2015年6月7日 礼拝説教〜悔い改めと赦し(1)〜
  聖  書  ヨハネの手紙(一)1章5〜10節
  説教者  山岡 創

「自分の罪を言い表すなら」

 私たちは今、こうして礼拝(れいはい)しています。改めて、礼拝とは何でしょうか?それは、イエス・キリストの父なる神との交わり、交流の時間です。そして、この時間は色んな要素を持っていて、色んなものに譬(たと)えることができます。例えば、礼拝は日曜日ごとの“神さまとのデート”だと言って良いでしょう。あるいは、“神さまと私たちのパーティータイム”だと言うこともできます。“えーっ!こんなに堅苦しいのに?”と思われる方もいるかも知れません。確かに、礼拝をもう少し柔らかい、楽しい雰囲気にできないかと考えることがあります。そして、けれども、どんな内容、形であれ、礼拝とは本質的に“喜びの時間”です。神さまと交流することによって、私たちは喜びを、慰めを、希望をいただいて、それぞれの1週間の生活へと踏み出していく。それが礼拝です。
 ところで、礼拝とはどんな内容、形を持っているのでしょうか?2007年度に、礼拝の形を少しモデル・チェンジしました。その際、礼拝の内容と流れが分かりやすいように、3つの構成にまとめました。週報の礼拝順序にあるように、〈恵みへの招き〉〈み言葉と聖礼典〉〈応答と派遣〉の3部構成です。私たちが、神さまの救いの恵みに招かれ、その恵みの中心である聖書の言葉と聖餐(せいさん)をいただき、その恵みに感謝をもって応え、恵みを受け取ってここから送り出されていく。それが礼拝の意味です。
 その最初の〈恵みへの招き〉の中で、先ほど〈悔い改めと赦し〉というものをいたしました。私たちが、まず神さまに招かれることによって礼拝は始まります。この神の招きを端的に表わすものが、最初の〈招詞(しょうし)〉です。私たちは、礼拝というパーティー会場に招かれるのです。けれども、その会場に入るには、身を清める必要があります。
日本にも、“斎戒沐浴(さいかいもくよく)”という慣習があります。神さまや仏さまにお祈りしたり、何らかの重要な宗教行事に携わる時は、その前に、飲食や行動を慎み、水で体を洗って身を清めて臨みます。“禊(みそぎ)”とも言うようです。
私たちも、神さまの前に出るのに、身を清めて臨みます。それが〈悔い改めと赦し〉です。私たちは、自分の罪を神さまに告白し、申し上げます。そして、神さまから“罪を赦す”との言葉をいただいて、罪を赦されて、安心して礼拝に臨むのです。
この〈悔い改めと赦し〉について、様々な思いや疑問を持ちの方もいらっしゃると思われます。以前に、〈信仰告白〉と〈主の祈り〉について、説教をさせていただいたことがありましたが、今日の礼拝からしばらく、〈悔い改めと赦し〉について、聖書の御(み)言葉を聞き、理解を深めたいと考えています。

 さて、今日読みましたヨハネの手紙(一)1章9節に、こう書かれていました。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。
これはご承知のように、〈悔い改めと赦し〉の中で、牧師が読む冒頭の文章の中に引用されている聖書の言葉です。自分の罪を隠さずに、礼拝の中で告白し、言い表すんだよ、という勧(すす)めです。それならば、自分の罪を抱えている者は告白し、言い表したらよい。けれども、罪のない者は言い表す必要がない、ということでしょうか。
 そうではありません。聖書は、すべての人間が「自分の罪」を持っていると見なしています。人は皆、罪人だと聖書は言うのです。だから、皆で言い表すのです。
 (旧約)聖書のいちばん初めに創世記という書があります。その冒頭に、神さまが天地を造られた物語があり、そこで最初の人間であるアダムとエヴァも造られます。このアダムとエヴァが、創世記3章で罪を犯すのです。二人はエデンの園という場所で暮らしていましたが、園の真ん中に生えている、神さまが食べてはいけないと命じた木の実を食べてしまい、神の命令に背くという罪を犯すのです。この二人が罪を犯して以来、二人から生まれた後の人間は皆、罪を犯す存在となった、罪人となったと聖書は見ています。罪とは遺伝するもののように思えますが、と言うよりも、人間とは本質的に罪をもっている存在、罪人だということを表わしているのだと思われます。
 人は皆、罪人である。これは、一般的な日本人には受け入れ難い、認め難い教えのようです。自分自身が罪人だと認めることになるからです。自分を否定するような、ネガティブな人間観は、なかなか受け入れられないのです。“自分は罪人なんかじゃない”と反発したくなるのです。
 けれども、人は罪人、自分も罪人という聖書の人間観に抵抗を感じるのは、聖書が言う罪を、犯罪と考えるからではないでしょうか。日本人は、罪を法律の視点で捉える考え方がほとんどだと思います。だから、罪と言われると、自分は犯罪など犯していないと抵抗を感じるのです。けれども、聖書が言う罪とは、神さまと向かい合った時の、人としての罪です。私たちの奥底にある、(隠しておきたいけれど)神さまに隠すことのできない罪の性(さが)です。それが形になって表に現れることもありますし、犯罪という行為になることもあります。しかしそれは、本質的に、人の心の闇にある根深い罪の性です。私たちはそれを、闇の底に隠しておきたい、形にしてしまった罪や犯罪行為は暗闇の中に葬っておきたいと思うのです。「闇の中を歩む」(6節)とは、このことです。
 けれども、5節にあるように「神は光」ですから、私たちの闇を照らし、闇の底にあるものを見ておられるのです。

 私たちは一人ひとり、心の奥底に何かを抱え持っているのではないでしょうか。明治時代のクリスチャンで、哲学者、文学者であった森有正という人は、それを“心の一隅”と言いました。森さんは、創世記に登場するアブラハムという人物について書かれた著書の中で“心の一隅”をこんなふうに書いています。
 人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神さまにお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。(『土の器に』日本基督教団出版局、より)
 私たちは、自分の胸に手を置いて、自分の内側を見つめ直してみたとき、思い当たるものがあるのではないでしょうか。先ほど、禊ということをお話しましたが、禊についてインターネットで調べていましたら、次のような心の告白が載っていました。
 私は、夏休み前、友人に酷いことを言ってしまいました。夏休みが明けて、学校が始まったら、わびて、仲直りをしようと心に決めていました。その友達が、夏休み中に事故で死んでしまいました。わびようにも、わびようがありません。それが、棘となって心に突き刺さったままです。心に棘を刺したままでは生き辛いのです。どうかこの心の棘を抜いてください。
 自分の罪を自分の心の闇の中に隠して平気でいられるうちは、その人はまだ自分の罪と向かい合っていません。誤魔化しています。けれども、自分の罪に痛みを感じる、恥ずかしさを感じる、不安を感じる、生きづらさを感じるならば、その人は自分の罪を見つめています。そして、それがもはや自分の力や行いではどうにもできないと途方に暮れたとき、神と出会う可能性が生まれます。神の世界への魂の扉が開かれるのです。罪を赦し、あらゆる不義を清めてくださる神との出会いが生まれるのです。

 この神との出会いのために、私たちは、「自分の罪を公に言い表す」ことを求められているのです。「公に言い表す」とは、礼拝で、共に言い表すということです。だから、共通の悔い改めの言葉を一緒に唱える形になります。もちろん、私たちが持っている罪は、一人ひとり具体的であり、異なるものです。それを個別に、個人的に言い表し、悔い改めるやり方もあります。カトリック教会では、それが告解(こくかい)というやり方で制度化されています。告解室という部屋で、壁の向こう側にいる司祭に自分の罪を告白し、赦しの宣言をいただくのです。プロテスタント教会には、そういう制度はありません。もちろん、牧師が個人的にそういう告白を聞くことはできます。けれども、自分の罪は、森有正さんが言うように、人には言い難いものです。だからこそ、神さまに告白します。祈りにおいて個人的に告白することもあるでしょう。そして、礼拝において共に言い表すこともあるでしょう。だから、礼拝において共通の言葉を唱えるとき、自分自身の罪を、その言葉に重ね合わせて言い表していただきたいと願います。具体的な自分の罪が思い浮かばない時でも、神さまの前に自分は罪人であることを思い、誠実に悔い改めを言い表していただきたく思います。

 主イエス・キリストがなさった譬え話の中に、〈ファリサイ派の人と徴税人〉の譬えがあります(ルカ18章9〜14節)。二人が神殿で、神さまに祈りをささげました。ファリサイ派の人は心の中で、自分はこれもやっている、あれもやっている、こういう罪は犯していないと神さまに向かって誇らしげに自慢をし、また徴税人をバカにしました。他方、徴税人は遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら祈りました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)。
主イエスは、神さまに赦され、良しと認められて家に帰ったのは、徴税人だったと、この話を結んでいます。
 確かに、ファリサイ派の人は神の掟、神の法に適った正しい行いをしてはいるのです。けれども、今日の聖書の8節の御言葉で言うなら、「自分に罪がない」と言い、「自らを欺(あざむ)いている」のです。神さまと向かい合って、自分の心の奥底を見つめていないのです。他方、徴税人(ちょうぜいにん)は、自分の心の一隅にあり、そこで痛みと申し訳なさを感じる罪を言い表すことによって、罪を赦されたのです。
 主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)と言われました。神の赦しの恵みと平安をいただくために、私たちは、自分の罪を誤魔化さず、開き直らず、まっすぐに見つめて、共に言い表していきましょう。






 

 






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