2015年8月2日礼拝説教〜悔い改めと赦し(7)〜
  聖  書  ルカによる福音書7章36〜50節
  説教者  山岡 創

「あなたの罪は赦された」

「あなたの罪は赦(ゆる)された」(48節)。この罪の赦しの言葉は、今日読んだ聖書箇所で、主イエスが「一人の罪深い女」(37節)に宣言したものです。私たちは、この女性のように、主イエスから直接、「あなたの罪は赦された」と言っていただくことができたら、どんなに良いかと思う時があるのではないでしょうか。
 キリスト教を大きく分けると、カトリックとプロテスタントに分かれます。私たちの日本基督(キリスト)教団はプロテスタントです。ところで、カトリックには告解(こくかい)という制度があります。カトリック教会の会堂に入ると、どこかに告解室という小さな部屋があります。その部屋に入り、カトリック信者は自分の罪を神さまに向かって告白します。だれにも見えないし、だれにも聞こえません。ただ壁1枚隔てた隣の部屋で、その告白を聞いている聖職者が、罪の告白が終わったとき、“あなたの罪は赦された”と神さまに代わって宣言するのです。その赦しの言葉を聞いて、信者は安心して帰って行きます。
 プロテスタント教会には、こういう制度がありません。では、プロテスタントの信徒は、キリストの赦しの言葉を聞くことができないのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。一人の罪深い女にかけられた「あなたの罪は赦された」というキリストの言葉は、私たちキリスト者一人ひとりにかけられています。ただ、それがカトリックの告解のように具体的な形に表わされていないだけです。
 私は、プロテスタント教会、私たちの教会にも、罪の赦しの宣言が明らかな形としてあってしかるべきだろうと考えていました。そして、他の教会で、礼拝の中で、悔い改めと罪の赦しの宣言がなされている教会があることを知りました。礼拝では、罪の悔い改めは共同の告白になりますから、告解のように自分の罪を個人的に、具体的に告白することはできません。けれども、人が悔い改めて、神の罪の赦しの宣言をいただくのは、礼拝が最もふさわしいと考えて、数年前に礼拝改革に取り組んだとき、悔い改めと赦しを礼拝順序の中に入れることを提案したのです。
 それで私たちは、礼拝において毎回、キリストの罪の赦しの宣言をいただくことができるようになりました。「あなたの罪は赦された」。罪の赦しをいただいて、私たちは、神さまの前に礼拝を守り、安心して、それぞれの生活の場へと出ていくことができるのです。

 さて、今日の聖書箇所で、シモンという名のファリサイ派の人が、主イエスを食事の席に招きました。噂に聞く“時の人”イエスを自宅に迎えて、信仰について話をしてみたいと思ったのでしょう。
ところが、その食事の席に、この町に住む「一人の罪深い女性」が入り込んで来ました。古代オリエントの社会では、お客さんが招待されている席に、他人が入り込んでくるのは当たり前のことだったようです。けれども、シモンはこの家の主人として、この女性を追い出すこともできたでしょう。「罪深い女」(39節)だと、つまりこの席にふさわしくないとシモン自身が感じているのですから、追い出せば良かったのです。けれども、それをしなかったのは、主イエスを信仰の教師として、預言者として試そうと思ったからでしょう。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)。
 この女性は売春婦だったと思われます。ユダヤ人の掟では、売春婦は姦通を犯す者として十戒を破る重大な罪にあたり、石打ちの刑で死刑でした。けれども、この女性が処刑されなかったのは、当時のユダヤ人がローマ帝国に支配されていたからです。ローマ帝国は、ユダヤ人から税金を徴収する権利と、人を処刑する権利を奪いました。だから、ユダヤ人がユダヤ人を処刑するためには、ローマの裁判に訴えて、有罪の判決を得なければなりませんでした。しかし、ローマ帝国では、売春は罪とは認められていなかったようです。
 シモンはファリサイ派でした。ファリサイ派は、神の掟を厳格に守るユダヤ教の宗派でした。だから、このような女性を軽蔑し、差別しました。ファリサイ派にかかわらず、ユダヤ人であれば多かれ少なかれ、この女性を軽蔑し、神さまに赦されず、愛されず、神の国に入れない人間と見なしました。
 この女性はもちろん、そのようなユダヤ人社会の空気をよく分かっていました。しかしながら、ユダヤ人でありながら、神の掟を知っていて、あえてそれを破る者はいないのではないかと思います。社会的にも“村八分”にされるわけですから。これは想像に過ぎませんけれども、この女性は未亡人だったかも知れません。当時、女性に仕事などありませんから、生きていくためには、食べていくためには、売春婦になる以外になかったのかも知れません。あるいは、ユダヤに駐屯するローマの兵士たちに無理やり暴行されたのかも知れません(いつの時代にも、女性にとってそのような悲惨な状況が起こり得ます)。けれども、たとえそうだとしても、当時のユダヤ人とその社会は冷たかったようです。情状を酌量せず、掟を破ったという点において、この女性を軽蔑し、差別したのです。それがこの女性にとって、どんなに辛いことであったか分かりません。
 また、この女性自身も、そのような自分を仕方がないとは思わず、神さまに対して恥じているように思われます。どんな事情、理由であれ、神の掟を犯してしまった。その悔いと恥の思いがこの女性に、このような行動を取らせたのだと思います。

 この女性は、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗(った)」(38節)りました。この行動の動機、真意はいったい何だったのでしょうか? 私は単純に、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)という悔い改めの思いがほとばしり出たものではないかと思うのです。
 同じルカによる福音書18章9節以下に、〈ファリサイ派の人と徴税人のたとえ〉という、主イエスが語られたたとえ話があります。神殿に上った二人が祈り始めます。ファリサイ派の人は、自分は神の掟を守って生活しているという自負心がありますから、そのことを誇らしげに神さまに訴え、更に徴税人を軽蔑するような祈りの言葉さえ吐きます。彼は、自分が罪人だ、などとは全く思っていないのです。
 他方、徴税人は自分の罪を思い、顔を上げようともせず、胸を打ちながら祈りました。細かい説明は省きますが、徴税人もまた、ユダヤ人社会の中で、売春婦と似たような立場にありました。彼は、自分が軽蔑され、差別されている疎外感を思い、それ以上に、神さまに対して、自分の罪を悔い、恥じて祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。
 私は、この女性も、この徴税人と同じような思いだったのではないかと思うのです。ただ、その思いが祈りの言葉になったか、それとも言葉にはならず行動になったかの違いです。周りから自分が軽蔑され、差別されている疎外感、孤独感の中で、あなただけはその辛さを分かってくださいという思いがあったでしょう。そしてそれ以上に、こんなに罪深い状態の中に陥っている自分は何の申し開きもできません、でも見捨てないでください、憐れんでください、という思いだったでしょう。その悔い改めの真心は、神さまの愛の心を打つのです。
 主イエスは、この女性の行動について、金貸しから借金を帳消しにされた二人の人のたとえを語り、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することも少ない」(47節)という言葉で説明されました。けれども、この女性はこの時点ではまだ、自分の罪が赦されたとは思っていなかったと思います。ただただ、罪人の自分を憐れんでくださいとの思いでいっぱいだったに違いありません。だから、自分の多くの罪が赦されたと感じて、主イエスに感謝して、大きな愛を示したという行動ではなかったと思います。
 それなのに、どうして主イエスがこのような説明をなさったのかと言えば、それは、この女性を軽蔑し、差別するファリサイ派の人シモンに、この女性は、神さまに見捨てられた罪深い女ではないよ、神さまに赦されている女性だよ、一人の人間だよ、ということを知らしめるためだったでしょう。罪という借金を返すことのできない人間を、神さまは帳消しにされ、お赦しになる。人間の常識や理解では量り切れない大きな愛で、この女性は包まれ、赦されているのだということを、そこに新しい救いがあることを、シモンに知ってほしかったのでしょう。
 そして、この神の大きな愛、深い憐れみに触れた者は、感動し、感謝して、本当に大きな愛を注いで、神さまを、主イエスを愛するようになるのです。反対に、ファリサイ派の人のように、自分を罪人だと思わない者、罪があっても自分の罪は他人と比べて少ないと思う者は、この神の愛と赦しの真髄に触れることはできません。人の前に立ち、人と比べてではなく、神の前に立ち、自分の罪の深さを悔いる者こそが、神の深い憐れみと赦しに触れて、神を愛する者へと変えられるのです。

 「あなたの罪は赦された」。自分の罪に気づき、悔い改める者が、主イエス・キリストの、この赦しの宣言を受けることができます。私たちの心は、シモンのように罪に鈍く、また罪を認めるのに頑(かたく)なで、自己弁護(正当化)をするようなところがあるかも知れません。絶えず神さまの御(み)心を思い、誠実にキリストの言葉を聞いて、自分の罪を悔い改める者とならせていただきましょう。




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