめ、自分の罪を素直に認めることができたのです。それは、主イエスが目の前にいたからでしょう。陥れられ、ののしられても、「父よ、彼らをお赦しください」(34節)と十字架の上で祈られる主イエスの姿に、“神”を感じたのでしょう。自分は今、神の前にいる。周りの人間も、社会も、ある意味、関係いない。自分は今、独りで、神の前にいる。その意識が、彼に、果たして自分はどのように生きて来たのだろうか?と、自分を見つめ直させるきっかけになったのです。
その結果、彼は神を恐れました。十字架刑という刑罰を恐れたのではありません。死んだ後で、地獄で人の魂を滅ぼすことのできる神を恐れたのです。自分を認めたからです。自分の罪を素直に、まっすぐに認めたからです。
 ところで、私は、ご存知のように、川越少年刑務所で教誨師をしています。聖書の教えによって、犯罪を犯した少年、主に青年たちが更生できるように、導き助ける働きです。講堂で全員参加という形ではなく、青年たちは、聖書教誨の時間を選んで参加します。だから、人数は多くはない、5人前後の、いつも同じメンバーです。そのメンバーと『教誨ノート』のやり取りを毎回します。彼らが、そのノートに、その日の説教の感想や質問を書き、私が、アドバイスや答えを書いて、返します。そのノートを読んでいると、彼らがまっすぐに御言葉を聞いていることが伝わってきます。自分の罪を認め、自分を見つめ直していることが伝わってきます。15年前には、一人の少年に洗礼を授けたこともありました。聖書の言葉、主イエスの言葉は、自分が神によって命を与えられ、神の前に生きる一人の人間であることを意識させ、自分を見つめ直させるのです。
もう一人の犯罪人は自分の罪を認め、また主イエスの無罪を認め、改めて主イエスに願いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。
 今、自分の罪がはっきりと分かった。自分のことがはっきりと分かった。でも、自分の罪を白紙に戻すことはできないし、罪を償う時間ももはやないのです。だから、私も一緒にあなたの御国に連れて行ってください、などとは、おこがましくて言えない。できることなら、人生をやり直したい。そして、一緒に御国に連れて行ってくださいと願いたい。でも、そんなことは畏れ多くて言えないのです。彼は、自分にはそんなことを願うことのできる資格も行いもないことをよく分かっています。だから、ただ「思い出してください」と主イエスに願ったのです。あんな男がいたなあ、十字架の上でやっと自分を認め、素直になった男がいたなあ‥‥‥ただそれだけでいい。それだけで自分の人生は浮かばれる。彼はそう思ったのでしょう。
 ところが、思いもしなかった言葉が主イエスから掛けられます。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
彼はどんなに“救い”を感じたでしょうか。慰めを感じたでしょう。彼は主イエスに、自分の人生に“ありがとう”と感謝して死んでいくことができたのではないでしょうか。罪を償うこともできない。神さまに主張できる正義も、善い行いの積み重ねも、天国に入れる資格も何もない。そういう自分だと認めて、ただ主イエスの袖にすがる以外にない人間を、主イエスは無償で、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださる。神さまは無条件で、天の御国に入れてくださる。いや、私たちの罪のために、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架の上で犠牲になさることによって、私たちを赦し、天の楽園に受け入れてくださるのです。人と比べてとか、人間的に考えてどうとか言うことではなく、神さまの前に立って自分を見つめれば、私たちは、何も主張できない罪人、小さな人間ではないでしょうか。そういう私たちを、主イエスの十字架のゆえに、無償で、無条件で赦し、救ってくださる。そこに、私たちに対する大きな神の愛があります。憐れみがあります。その恵みに気づくのは、死の間際でも決して遅くはない。いや、極端な話、死んでからでも遅くはないと私は信じています。気づいた日、信じた日が、あなたにとっての「今日」になります。救いの日になります。

 東京の山谷に、在宅ホスピスケア〈きぼうのいえ〉という施設があります。その働きと関わった人々の様子が、毎月の『こころの友』に掲載されています。Nさんという人がいました。この施設で、58歳で亡くなりました。Nさんは、ある総合大学の図書館司書を務めていましたが、アルコールが原因でその職を失い、ホームレスになりました。体を壊し、病院には運ばれたときには、すい臓癌で余命半年と宣告されました。Nさんは病院での治療を断り、最終的に希望の家が受け入れることになりました。音楽が好きで、施設の部屋で、CDを借りて来ては、大好きなモーツァルトやチャイコフスキーの曲を聞いて過ごしました。“山谷に来て、こんな幸せな日々を送ることができるなんて信じられない”と微笑んでいたと言います。やがて病状が重くなった頃から、Nさんは、クリスチャンのスタッフの手を握り締めて、“僕は神さまに祈ってもいいですか?”と尋ねるようになりました。そして〈主の祈り〉を繰り返し唱えるようになりました。亡くなった時、Nさんは、静かな曲が流れる中で、スタッフに抱きかかえられ、穏やかな顔をしていたということです。
“僕は神さまに祈ってもいいですか?”というNさんの言葉が、「わたしを思い出してください」という言葉に重なり合うような気がしました。自分にはその資格がない。そう思う人を、主イエスは一緒に、天の楽園に連れて行ってくださいます。
人生は、どこで生きるかではなく、だれと生きるか。どこで死ぬかではなく、だれと死ぬか、だと私は思います。十字架に架かり、私たちの罪を、私たちの人生を一緒に負ってくださる主イエスと出会えたなら、どこにいても救いがある。主イエスと一緒なら、生きる時も死ぬ時も平安がある。希望がある。愛がある。私たちはそう信じるのです。



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