2015年5月10日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書24章50〜53節
  説教者  山岡 創

「力を待ち望む」

 ルカによる福音書の最後の箇所を迎えました。復活した主イエス・キリストが天に昇られる場面です。主は十字架に架けられ、処刑されて死んだ。そう思って絶望していた弟子たちのもとに、主イエスは復活して現れました。そして、ご自分の体をよく見せて触らせ、ご自分の復活と十字架と罪の赦しについて聖書全体から説明し、復活の証人としての使命を弟子たちにお与えになりました。
 “復活”という弟子たちとの新たな出会い。それを終えて、主イエスは天に昇られます。それは、弟子たちとの“別れ”の時です。しかし、同時にそれは“始まり”の時です。今までは主イエスご自身が先頭に立って伝道していました。けれども、これからは弟子たちを後方から支援する、バックアップする側に回られる。その主イエス・キリストの祝福と力に押し出されて、弟子たちが神の救いを宣べ伝える新しい時代の始まりなのです。言い換えればそれは、“教会の時代”の始まりです。

 さて、復活した主イエスは天に昇るに当たり、弟子たちを「ベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福され」(50節)ました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」(51節)ました。
 「ベタニアの辺り」というのは、何だか曖昧な言い方ですが、おそらくオリーブ山のことだと思われます。ルカによる福音書は2巻構成になっています。続きの第2巻があります。第2巻は使徒言行録です。その使徒言行録の冒頭、1章12節に、弟子たちが主イエスを見送ったのは「『オリーブ畑』と呼ばれる山」だったと書かれています。
 ルカによる福音書22章を読めば分かりますが、オリーブ山とは、主イエスが捕まった場所です。そして、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げた場所です。その場所を、主イエスは、新たな始まりの場所、再出発の場所としてお選びになりました。主イエスを見捨てて逃げたという事実、そこから目を背けてはならない。蓋をして誤魔化してはならない。主イエスを見捨てて逃げたという罪の事実、その罪を赦され、立ち直らせていただいたことが、弟子たち自身の救いの根源であり、宣べ伝えるべき神の救いの核心だからです。
 ところで、天に昇るとき、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福しながら、天に上げられた、とあります。祝福する、というのは、これまた曖昧な表現です。いったい主イエスは弟子たちに、具体的には何をなさったのでしょうか?。祝福すると訳された原語は、ユーロゲオーというギリシア語ですが、この言葉は元々、“良い言葉を語る”という意味です。主イエスは弟子たちに、良い言葉を語りかけながら、天に昇られたのです。
 それで、すぐに思い浮かぶのは、直前の箇所で、復活した主イエスが弟子たちに語りかけた「あなたがたに平和があるように」(36節)という言葉です。同じ言葉が、ヨハネによる福音書20章19節にもあります。やはり、復活した主イエスが弟子たちに語りかけた言葉です。
 私たちが守る礼拝の最後に祝福があります。主イエス・キリストの代理として、牧師である私が皆さんを祝福します。いつからか、私はこの「あなたがたに平和があるように」という言葉を用いるようになりました。とても大切な祝福の言葉だと思うようになったからです。
 主イエスが弟子たちを祝福して、神の救いを宣べ伝える復活の証人として遣わされたように、礼拝において祝福するということは、同時に、皆さんを復活の証人として派遣するということです。であるならば、主イエス・キリストと同じ祝福の言葉を語ろうと思ったのです。「あなたがたに平和があるように」。キリストによって罪を赦されて、父なる神と和解し、神さまとの間に平和があるように。また、罪を赦され、愛された人間同士、互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合って、平和な人間関係に生きることができるように。そういう願いを込めて、皆さんを祝福します。否、私を通して、復活した主イエス・キリスト御自身が祝福してくださるのです。弟子たちを祝福したように、今、私たちのことも祝福し、平和な生活へと送り出してくださるのです。色々なことがあります。決して良いことばかりではなく、不都合な出来事や苦しみ悩みもあります。けれども、そうだとしても、神さまに支えていただいて、神の祝福に包まれていることを信じ、神との平和、人との平和に生きて、この平和を宣べ伝えていくのです。

 「祝福する」という言葉でもう一つ教えられたことがあります。それは、53節に「神をほめたたえていた」とありますが、この“ほめたたえる”と訳されている言葉が、祝福すると訳されている同じ言葉、ユーロゲオーが使われているということです。つまり、神をほめたたえる、ということは、私たちが神さまを祝福する、ということなのです。神さまと私たち人間との関係や立場を考えると、私たちが神さまを祝福するなんて、考えられないことですが、けれども、神をほめたたえるとは、私たちが神さまを祝福するということなのです。と言うことは、それは私たちが、神さまに向かって良い言葉を語るということです。礼拝において、神さまを賛美することも、祈ることも、自分の罪を告白して悔い改めることも、信仰を告白し言い表わすことも、すべて良い言葉を語ることとして、神さまを祝福することだということです。
 それだけではありません。私たちは、礼拝だけでなく、普段の生活においても、神さまを祝福することができます。神さまにお献げする意識で、人に良い言葉を語ることができます。そうすることが、送り出された生活の場所で、神の祝福を、神の平和を造り出すことになります。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、その著書『置かれた場所で咲きなさい』の中で、マザー・テレサの修道会のことを紹介しているページがあります。インドのスラム街で活動するこの修道会の仕事の一つに、お腹を空かせた人たちへの炊き出しがあります。列を作って待っている人々に、シスターたちがパンとスープを配る。そのシスターたちの労をねぎらいながら、マザー・テレサは、次のように問いかけたと言います。
 あなたたちは、受け取る一人ひとりにほほえみかけたでしょうね。ちょっと手に触れて、ぬくもりを伝えましたか。短い言葉がけを忘れはしなかったでしょうね。
 パンとスープを配ることはロボットでもできます。否、ロボットの方が効率的にこなすかも知れません。しかし、ロボットにはできないことがあります。
  それは、「生きていてもいなくても同じ」と考えているホームレスの人たちに、「生きていていいのですよ」というメッセージを、ぬくもりと優しさで伝えるほほえみであり、短い言葉がけです。言葉には、そこに愛が込められている時、起死回生の力があるのです。マザー・テレサは言っています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに、大きな愛を込めることはできるのです」
                  (『置かれた場所で咲きなさい』148〜149頁)

  もう一つ、渡辺和子さんが、長野県のある私立高校のことを挙げています。その学校は、難しい問題を抱えて全国から入学してきた高校生たちが、そこで更生して卒業してゆくことで知られている学校だそうです。この学校で生徒たちを生かした言葉、それを渡辺和子さんは紹介しています。
 この学校では、生徒を評価するのに、「しか」を使わず、「なら」を使ったというのです。「○○は、足し算しかできない」と言わないで、「○○は、足し算ならできる」と言う。これは、単なる言い回しの違いではなく、教師の心とまなざしの違いです。生徒のできない点を強調するのではなく、できる点を強調する教師の心に宿る、生徒一人ひとりへの愛情と、そのほとばしりが、言葉となって表れ、生徒を生かしたのでした。(同書159頁)
 普段の生活の中で、日常の人間関係において、愛を込めた良い言葉を語ること。それは、人を祝福することであると同時に、神を祝福することです。神の祝福と平和を実現していくことです。キリストの証人として宣べ伝えていくことです。

 この祝福と平和を宣べ伝えさせるために、主イエスは弟子たちを遣わされます。けれども、主イエスはすぐに行けと遣わしたのではありません。直前の49節で、次のように弟子たちに言われました。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。
 今日の説教の初めに、主イエスが天に昇るということは、弟子たちを後方支援する側になることだと言いました。主イエスが天から神の力を送ってくださる。聖霊を送ってくださる。その力に覆われるまでは、出て行かずにとどまれ、と言われたのです。
 これは、神の力を貯める、蓄えるということではないでしょうか。自分の力で伝道しようとしても、できません。以前のように失敗します。徒に、焦って宣べ伝えようとしても、祝福の花は咲かず、平和の実は結ばれないのです。
 私は、この49節の言葉から、シドニー・オリンピックのマラソンで金メダルに輝いた高橋尚子選手の座右の銘を思い出しました。
   何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。
 高橋選手が、高校時代の陸上の恩師から教えられた言葉だそうです。努力しても結果がでない時もある。そういう時は、落ち込みがちだけれども、腐らずに、深く深く根を伸ばし、見えない土台をつくるつもりで練習を積み重ねていく。それがいつか大きな花を咲かせる時が来る。その時を信じて生きていく、ということでしょう。
 人生もそうです。そして、伝道もそうです。結果が出ない時があります。けれども、焦って、自分の力で何とかしようとしない。神の力を待ち望む。神の力を蓄える。そのためには、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ」(53節)続けることです。丁寧に礼拝を守り続け、そこで神さまの良い言葉を聞き、祝福をいただき、私たちも、祈り、賛美し、神さまに良い言葉を語り続けることです。礼拝だけではなく、普段の生活の中でも、神さまに祈りを献げ、愛を込めた良い言葉を語り続けることです。その継続の中に必ず、聖霊の力が宿ります。蓄えられます。一人ひとりに蓄えられたその力が集まって、教会という愛と祝福と平和の交わりが生まれます。
 焦らずに、信仰の根を下へ下へと伸ばし、神の力に覆われるその時を待ち望む。やがて大きな信仰の花が咲くことを信じて進みましょう。




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