2015年3月29日 受難節第6主日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書23章44〜49節
  説教者  山岡 創

「ゆだねます」

 十字架につけられた主イエスが、十字架の上で言われた言葉が7つ、聖書に遺されています。4つの福音書に、ばらばらに記録されています。マタイとマルコに同じ言葉が一つ、ルカに三つ、ヨハネに三つです。だから、十字架につけられた9時から3時までの間に、どの言葉をいつ言われたのか、その順番は正確には分かりません。けれども、今日の聖書箇所で言われた言葉が、おそらく最後の言葉だと思われます。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)。
 この言われる直前に、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(45節)と書かれています。垂れ幕は、神殿の中で、人間が神を礼拝する部屋と、神の箱が置かれている部屋を分けるものでした。言わば、畏れ多くて近づけない、人間と神とを隔てる境界線のようなものです。その垂れ幕が真ん中から裂けたといいます。これは、主イエスが十字架の上で、人間の罪を背負い、ご自分の命を犠牲にされたことで、人間の罪が赦されたことを表わしています。それによって、人間と神さまとを隔てていた“罪”という垂れ幕が取り除かれ、人間が神さまのそばに行けるようになった。神さまに受け入れられ、愛される者となったという救いの恵みを表わしています。言わば、太陽も光を失うほど、人間の罪によって真っ暗に塗りつぶされていた世界に、垂れ幕が裂けた間から、神の救いの光が差し込んで来た、神が救いの御手を差し伸べてくださった、というイメージです。
 人が神さまに近づく道が開けた。神の救いの光の中を歩む道が開けた。そのように確信して、主イエスは最後に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたのです。

 この言葉は、簡単に言えば、“わたしの命を神さまにお返しします”という意味だと思います。
 旧約聖書・創世記の初めに、天地創造の神話物語があります。そのとき、人も造られるのですが、2章7節に、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と書かれています。「霊」とは、この「命の息」のことです。だから、霊をゆだねるとは、命をお返しすることだと言って良いと思います。
 私たちの地上の命はやがていつか失われます。そのことを、命が滅ぶとか、命が終わるとか、暗く考えて不安になり、死を恐れる人が少なからずいます。けれども、聖書は、人の命をそのようには考えていません。命とは、神さまによって与えられ、最後に、神さまにお返しするものです。それが、神さまに造られた人間の命、霊の本質だと聖書は示しています。そして聖書は、命をお返ししたその後で、新しい命を、天国で生きる永遠の命を神さまは与えてくださると教えています。命の終わりは新しい命の初め、だから、信じる者にとって、死は恐るべきものではなくなります。
 余談になりますが、キリスト教関係の本を読んでいると、“霊的に”という言葉にお目にかかります。難しい言葉です。私も、“霊的に”とはどういことだろうと考え込むことがあります。これはつまり“神に造られた人間として(生きる)”ということでしょう。命を与えられ、命をお返しする存在として生きるということが一つの理解だと思います。

 人は霊的な存在として生きています。だから、最後に命の霊を神さまにお返しします。けれども、命をお返しするのは何も、人生の最後だけ、ということではないと思います。私たち一人ひとりが、命をお返しするような生き方を、自分の人生でしているか。そういう心で、つまり“霊的に”生きているか。そのことを、私たちは聖書から、主イエスの生き方、死に方によって問われていると思います。
 命をお返しするような生き方とは、命を自分のものとしない、私しない、命は神さまのものとして生きるということです。自分の命を、自分の人生を、神さまにゆだねて、任せて生きる。それが、自分の霊を神の御手にゆだねる生き方です。神さまが自分のために計らってくださることを信頼し、“よろしくお願いします”という心で、精一杯生きることです。それは、幼い子どもが親を信頼する心のようなものだと思います。
 引き合いに出して恐縮ですが、先週は1歳のKCちゃんと過ごした時間がずいぶんありました。月曜日には梅のお花見に行き、昨日は高坂のこども動物自然公園に遠足に行きました。KCちゃんはトコトコと、嬉しそうに道を歩きます。大概、大人の前を歩きます。でも、時々振り返って、お母さんがちゃんといるかな?と確認します。戻って来て、手をつないで歩くこともあります。大人の扱いが気に入らず、自分のやりたいようにできなくて、泣いて地面にひっくり返る場面もありました。そんなKCちゃんに、一緒に参加した人たちは、とても和ませてもらいました。私も、我が家の子どもたちが幼かった時のことを、散歩に行くとこうだったなあと懐かしく思い出していました。
 幼子はその親に、全幅の信頼を寄せています。親が後ろから見ていてくれる。思いっきり走ればいい。疲れたら親に任せて眠ればいい。もちろん、そんなことは意識などしておらず、自然な気持、自然な関係なのですが、その信頼がなければ、幼い子どもは健やかに成長し、生きることはできません。私は、KCちゃんの姿を見ながら、主イエスが、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18章17節)と言われた言葉を思い起こしていました。それは、幼子が親を信頼するような、神さまに対する全幅の信頼を表わしています。神さまを信頼し、おゆだねすることで、私たちの人生は支えられる。平安になる。慰めと希望を与えられるのです。

 けれども、神さまを信頼して、おゆだねする生き方というのは、容易なことではありません。人生がうまく行っている時はいい。でも、自分にとって不都合な、思うようにはいかない苦しみや悲しみに出くわしたとき、私たちは“なぜ”という愚痴や不満、絶望感が湧き起って来ます。その苦しみや悲しみを受け入れることができず、神さまが計らわれた現実に、幼子のように地面にひっくり返るのです。それが、私自身の信仰だと思います。程度の差こそあれ、私たち一人ひとりの信仰だと思います。だから、私たちは生涯、求道します。洗礼を受けてもなお、信仰を求めて求道します。悩みの中で、葛藤の中で祈りながら求道します。不十分な、小さな信頼かも知れませんが、それでも神さまにすがって、どうにもならない苦しみをお任せする。悲しみをお任せする。罪もお任せする。神さまが最善にしてくださると信じて求道します。ある意味で修業です。
 信仰を、神さまにゆだねて生きる生き方の修行(求道)だと捉えておられた牧師がいました。藤木正三という牧師です。実は、この先生が1月に87歳で亡くなられていたことを、『信徒の友』3月号で知りました。私は、藤木先生のことを、『信徒の友』に連載されていた〈みことばにきく〉という説教で知りました。その内容に深い感銘を受けました。ぜひお会いしてお話したいと思い、大阪まで訪ねました。1996年に、私たちの教会に礼拝説教に来てくださったこともありました。その藤木先生が、次のようなことを書いておられます。
  人は造られたもの、その意味では自分の思い通りには生きられない不自由なもの。しかし一方では神の形に似せて造られたもの、その意味では自由に生きうるものとされたのである。だから、不自由の中で自由を行使する、のが被造物(造られたもの)である人間の了見であろう。‥‥‥従って、人間の不自由さを排除すべき束縛とのみ考えず、それを自己実現の場として引き受けて自由に生きねばならない。
 (『神の風景』261頁)

 ちょっと難しい言葉だったかも知れません。要するに、自分の思い通りにばかりにはいかない不自由な人生を引き受けて、そこで精いっぱい、自分にできることをして生きよう、という意味だと思います。ゆだねるとは、そういう生き方であり、そのように生きようとする修行が信仰であり、神さまにゆだねる生き方を究極的に実現されたのが主イエスだと言うことができます。十字架という究極の不自由さの中で、それを引き受けて、神の御心を思い、賛美し、敵を赦し、自由に生きられたのです。

 その姿を見て、百人隊長は、「本当にこの人は正しい人だった」(47節)と告白したのではないでしょうか。マタイやマルコ福音書では、この告白は、「本当にこの人は神の子だった」となっています。けれども、ルカでは「正しい人」です。
 「正しい人」とは何でしょうか。法律的に正しいとか、道徳的に正しいとか、そういう意味ではないと思います。そうではなくて、神さまに与えられた不自由さの中で、それを引き受けて、自由に生きた人のことだと思います。造られた者として、神さまにゆだねて生きた“まことの人”のことだと思います。
 このような、ゆだねる生き方を、もう一つ別の表現で表わすとすれば、それは、“置かれた場所で咲く生き方”だと言えるのではないでしょうか。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、『置かれた場所で咲きなさい』という本を書かれました。ミリオン・セラーになったそうです。私は、今日の聖書の48節、「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」という言葉から、この本のことを思い起こしていました。主イエスの十字架での死に様が多くの群衆の心を打ったように、“置かれたところで咲きなさい”という生き方は、直接キリスト教を信じていなくとも、100万人以上の人々の心を打つものだったのでしょう。皆、自分の人生に不自由で、不都合な現実を抱えています。苦しみや悲しみ、罪を抱えています。愚痴を言いたくなることも、不満をぶちまけたくなることも、投げ出したくなることもある。皆、そういう中で、どうやって生きたら良いのだろうと悩んでいるのです。その心に、“置かれた場所で咲きなさい”という言葉は光を当てたのです。
 30代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学学長に任命されて、心乱れることも多かった時、一人の宣教師が短い英詩を手渡してくれました。神が植えたところで咲きなさい。「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守っていてくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。(『置かれた場所で咲きなさい』3頁)
 神さまにゆだねるということは、不自由の中で自由に生きることです。置かれた場所で咲くような生き方です。神に造られたものの本来的な生き方です。その姿を示してくださった主イエスを見上げて、たどたどしくてもついて行きましょう。



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