2015年6月21日 礼拝説教〜悔い改めと赦し(3)〜
  聖  書  ルカによる福音書15章11〜32節
  説教者  山岡 創

「高慢か、自己否定か」

 (主なる神よ)、あなたが愛してくださっているのに、わたしたちは気づかず、思い上がり、また自分を受け入れませんでした。
 礼拝(れいはい)において、わたしたちは自分の罪を悔い改めます。そして、神の赦(ゆる)しをいただきます。神に赦され、愛されている者として、私たちは安心して礼拝を守ります。
 今日は、〈悔い改めと赦し〉について、この三つめの罪の告白を、ご一緒に考えてみたいと思います。
先週の説教でもお話しましたが、罪というのは単に悪いこと、というのではありません。罪と言うと、私たちは悪いものと考えがちです。短絡(たんらく)的に犯罪と考える人もいるでしょう。けれども、聖書が語る罪とうのは、単純に良いか悪いかの問題ではないのです。罪とは、人として本来の道から外れている、あるべきところから逸れている状態のことを指しています。聖書は、罪を“的外れ”という意味の言葉で表します。的外れな生き方をしている、ということが罪なのです。そのことにハッと気づいて、“これはまずい、何とかしなければ”と考える。その気づきと、生き方の方向転換を、聖書は“悔い改め”と言うのです。
 そのような的外れな生き方の一つとして、神さまに愛されている自分に気づかず、思い上がるか、それとも自分を否定して受け入れないという心の態度があると思います。言い方を変えれば、自分が本来持っている人間としての価値に気づかず、高慢になるか、自己否定的な態度になるのです。

 今日は、ルカによる福音書15章にある〈放蕩(ほうとう)息子〉のたとえを読みました。兄と弟、二人の息子の姿が、高慢と自己否定という的外れな生き方を物語っているように思われます。
 二人の息子は父親に愛されていました。このたとえを読めば、それが感じられます。将来相続する財産を求められ、それを「父親は財産を二人に分けて」(12節)やります。自分勝手に飛び出して行く弟息子を、父親は見守り、帰って来ると、責めもせず喜んで迎え入れます。“こんな父親、どこにもいないよ!”と言っても良いほどの愛情です。また、弟に、父に腹を立てる兄息子の気持に父親は寄り添い、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(31節)と、兄息子を立てています。兄と弟に対する父親の愛情に違いがあるのでしょうか?差別があるでしょうか?私はそうは思いません。父親は、兄息子も弟息子も、愛の形は違えど等しく愛しているのです。
 けれども、その父の愛に気づかない。特に兄の方が気づいていません。どうしてでしょう?それは、自分と弟を比較しているからです。自分に対する父親の愛と、弟に対する父親の愛を比べているからです。そのために兄は自分を受け入れられないのです。

 比較という見方ほど、私たちの目をくらませるものはありません。人と比べることによって、自分が本来持っている人間としての価値を、私たちは見失うのです。けれども、人と一緒に生きている限り、私たちは比較を免(まぬが)れることはできません。比較という“的外れ”な生き方からいかに自由になるか、私たちの一生涯の問題です。
 マックス・ルケードというアメリカの牧師が描いた絵本で、『たいせつなきみ』というのがあります。私たち人間の社会を、ウイミックスと呼ばれる人形の社会にたとえた絵本です。そこで人形たちは何をしているかと言えば、お互いに金色と灰色のシールを貼り合っている。何かが良くできると思った人形には金色のシールを貼り、できない奴、だめな奴と思った人形には灰色シールを貼る。そうやって比べ合い、競争する様は、まさに人間の社会の姿です。
 パンチネロという人形がいました。灰色シールだらけでした。彼は、自分はだめ人形だと思い、劣等感にさいなまれます。ところが、彼はある日、シールが1枚も貼りついていないルシアという人形と出会います。不思議に思って話を聞くと、彼女は、丘の上に住む、自分たち人形を造ったエリという人物に会いに行け、そうすれば分かる、と言います。思い切ってエリに会いに行ったパンチネロは、そこで彼に大切に扱われ、“お前を愛している”と語りかけられます。その言葉と態度に嘘はないと感じたとき、パンチネロの体から1枚、灰色シールがはがれて落ちる‥‥そこで絵本は終わります。
 比較によって心に生まれる劣等感という感情は厄介なものです。この気持とどう向き合い、どう処理するかで、私たちの人生は大きく変わります。教会に来て、聖書の教えを聞きながら、しかし、ともすれば私たちは劣等感の扱いを間違えることがあります。それは、社会の中で評価されず、できない、人よりも劣っていると思っていた人が、教会に来て、認められ、ほめられることによって、自分はできる人間になったと、今度は優越感を抱くようになることです。そうなると、もっと評価されたいと、様々な活動や奉仕をし、更にほめられて、そんな自分は救われたと思い込むのです。けれども、それは劣等感の裏返しです。比較の問題から抜け出せていないのです。
 できようとできまいと、評価されようとされまいと、問題ではない。たとえできなくても自分は神さまに愛されている。だから、ありのままで自分に価値がある。自分は自分でいい。そういう気持、ちょっと難しい言葉で言えば、存在の安心感とでも言いましょうか、そのようにありのままの自分を受け入れるのです。そこに落ち着かない限り、私たちは比較という無限ループから自由になることはできません。

 兄は、弟と自分を比べ、自分は評価されていない、愛されていないと不満という名の劣等感を抱きました。しかし、その気持は、弟よりも自分の方ができるという優越感から来るものでもあるのです。
 兄は父親に言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)。弟のように自分勝手な生き方をして落ちぶれるようなまねはせず、自分のなすべきことをきっちりと果たして来たという自負心が感じられます。確かに、それは立派な生き方かも知れません。
 けれども、兄の心には、立派に生きている人にありがちな、“自分の力で生きている”という思い上がりがないでしょうか?今まで表には出さなかったかも知れませんが、これだけしっかり、立派にやっているのだから、評価されて当然という思い上がりはないでしょうか?
 努力して、立派に生きることは、すばらしいことです。けれども、それによって何か物欲しそうな心になってはならないでしょう。私たちは、努力して、その結果、物事が、人生が順調に運んでいると、自分の力だと思い込みがちです。父親が、すなわち神さまが「いつも一緒にいる」ということを忘れがちです。“生かされている”という恵み、すなわち愛されて生きているという命の本来を見失いがちです。そのために感謝と謙遜を失い、思い上がるのです。そういう意味では、立派な生き方をしている兄息子も、父なる神さまの目から見れば、的外れな生き方をしている“放蕩息子”であるということを見落としてはなりません。私たちは、弟こそが放蕩息子と考えがちですが、弟も兄も放蕩息子なのです。悔い改めて、「父のところに」(18節)帰るべき“罪の人”なのです。“いや、そうは言っても弟の方が‥”と考えるとしたら、まだ比較に囚われています。
 そのような兄息子を、父親は、“お前が生きているのは私のお陰だろう!”などと叱らず、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言って、父の愛と人生の恵みに気づかせて、感謝と謙遜を取り戻させようとしています。

 他方、弟息子の方は、財産の分け前「全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」(13節)とあります。父親の気持など全く考えない、悔い改めの言葉で言えば、自己中心な振舞いに他なりません。だれが見ても、的外れな生き方です。
 弟息子は落ちぶれました。落ちぶれた自分とどのように向き合うか、その生き方によって、私たちはまた大きく変わるのです。
 カトリックの司祭で井上洋治さんという方がおられます。昨年87歳で天に召されましたが、この方が『人はなぜ生きるか』という著書の中で、次ように書いておられます。
井上先生はある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、ある出版社から頼まれました。そこであれこれとお考えになったわけですが、そんな時、一通の手紙が舞い込みました。見ず知らずの若い女性からの手紙で、交通事故で顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいというような内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッされ、次のようなことを思われたそうです。
  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。
(『人はなぜ生きるか』9頁)
 私たちが、自分を肯定し、自分を受け入れるのは、健康、財産、友情や家庭を持っている時、地位や名誉、学歴や才能、美貌(びぼう)‥‥そういったものを持っている時です。何かしら、そういうものを持っている自分に安心できる時です。しかし、そういったものは失われることがあります。そして、私たちの人生はある意味で、どんな時でも自分を受け入れなければ、安心して生きていくことはできません。落ちぶれ、色あせた弟息子が、我に返り、父のところに帰るというのは、言わば、この“自分を受け入れる安心”を取り戻すためなのです。
 けれども、弟はまだ自分の本来の価値に気づいていません。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)と自分のことを考えています。あれだけのことをしたのですから、当然と言えば当然の気持でしょう。逆に、何も反省せず居直って、“おれは息子だ。当然だ”と思われたら、悔い改めもへったくれもありません。
 息子の資格なし。息子の価値なし。そう思って、とぼとぼと帰って来た弟息子を、父親はどうしたでしょう?「走り寄って首を抱き、接吻し」(20節)、指輪をはめ、良い服を着せ、息子の帰還を、食べて祝ったのです。父親は彼を“愛する息子”として変わることなく受け入れたのです。それは、息子が財産を取り戻し、償(つぐな)って帰って来たからではありません。どうにもならず、途方に暮れて、何の償いもできずに帰って来たのです。けれども、愛する息子としての価値は何も変わらない。それが、父親の愛、神の愛です。
 この愛に気づいたとき、私たちもまた、落ちぶれ、色あせた自分、ダメな自分、苦悩する自分を肯定します。“生きる価値のある人間”として自分を認め、受け入れます。神の愛を聖書の知識として理解するのではなく、人生の何かをきっかけにして、神さまに愛されていることにハッと気づかされ、ハートで神の愛を受け止めたとき、私たちは、思い上がらず、自分を受け入れる者へと変えられるのです。







 

 






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