2015年5月17日礼拝説教
  聖  書  使徒言行録1章12〜26節
  説教者  山岡 創

「祈りから始める」

  先週の礼拝まで、ルカによる福音書(ふくいんしょ)から御(み)言葉を聞き続けて来ました。先週は、ルカによる福音書24章の最後、復活した主イエス・キリストが、天に上げられるシーンでした。その説教でお話しましたが、ルカによる福音書には続きがあります。第2巻があります。それが、使徒言行録(しとげんこうろく)です。今日の箇所がその続きです。
 弟子たちは「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)と言われたキリストの言葉に従い、とどまっていました。弟子たちを覆う高い所からの力とは、「聖霊(せいれい)」の力でした。聖霊とは、神の霊です。キリストの霊です。世界の内に働き、人に働きかける神の力です。目に見えるものではなく、“ここにある”と証明できるものでもありません。けれども、その働きを感じることがあります。神さまを信じて生活していると、“これが聖霊の働きだ”と理屈抜きに思うことがあります。振り返って、“あれは聖霊の働きだったのだろう”と深く納得することがあります。聖霊とは、信じる者にとって確かなもの、真実な、リアルなものなのです。
 弟子たちは、復活した主イエス・キリストから、十字架と復活と罪の赦(ゆる)しの証人となるように命じられました。新たな宣教の使命を託されました。そして、この使命を託されたとき、弟子たちは「使徒」(12節)となりました。復活したキリストに遣(つか)わされる証人としての「使徒」になりました。
 けれども、使徒たちはすぐに、宣教を始めたわけではありません。約束された聖霊を待ったのです。その力に覆われるまでとどまったのです。では、聖霊の力に覆われるまで、彼らはいったい何をしていたのか。それは祈りでした。使徒たちは、祈ることから始めたのです。

 天に昇るキリストを見送った使徒たちは、都エルサレムに帰って来て、「泊まっていた家の上の部屋に」(13節)上がりました。その部屋で、使徒たちは「婦人たち」と一緒に、また「イエスの母マリア」「イエスの兄弟たち」と一緒に、祈り始めたのです。「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。
 使徒たちは今まで祈ったことがなかったのではないでしょうか。否、祈ったことはあったでしょう。けれども、ここまで本気で、ここまで熱心に祈ったことはなかったのではないでしょうか。
主イエスの生前に、弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11章1節)と頼み、〈主の祈り〉を教えていただいたことがありました。彼らは、教えられたとおり、主の祈りを祈ったことでしょう。もちろん、最初はそれで良いのですが、しかしそれはまだ“形だけの祈り”で、深く祈り求める祈りではなかったでしょう。そして、主イエスが、捕らえられ十字架につけられる前夜、オリーブ山で祈られたとき、弟子たちも「祈りなさい」(ルカ22章40節)と命じられながら、眠り込んでしまいました。そういったことを考えると、彼らは、本気で祈り求めたことがなかったかも知れないと思うのです。
ところが、彼らは熱心に祈り始めました。何が変わったのでしょう?何が彼らを変えたのでしょう?
一つには、主イエス・キリストが自分たちのそばからいなくなったからです。自分たちを覆い包んでくれた安心の元がなくなったからです。
もう一つ思うことがあります。それは、彼らが自分の“罪”を知ったからだと思います。罪のために真実に生きられない自分の“弱さ”を、神に従わない自分の“不信仰”を知ったからだと思います。主イエスに召され、従って来た弟子たちは、主イエスが捕らえられ、十字架につけられたとき、見捨てて逃げ去り、知らないと否定しました。その時、彼らは、自分の罪を、弱さを、不信仰をつきつけられたのです。それまでの自信を打ち砕かれ、挫折(ざせつ)したのです。しかし、それが祈りを生みました。自分の力ではもはやどうにもならないと途方に暮れる。そこから私たちは、本気で祈り始めるのです。神の救いを求め始めるのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。
主イエスが、二人の祈る人のたとえをお話になったことがありました。熱心に神の掟を守るファリサイ派の人は、自信満々に祈りました。でも、それは“自慢”であって、“祈り”ではなかったと思います。もう一人の徴税人(ちょうぜいにん)は、自分の罪に打ち砕かれ、胸を打ちながら祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)。神さまの心に適ったのは、ファリサイ派の人ではなく徴税人の方だったと、主イエスはこのたとえを結ばれました。私たちの真実な祈りは、自分の罪を、弱さを、不信仰をつきつけられ、自分には力も、愛も、信仰もないと知った時に、「罪人のわたしを憐れんでください」という悔い改めから始まるのです。

 使徒たちは祈り始めました。しかも、婦人たちや主イエスの家族たちと「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。一緒に、心を合わせて祈ることで、キリストの十字架と復活と罪の赦しを宣べ伝える証人の“群れ”としての意識が芽生え始めたものと思われます。
 それまでの弟子たちは、個人主義、個人プレイでした。いかに自分が弟子として出世するかということばかり考えていました。婦人たちなど眼中にはなく、また主イエスの母、兄弟らは、主イエスの宣教を理解しない者として論外だったでしょう。
そういう弟子たちが、婦人たちや主イエスの家族と心を合わせて祈り始めました。自分たちの方が上だと思ってバカにしていた。けれども、弟子たちは自分たちの罪を知りました。力も信仰もない自分たちは、神の力を求めて祈る以外にない。そして、独りではこの使命を果たすことはできない。弱い自分たちは、皆で協力しなければ、キリストの委託に応えることはできない。キリストによって罪を赦された者同士だからこそ、互いに愛し合い、助け合い、励まし合い、祈りを共にして宣教の務めを担っていこうと思ったのです。この、心を合わせて祈る祈りが、キリストを伝える群れ、すなわち“教会”としての意識を、交わりを生み出し、造り上げていくのです。
人の知恵や力では、教会はできません。どんなに優れた知恵や大きな力を持っているとしても、それによって造られる教会は“人の業”でしかありません。教会は、自分は罪人であると打ち砕かれた人たちの群れです。その罪をキリストの十字架の犠牲によって赦され、キリストの復活によって新しい命に生かされることを信じる人々の群れです。だから、「罪人のわたしを憐れんでください」という祈りから始まり、神さまが喜ばれる教会はどんな教会かを考え、祈りを合わせていく。示された御言葉に応えようと祈りを合わせていく。そこに“神の業”としての教会が生まれます。
だから、教会は礼拝を共にします。そして、祈り会を開きます。5月31日の礼拝後、教会全体祈り会を行います。今後、できる限り毎月1回、この祈り会を続けていきます。平日・木曜日の祈り会は、この教会がスタートした時から続けられてきました。でも、平日の仕事のために、しかも女性も仕事をする時代ですから、平日は集まれない方々もたくさんいます。それで、本当に遅ればせながら、日曜日の祈り会を開くことにしました。人間の業ではなく、神の聖霊の働きとして、教会を造り上げていくためです。聖霊の働きを祈り求めるためです。人前で祈るのは苦手だという人もいるでしょう。どう祈っていいか分からないという人もいるでしょう。だから、参加したくないなあ、と思う人もいるかも知れません。ですが、どうか祈り会に加わってください。祈りに当てませんので、でも、他の人が祈る祈りに心を合わせて祈りを共にしてください。きっと使徒たちと婦人たち、主イエスの家族たちの祈りも最初はそうだったと思うのです。どう祈っていいか、祈れない人もいたでしょう。だから、使徒たちの祈りに心を合わせて祈りを共にしたに違いありません。それでいいのです。祈らなくていい。ただ、心を合わせ祈りを共にしてください。それが大事です。それが聖霊を呼びます。大きな力を生みます。そして、いつか自分の言葉で祈れる時が来たら、その時は祈ってください。一言で言い。たどたどしくていい。短くていい。心を込めて、祈ってみてください。

 心を合わせ、共に祈る祈りは、群れを一つにします。使徒たちの群れも、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」(15節)とあります。
 一つになるということは、皆が“同じ”になることではありません。同じにならなければならないと勘違いしてはなりません。私たちは、全く同じにはなれないのです。一人ひとり、性格も好みも考え方も価値観も違います。信仰でさえも全く同じということはありません。そこから出て来る教会に対する意見も違うのです。時には意見が衝突し、対立することさえあるでしょう。けれども、そのとき私たちは、神さまが何を求めておられるかを祈り求めるのです。祈って考えていくのです。祈りがあるならば、自分の意見を無理に押し通すことはなくなります。人の考えではなく、神の御(み)心が成ると信じるからです。その祈りと信仰で、時には主張し、時には聞き、時には譲って、具体的な一つの決定にしぼっていくのです。一つになるとは、そういうことです。そこには愛があります。罪人の自分がキリストに赦され、生かされる愛があり、だから互いに愛し合う愛があります。
 そのようにして、使徒たちが一つ取り決めたことは、マティアを選出するということでした。主イエスを売り渡したイスカリオテのユダが、後悔し、自ら命を絶ったために、選ばれた12弟子に一つ穴が空きました。その後、キリストによって立てられた使徒としての役割に、彼らはもう一人、ユダに代わる人を加えようと考えたのです。
 人間的に考えたら、裏切り者のユダのポストなど、除いた方がよいと考えたかも知れません。けれども、彼らは祈りました。祈って考えたとき、自分たちは罪人である、しかもユダも自分たちと同じ罪人であり、キリストはユダの罪さえも赦されて、立ち帰ることを願っておられたというキリストの愛に気づかされたのでしょう。だから、ユダの役割を埋めることが必要だと考えたのです。
 共に祈りを合わせることは、教会に、自分たちのなすべき神の御心は何であるかを示すのです。

 最近、私は、内藤留幸先生の、祈りについての次の言葉に心を打たれました。
 確かに聖書をよく勉強しています。でも養(やしな)いになっていない。祈りが足りないからです。教会も祈りの蓄積が今日の教会を作っているのです。牧師も信徒もお互いに成長のために祈り合う、その姿勢が乏しくなってきています。(『信徒の友』2月号19頁)
 ハッとしました。そうかも知れない。私自身も、教会も、そうかも知れない。そう感じて、礼拝後の祈り会を始めたいと思いました。聖書の御言葉が、単に知識や教養ではなく養いとなり、そこから神の御心が見えてくる教会でありたいのです。
 最後に、(個人的に?)お願いいます。私のために祈ってください。牧師の働きのために祈ってください。もし土曜日の夜、翌日の礼拝の聖書箇所を読んで祈られるのであれば、ぜひ牧師の説教のために祈ってください。土曜日に5分、そういう時間を設けてください。そうすれば私に聖霊の知恵と力が働きます。説教が変わります。礼拝が変わります。礼拝に皆の祈りが込められ、あふれる礼拝になります。私も、皆さん一人ひとりのために祈ります。互いに祈り合い、心を合わせて熱心に祈ることから、教会を始めましょう。

 

 






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