2015年5月24日聖霊降臨祭ペンテコステ・創立記念礼拝説教
  聖  書  使徒言行録2章1〜13節
  説教者  山岡 創

「祈る群れに降る力」

 皆さん、印象に残っていると思いますが、3、4日前の夜中に、ものすごい雷雨の日がありました。思わず雷の音で目が覚めました。しばらく布団の中で耳を澄まして聴いていました。雷が光ってから音が鳴るまでの時間が短かったので、相当近いなと思いました。とても大きな音が何度もしました。近くに落ちたのかも知れません。音が建物に響きました。家が揺れました。こんなに大きな音で、家が揺れるほどの雷は、私の記憶にはちょっとありません。初めてのことだったかも知れません。怖くて眠れなかった人もいたかも知れません。
 五旬祭(ごじゅんさい)の日、聖霊(せいれい)が使徒たち他、一同のもとに降(くだ)った時、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)とあります。そして、「この物音に大勢の人が集まって来た」(6節)と書かれています。この御(み)言葉を読みながら、私は先日の雷のことを思い出しました。風と雷では違いますけれども、とにかく音がすごかったので、聖霊が降った時も、こんなすごい音がしたのだろうか、だとしたら、何事かと思って大勢の人が集まって来るのも当然だなあ、と思いました。

 今日は、教会で特別な日曜日、〈ペンテコステ〉と呼ばれる日を迎えました。先ほど読んだ聖書の1節で「五旬祭」と訳されているのが、ペンテコステです。祭りの日です。小麦の収穫を祝う祭です。
 けれども、この日から祭りの名前が変わりました。「五旬祭」ではなく、〈聖霊降臨祭〉と呼ばれるようになりました。つまり、神さまの霊の力である聖霊が、ペトロさんをはじめとする使徒たちに降った日ということです。これは、イエス様が、天から使徒たちにプレゼントすると約束してくださっていた力でした。この力を受け取って、ペトロさんたちはどうしたでしょう?イエス様の十字架を伝えました。イエス様の復活を伝えました。イエス様の愛と罪の赦しを伝えました。その話を信じた人々によって、世界で最初の教会が生まれました。この時、イエス様の救いを信じて洗礼を受けた人が何人いたと思いますか?3千人です!3千人の洗礼式をしたわけですから、世界で最初のペンテコステ礼拝はずい分と慌ただしい、でもそれだけ喜びに満ちた礼拝だったに違いありません。だから、ペンテコステは聖霊が降った日でもありますが、同時に、それによって教会が生まれた“教会の誕生日”でもあるのです。ペンテコステは教会の誕生日、覚えておいてください。

 ところで、ペトロさんたちにとって、聖霊は予測できないものでした。今日の聖書の箇所の2節に、「突然」という言葉があります。聖霊は突然、天から使徒たちに降りました。特定の日に降る、五旬祭の日に降ると決まっていたわけではありません。また、ペトロさんたちが、“今日、ください”と祈って、その日に降ったわけでもありません。いつ降るか分からない、突然の出来事でした。
 けれども、突然ではありますが、だれにでも降ったわけではありません。ペトロさんら使徒たち、婦人たち、イエス様の家族など、一つの家に集まっている人々にだけ降りました。それは、彼らが「心を合わせて熱心に祈っていた」(1章14節)からです。イエス様が約束してくださったものを求めて祈っていたからです。
 彼らは、1度失敗しました。イエス様がつかまって、十字架につけられた時、怖くて、イエス様を見捨てて逃げました。イエス様なんて知らない!と、みんなの前で言いました。そんな人たちが、もう一度立ち上がってイエス様の救いを伝えようというのです。だから、そのためには、今までとは違う“新しい力”が必要でした。弱い自分たち、力のない自分たちには、神さまの力が必要だ!そう思った彼らは、神さまが約束してくださった力を求めて、熱心に祈っていました。祈り続けていました。そのように祈り続けていた人々のもとに、五旬祭の日に突然、聖霊は降ったのです。
 聖霊は突然降りました。人間には分からない神さまのご計画です。けれども、人間が祈り求めていたからこそ降ったのです。否、降ったことに気づかされ、受け止めることができたのです。
 既に天に召されましたが、榎本保郎という牧師先生がいました。自分は、イエス様を背中にお乗せした小さなろばのようになりたい、と言って“小いろば先生”と呼ばれた牧師です。この先生が、今日の聖書の御言葉について、次のように書いています。
 聖霊が注がれたのは、ペンテコステすなわち五旬(祭)の日であった。イエスが十字架につき、復活されてから50日目、神の計画があって、弟子たちは聖霊を受けたわけである。五旬(祭)の日が来たら全員が聖霊を受けたわけではない。イエスの言葉を信じて、約束の御霊を、心を一つに合わせてひたすら待っていた人たちの上にだけ注がれたのである。
 五旬(祭)の日が来なければどんなに待っても意味のないことであり、五旬(祭)が来ても、みんなと一つ所に集まっていなければ、それはむだに過ごすことになる。神の計画と私たちの備えとは、そのような関係にある。
(『新約聖書一日一章』198頁、※「祭」は本文では「節」)
 突然の出来事は、ただ単に“突然”の出来事ではありません。神さまのご計画がある。そして、そのご計画を信じて、私たちが集まり、祈り求めている時に、神さまの意思で、それは起こるのです。私たちが、自分の人生で、あるいは教会の集まりで、“あの時、きっと聖霊が働いていたのだ”と感じる出来事は、それなのだと思います。神さまのご計画と私たちの祈り(信仰)が合わさって起こった出来事なのです。

 神さまのご計画と使徒たちの祈りが一つとなって、聖霊は降りました。聖霊を与えられて、ペトロさんたちは何をし始めたでしょうか?聖霊を受けた人たち皆が、「神の偉大な業」(11節)を語り始めたのです。イエス様の十字架を、イエス様の復活を、イエス様の愛と赦しを証しし始めたのです。しかも、その日、祭りのために外国から集まっていた人々の国の言葉、外国の言葉で語り始めたのです。
 今、この教会に来ている子どもたちは、友だちが友だちを誘い、さらに友だちを誘って、たくさんの子たちが教会に来るようになりました。“教会って楽しいよ。一緒に行ってみない?”、そんな感じで友だちを誘ったのでしょう。十字架とか復活とか、そんな話をしたのではないと思います。でも、それはまさに、今日の聖書の箇所のペトロさんたちのように、神さまのこと、イエス様のことを伝えたのと同じです。そしてそれは、意識していなかったと思いますが、みんなの心の中で、聖霊が働いて、誘ってみようと思ったのかも知れません。
 もう一つ、外国の言葉ということで連想したのですが、私たちの教会の、特に若いメンバーの中には、バスケットボール好きが多いです。そのメンバーが、日曜日の午後、団地のバスケットボール・リングのある広場に、4、5人でバスケットボールをしに行っています。その広場には、色んな人たちが集まって来ます。その広場で、彼らは先日、バスケットボールをしていた一人の外国人(フィリピン人)の高校生と出会いました。でも、彼らは英語がしゃべれませんでした。それでも、彼らは、適当な、片言の英語で、彼と会話をしました。どうにか通じたようです。そこで一緒にバスケットボールをした。自分たちは坂戸いずみ教会のメンバーだと話し、彼を教会に誘ってみた。彼もカトリックの信者でもあったので、行ってみたいということになった。(そして、今日、その彼が礼拝に参加しています)
 私は、この教会の若い青年たちが、外国語で神の救いを語り、立派に証ししたのだと思うのです。英語がちゃんとしゃべれるかどうかが問題ではない。片言に親しみを込めて、愛を込めて語ったのです。だから、その言葉以上に、その心が相手に通じたのではないでしょうか。
 私たちの言葉が生きて働くかどうかは、表面的な言葉の問題ではなく、その言葉にハートが込められているか、愛が込められているかによるのだと思います。そして、言葉に愛が込められるとき、そこにきっと聖霊が働いています。私たちは、そういう言葉で、そういう心で、これからもキリストの愛を伝えていく教会となっていきましょう。




 

 






   ウィンドウを閉じる