2015年7月19日礼拝説教〜悔い改めと赦し(6)〜
  聖  書  詩編51編3〜19節
  説教者  山岡 創

「打ち砕かれ悔いる心」

 礼拝(れいはい)は、神の招きによって始まります。私たちが、自分で“教会に来たい、礼拝に出たい”と思うから、礼拝に参加できるのではない。神さまが私たち一人ひとりを招待してくださるから、私たちは礼拝という“神さまのパーティー会場”に入ることができる‥‥‥というのが信仰的な考え方の筋道です。教会の最終目標である神の国、天の御(み)国を主イエスは結婚式にたとえていますが、教会の礼拝もまた結婚式のようなものでしょう。招待されて初めて、参加することができます。
 さて、招待されて、神さまのパーティー会場に入った私たちが、そこでまず、すべきことは何か?招待されたことに感謝して、お礼を申し上げる。それが最初の讃美です。しかし、神さまという“聖なるお方”が主催するパーティーに参加するには、あまりにふさわしくない、罪深い私たちです。だから私たちは罪を悔い改めます。自分の罪を告白し、悔い改めて、神さまのお赦しをいただきます。そのようにして初めて、私たちは神の礼拝にふさわしい者とされる。安心して礼拝を守ることができます。そのために、礼拝の初めに〈悔い改めと赦し〉があります。
 礼拝において、〈悔い改めと赦し〉について、シリーズで聖書の御言葉から学んでいます。今日は、“わたしたちの内に「打ち砕かれ悔いる心」をお与えください”との悔い改めの言葉を考えてみましょう。

 私たちが共同で告白する悔い改めの言葉のいちばん最後に、この言葉を置きました。それは、ここまでの、すべての悔い改めの言葉を一言にまとめて言い表すならば、この言葉がふさわしいと考えたからです。命を私し、自己中心に振る舞った。神の愛に気づかず、思い上がり、また自分を受け入れなかった。神の語りかけに耳を傾けなかった。そのために神と隣人を愛することができなかった。このような罪を犯している私たちをお赦しください‥‥‥そのように告白し、悔い改めることができるのは、心が打ち砕かれているからです。心が打ち砕かれていなかったらどうなるか?私たちは、自分の罪を認めることができません。自分は、命など私していない。自己中心に振る舞ってなどいない。神の愛に気づいている。思い上がっていない。自分を受け入れている。神の語りかけに耳を傾けている。神を愛している。隣人を愛している‥‥‥そう思って自分を弁護し、正当化します。
 先週の礼拝で、ルカ福音書10章の〈善いサマリア人〉のたとえを学びました。あなたは、聖書の中で最も重要なのは「隣人を自分のように愛しなさい」という教えだと分かっている。しかし、実際にはそれができていない。だから、実行しなさい。主イエスから、そのように指摘された律法の専門家は、素直にそれを認めず、“わたしは隣人を愛しています。愛していないと言うなら、いったい私の隣人とはだれですか”と自分を正当化しようとした、と聖書に記されています。
 心が打ち砕かれていなかったら、私たちは自分の罪を認めず、悔い改めず、正当化しようとします。キリスト教作家であった三浦綾子さんが、その著書『光あるうちに』の中で“罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだ”と書いていました。心が打ち砕かれていなかったら、罪を罪と感じ得ず、自分を正当化するという“最大の罪”を犯すことになるでしょう。“人間”であるために、神さまによって造られた“人間”として健やかに生きるために、私たちには「打ち砕かれ悔いる心」が必要です。

 「打ち砕かれ悔いる心」、この悔い改めの言葉は、詩編51編19節から借用しました。この詩編51編を読み味わってみると、作者が心の底から自分の罪を認め、悔い改めているという気持が伝わって来ます。まさに「打ち砕かれ悔いる心」を与えられた人の罪の告白であり、悔い改めだと感じます。
 この詩編51編の作者はだれでしょうか?ダビデ王だと言われています。
 ダビデ王は、神の民であるイスラエル王国の2代目の王です。神さまに従い、また周辺諸民族を打ち破り、王国の領土を広げ繁栄させた名君だと謳(うた)われています。ところが、ダビデ王も人の子、神さまの導きを忘れ、自分の成功に思い上がり、ある時、とんでもない罪を犯してしまいます。
 経緯はこうです。ある日、ダビデ王が城の屋上からエルサレムの街を眺めていると、水浴びをしている美しい女性に目が留まりました。バト・シェバという女性です。王は欲情し、一目惚れし、部下に命じて彼女を城に連れて来させます。そして、姦通の罪を犯します。彼女はダビデ王の部下であるウリヤという人の妻でした。神さまの掟では、他人の妻と姦通をすることは大きな罪で、死刑と定められていました。でも、ダビデは思い上がっていましたから、平気でそれを破りました。ところが、動かぬ証拠ができてしまいます。バト・シェバが妊娠したのです。夫のウリヤは何カ月も戦場にいて家にはいませんでしたから、ウリヤの子だとごまかすこともできない。いくら王様でも証拠があったのでは、やっていないと言い逃れることはできません。困ったダビデ王は、ウリヤを戦いの激しい最前線にわざと送ります。そして、わざとウリヤを戦死させた後で、独り身になったバト・シェバを自分の妻にして、それから彼女が妊娠したことにして、何事もなかったかのように自分の罪をもみ消したのです。旧約聖書・サムエル記上11章に書かれている話です。
 けれども、その罪を神さまは見逃されませんでした。ある日、ダビデ王のもとに預言者ナタンがやって来て、何気なく次のような話をしました。
ある町に二人の男がいた。一人は金持ちで、とても多くの牛や羊を飼っていた。もう一人は貧しくて、たった1匹の小羊しか持っていなかった。男はその小羊をとても大事に育てた。ある日、金持ちの男の家にお客さんがやって来た。金持ちの男は客をもてなすのに、自分の牛や羊を料理するのが惜しくなった。そこで、貧しい男の1匹の小羊を奪い取り、料理して客に出した。
この話を聞くと、ダビデ王はカンカンに怒って叫びました。「そんなことをした男は死罪だ」。小羊を弁償するのに4倍のお金を払うべきだ。そんなひどいことをしたのだから。神さまはちゃんと見ているぞ!
 その瞬間、ナタンはダビデ王に向かってきっぱりと言いました。「その男はあなただ」。ダビデ王はハッとし、ガックリと崩折(くずお)れました。そして、「わたしは主に罪を犯した」(サムエル記下12章13節)と告白します。自分がバト・シェバと姦通し、ウリヤを殺して彼女を奪ったことを認めずにはおられなかったからです。ダビデ王は、神さまによってその心を打ち砕かれたのです。その時、ダビデ王が悔い改めて祈った言葉が、この詩編51編だと言われています。
 私たちも、心が頑(かたく)なで、なかなか自分の罪を認めることができない、認めたくない時が少なからずあります。しかし、それを認めて、悔い改めずにはいられないほど、心が砕かれることがあります。それは、“愛”によってです。愛する人を傷つけた。愛してくれる相手を傷つけた。その心の痛みを感じたとき、私たちの心は砕かれるのです。

 「打ち砕かれ悔いる心」。もし、この心を別の言葉で表わすとすれば、12節にある「清い心」だと言ってもよいでしょう。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)。
 ここに「創造する」という言葉が使われています。ヘブライ語でバラーといいます。旧約聖書の中には、“つくる”という言葉が何種類か使われていますが、このバラーというのは特別な意味が込められています。旧約聖書のはじめに創世記という書があります。そしてその冒頭に、神さまが天地を創造した物語があります。神さまがこの世界、天地を創造し、私たち人間を創造したということ。これが私たちのキリスト教信仰の根本にあります。そこから私たちは、信仰的に人生や物事を考えるのです。
 ここで、神さまが天地を創造した物語に使われているのがバラーという言葉です。逆に言えば、神さまが天地を創造されたこと以外には、このバラーという言葉は使わないのです。人間が何かをつくる、という時には、決してバラーは使わないのです。
 ところが、天地創造物語以外で、このバラーが使われている稀有(けう)な例があります。それが詩編51編19節です。「わたしの内に清い心を創造し」という祈りの言葉に、バラーが使われているのです。人の内に「清い心」を、「打ち砕かれ悔いる心」を創造するには、ある意味で、天地が創造されたのと同じぐらい、神さまの情熱とエネルギーが要るのです。
 教育は人の外側の特性を変えることはできても、人の心を根本から変えることはなかなかできないと、ある人が言いました。人の心、罪の心は、まことに御(ぎょ)し難(がた)い。自分ではどうすることもできない。自分の心を、自分で新たに造りかえることなど、とてもできない。私たちは、自分の心の頑なさを目の当たりにされるにつけ、このように感じるのではないでしょうか。だからこそ、神さまに新しく創造していただく以外にない。天地を創造されたその心とエネルギーをもって造りかえていただく以外にない。ダビデは、聖書は、そのように考えています。
 そして、この天地創造の心とエネルギーに匹敵するものが、神の独り子イエス・キリストの命です。父なる神さまは、私たちを罪から贖(あがな)う身代わりとして、主イエス・キリストの命を十字架の上で犠牲になさいました。その憐れみの業(わざ)によって、私たちは罪を赦されました。この憐れみの業、この愛の御心に圧倒されるとき、感動する時、私たちは「打ち砕かれ悔いる心」へと造りかえられるのです。

 話は変わりますが、坂戸いずみ教会を、その創設の時から祈り、支え、ご尽力してくださったA.Sさんが、16日に天に召されました。昨日午後、教会で告別式をし、今日の午後、ここから出棺し、火葬をします。Aさんは生前から、ご自分の死に備えて〈わたしの葬儀の希望〉という書面の他、10枚を超えるプリントを提出していてくださいました。〈わたしの葬儀の希望〉の中で、Aさんが、ご自分の葬儀の際には、この聖書の御(み)言葉をと選ばれた箇所があります。それは、ローマの信徒への手紙8章10節でした。
「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」。
 確かに、体は罪を犯します。罪に支配され、死んでいます。けれども、私たちの心は、内なる“霊”は神の義によって命となります。再生します。悔い改め、赦されて、命の道へと立ち帰るのです。「義」とはすなわち、神の愛とエネルギー、それがイエス・キリストの十字架の御業(みわざ)に表わされています。それによって、私たちは、「打ち砕かれ悔いる心」を与えられると共に、神の赦しを賜(たまわ)ります。
 “わたしたちの内に「打ち砕かれ悔いる心」をお与えください”。この悔い改めと祈りを胸に、命の道、人の道を歩んでいきましょう。







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