2015年4月26日礼拝説教(大人と子どもの礼拝)
  聖  書  ヨハネによる福音書13章31〜34節
  説教者  山岡 創

「互いに愛し合いなさい」

 礼拝堂の後ろのロビーに、1枚の絵が飾ってあります。レオナルド・ダ・ビンチという人が描いた〈最後の晩餐〉というタイトルの絵(レプリカ)です。イエス様とお弟子さんたちが一緒に夕食を食べている場面を描いたものです。
 その夕食の席で、イエス様はこう言われました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。
 2回繰り返して言われました。15章12節に同じ言葉が出て来ます。もうすぐ自分はつかま
り、十字架につけられて殺されるだろう。そのことを思いながら、弟子たちに、最後の、大切な言葉を遺されたのです。
 この言葉は、弟子たちだけではなく、今こうして教会に集まっている私たちにも、イエス様が語りかけている言葉です。礼拝堂の正面、右手の壁に掲げてあるように、2015年度、坂戸いずみ教会では、この言葉を掲げました。この言葉から教会とはどんなところかを考えてみよう。そして、私たちの教会が「互いに愛し合う」教会であるように、「互いに愛し合う」教会となるように、はっきりした言葉で目標を決めよう、というのが、今年度やろうとしていることです。

 ところで、“愛する”とはどうすることでしょう?。小学校高学年、あるいは中学生ぐらいになると、異性で“この人のこと、好き”という気持が生まれて来ます。そういう気持を“恋愛”といいます。けれども、イエス様が「互いに愛し合いなさい」と言われた愛は、恋愛とはちょっと違います。特別な人にだけ向けられる恋愛感情ではなく、どんな人にも向けられる思いやりのような気持です。
 愛するとはどんなことでしょう?。イエス様がお手本を示してくださっています。今日読んだ13章の最初の方で、イエス様が弟子たちの汚れた足を洗う場面があります。現代のように、靴下も、靴もありませんから、足はすぐに汚れます。本当は弟子がイエス様の足を洗うべきです。でも、イエス様は、偉そうにせず、弟子たちよりも下になる。どうしたら相手が喜ぶか、あたたかい気持になるかを考えている。それが、愛するということです。
 もっとすごい愛をイエス様は示しています。お弟子さんの一人にイスカリオテのユダという人がいました。31節に「ユダが出ていくと」とあります。ユダは、イエス様を裏切り、敵に売り渡し、十字架につけさせるために夕食の席から出て行ったのです。
 みんなは、友だちから裏切られた、という経験がありますか?。あるかも知れません。今まで仲良くしていた友だちが、急に手のひらを返したように冷たくなる。“あの子、うざいよね”と他の友だちと言い始める。他の友だちと組んで無視したり、意地悪をするようになる。〈○○ちゃん嫌い同盟〉といったライン・グループを使って悪口を流すようになる。
 どうして?。私、何かした?。つらい、悲しい、苦しい、悔しい、腹が立つ。そんな気持が湧き上がって来ます。そんな相手を愛するなんて、とてもじゃないけど私たちにはできません。むしろ、できることなら言い返してやりたい。悪口の一つも言ってやりたい。仕返ししてやりたい。そう思うでしょう。
 ところが、イエス様は、悲しく、悔しかったかも知れないけれど、言い返さない。やり返さない。それどころか、13章21節以下に書かれているように、ユダが裏切ることを知っていました。知っていて止めなかった。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)とユダを送りだした。だから、他の弟子たちは、まさかユダが裏切るとは思わなかったのです。裏切りが分かっていたら、普通は止めるでしょう。否、やっつけるでしょう。ところが、イエス様はやっつけない。イエス様は、友だちが自分を裏切っても、自分はその友を裏切らない。「互いに愛し合いなさい」と2回目に言われたその後で、イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章12節)と弟子たちに教えています。ユダを裏切らず、ユダのするままにさせて、その結果、十字架につけられて殺されてします。ユダのために自分の命を捨てたようなものです。こんな弟子が「友」と言えるのでしょうか。イエス様は、それでもユダを「友」と思っていたに違いない。そんなバカなことがあるか、と思うでしょう。でも、愛って、そういうバカなところがあるようです。自分が損をしても相手のためを考えるバカなところが愛にはあるのです。
 私たちは、“そんなの私にはとても無理だ”と思うでしょう。私たちには、そこまで人を愛することはできません。それでいい、と思います。私たちは、平凡な人間ですから、そんなにすごいことはできないのです。
でも、忘れないでいたいのは、イエス様がそこまで、弟子たちを愛されたということです。ユダだけでなく、この後イエス様が捕まった後で、他の弟子たちもイエス様を知らないといったり、見捨てて逃げたりします。そういうすべての弟子たちを「友」として、イエス様は最後まで愛されたのです。そして、私たちも一人ひとりが、そんな馬鹿馬鹿しいほどの愛でイエス様に愛されている、神さまに愛されている。愛されて生きている。そのことを信じたいのです。

 そのイエス様の愛を信じたら、私たちの心はあたたかく、優しくなれます。相手を思いやることができるようになります。イエス様のような、命を捨てるような愛は無理かも知れませんが、“小さな愛”を胸に抱くようになります。そういう小さな愛と思いやりにあふれている場所が教会です。教会とは、そういう場所になりなさい。わたしがあなたがたを愛したのだから、あなたがたも、小さくてもいい、思いやりと愛をもって、互いに愛し合いなさい。イエス様は、そのように望んでおられます。
 教会に来続けるようになって、しばらくすると、“教会って学校と違う、社会と違う”と感じるようになるのではないでしょうか?。それは、イエス様の愛が漂っているからです。そして、その愛の空気の中で、自分もだんだんと愛の人に変えられていきます。愛の空気は人を変わらせ、人を育て、人を造ります。そういう一人ひとりによって、教会は“愛の教会”に造り上げられていきます。そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(34節)です。
 仲の良い人間関係を見ていると、“いいなぁ”と憧れますよね。反対に、仲が悪い人間関係を見ると、嫌な気持になりますね。そういうところには入りたくないと思います。もし教会が争い合い、仲悪くしていたら、それを見た人は、“あれでも教会か”“あれでもイエス様の弟子か”と思うでしょう。そして、あんな場所には行きたくない、と思うに違いありません。それでは、「互いに愛し合いなさい」と命をかけてまで教えられたイエス様をとても悲しませることになります。
 そうではなくて、教会が仲良く、愛と思いやりに満ちていたら、それを見た人は“いいなぁ”と思うでしょう。“何かが違う”と思い、“本当に神さまがいるのかも”と感じてくれるかも知れません。ついには“私も行ってみたい”と思うようになるかも知れません。そんな教会に、私はなりたいと思います。
教会には、いろんな人がいます。来ます。みんな違います。ちょっと自分と合わない人もいるかも知れません。でも、みんな、イエス様に愛されている人です。だから仲違いをしない。相手を受け入れる。みんなが居られるあたたかい場所を造る。そんな、イエスさまに愛されて、互いに愛し合う教会を、みんなで造り上げていきましょう。




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