2015年6月28日大人と子供の礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書6章25〜34節
  説教者  山岡 創

「今日一日を」

 今日読んだ聖書の箇所ですが、イエス様は、山の上で説教をなさっています。山の上の、平らな野原のようなところでお話をなさったのでしょう。
 今年も7月末に小学生合同キャンプが開かれますが、何年か前に、開会礼拝を堂平山という山の上でしたことがありました。少し斜めになっている広い草原で、みんなで讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、お弁当を食べました。イエス様と集まった人たちがした礼拝も、こんな感じだったのかな?と堂平山でした礼拝(れいはい)を思い浮かべました。
 建物の中ではなく、外でする礼拝です。周りには草花が咲いていたでしょう。また、鳥のさえずりも聞こえたでしょう。イエス様は、そんな鳥のさえずりを耳にして、こう教えました。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(26節)。
 鳥は畑で麦や野菜を作らないし、収穫を倉に入れて取っておいたりもしない。でも、元気に空を飛び、さえずり、生きている。それは、天の父なる神さまが、鳥のことを考え、生きられるように養ってくださるからだ。そういう鳥よりも、神さまは、あなたがたのことをもっと大切に考え、養ってくださるから、だいじょうぶ、悩まなくていいよ‥‥‥イエス様は、今日は何を食べようかと毎日の生活を心配している人々に、このようにお話なさいました。

 「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とイエス様は言われました。「価値」というのは、値打ちのこと、どれぐらい大切か、どれぐらい重要か、ということです。ところで、私たちは“自分”の価値をどのように計っているでしょうか?‥‥周りの人と比べて、“私はあの人よりできる(できない)”“私はあの人より持っている(持っていない)”“私はあの人よりかわいい(かわいくない)”とか自分を評価して、また他人に点を付けて、“自分はすごい”と優越感を感じたり、“自分はダメだ”と劣等感を感じたり、そんなふうに人と比べて自分の価値を決めていないでしょうか?
 先週の礼拝でもお話しましたが、マックス・ルケードというアメリカの牧師が描いた『たいせつなきみ』という絵本があります。私たち人間の社会を、ウイミックスと呼ばれる人形の社会にたとえた話です。そこで人形たちは何をしているかと言えば、お互いに金色と灰色のシールを貼り合っている。何かが良くできると思った人形には金色のシールを貼り、できない奴、だめな奴と思った人形には灰色シールを貼る。そうやって比べ合い、競争する様は、まさに私たちの社会の姿です。
 パンチネロという人形がいました。灰色シールだらけでした。彼は、自分はだめ人形だと思い、劣等感ばかりを感じていました。ところが、彼はある日、シールが1枚も貼りついていないルシアという人形と出会います。不思議に思って話を聞くと、彼女は、丘の上に住む、自分たち人形を造ったエリという人物に会いに行け、そうすれば分かる、と言います。思い切ってエリに会いに行ったパンチネロは、そこで彼に大切に扱われ、“お前を愛している”と語りかけられます。その言葉、嘘じゃないぞ‥‥と感じたとき、パンチネロの体から1枚、灰色シールがはがれてポロリと落ちる‥‥そこで絵本は終わります。
 この絵本の最後のページで、どうしてルシアにはシールが付かないのか、というパンチネロの疑問に答えて、エリはこう言います。
  それはね、わたしの思うことのほうがもっと大事だと、あの子が決めたからなんだよ。みんながどう思うかなんてことよりもね。‥‥‥
  わたしがおまえのことをどれぐらい大好きだか、わすれないようにね。この手でつくったから、おまえは大切なんだってことを。
 人と比べて自分の価値を決めるのではない。エリに造られ、エリに好かれ、エリに大切にされていることによって自分の価値を決める。自分は大切な、価値ある人形だと信じる。私たちも、私たちを造られた神さまの愛を思って、自分の価値を信じるのです。人と比べるのではなく、父なる神さまが私を造り、私を愛し、私を大切にしてくださるから、私(自分)には価値があると信じるのです。みんなと比べて自分がナンバー・ワンだからではなく、神さまにとって自分はオンリー・ワンだと信じるのです。そう信じると喜びが湧いてきます。自分は自分、自分らしく、ありのままでいいんだ、という自由な気持になれます。

 私たちは神さまのお気に入り。空の鳥よりも、野の花よりも、もっともっと大切にされます。だから、自分の「価値」を疑わなくていい。そして、「何を食べようか何を飲もうか」「何を着ようか」(25節)と思い悩まなくていい。仕事どうしよう?生活どうしよう?勉強どうしよう?部活どうしよう?進路どうしよう?あの人との関係どうしよう?お金どうしよう?健康どうしよう?‥‥‥私たちの生活には、どうしよう?という心配がいっぱいあります。でも、だいじょうぶだとイエス様は言われます。それは、私たち以上に、父なる神さまが、私たちのことを“どうしよう?”と考えてくださり、この人には“これが必要だ!”と必要なものを用意してくださるからです。
 イエス様のこの教え、何も考えなくていいよ、何もしなくていいよ、神さまに任せておけばいい。自分は好きなことだけやっていればいい‥‥という意味ではありません。中学生や高校生はもうすぐ期末試験がありますね。もし“神さまが考えて、何とかしてくれるから、私は何もしなくてもだいじょうぶ!”と考えて、自分のやりたいことだけをやっていても、決して試験はできません。自分の生活の中で、課題や問題に直面した時、私たちはやはり思い悩まずにはいられません。どうしたらいいか考えずにはいられません。けれども、イエス様は、そんな時「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)と言われました。心配したり、考えたりする。でも、その前にするべきことがある。それが、「神の国と神の義」を求めることです。何のこと?難しいぞ、と思うでしょう。でもね、簡単に言えば、聖書を読んでお祈りしなさい、ということです。聖書を真剣に読むと、神さまのアドバイスが見えて来ます。“君の気持は分かっているよ。こうしてみたらどうだろう?”と、神さまがエールとヒントをくださいます。それが分かったら祈ります。“神さま、感謝します。悩みに立ち向かう勇気と力を与えてください”と祈ります。すると、私たちは落ち着いて、積極的に、どうしよう?という自分の悩みに取り組むことができるようになります。それが、神さまが用意してくださる「必要なこと」です。
 聖書とお祈り、そして、こうして一緒に守っている礼拝は、私たちの生活の大切な土台です。土台がなければ家は建ちません。心の土台がなければ、私たちの人生は建ちません。いつもグラグラです。確かな土台の上に建てれば、私たちは安心です。
 神さまを信じて、神さまに聞いて、神さまに祈って、今日一日を生きていく。それが、神さまを信じるクリスチャンの安心の生き方です。




   ウィンドウを閉じる