2015年8月9日 平和聖日礼拝
  聖  書  ローマの信徒への手紙12章9〜21節
  説教者  山岡 創

「すべての人と平和に暮らしなさい」

 今日は〈平和聖日礼拝〉を迎えました。平和を求めて、神さまに祈りをささげながら守る礼拝(れいはい)です。普段の礼拝と少し違って、日本基督教団罪責告白を告白しました。これは、教団の下にある関東教区が作成したもので、まだ正式に教団の罪責告白になってはいませんが、関東教区からの要請もあり、私たちはここ数年、この罪責告白を通して、太平洋戦争中に日本基督教団が犯した罪を告白し、その過去を少しでも自分たちのこととして意識できるようにと願っています。また、H・Yさんを通して、戦争体験と平和の証しを伺いました。私もそうですが、実際に戦争を体験していない世代の者にとっては、この証しを聞けることは貴重な機会です。“今”でないと聞けない、“生の言葉”です。
 そして、私たちは聖書を通して、平和をお求めになる神の言葉を聞きます。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。

 これは、2千年前の当時、最も熱心なキリスト教伝道者だったと思われるパウロという人が書き送ったローマの信徒への手紙の中の言葉です。直接的にはパウロが書いた言葉です。けれども、私たちは、その言葉に神さまの御心が現れていると信じ、神の言葉として受け止めるのです。
 平和に暮らしたい。これは、神さまに言われなくとも、だれもが望む願いでしょう。先日、自民党の武藤貴也衆議院議員が、安全保障関連法案に反対する学生団体シールズに対して、“「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考え”、“利己的個人主義がここまで蔓延(まんえん)したのは戦後教育のせいだろう”などと非難する趣旨の文書を投稿して、大きな反響を呼んでいます。この投稿に対して、朝日新聞の〈声〉の欄(8月7日付け)で、ある人が次のような文章を寄せていました
 シールズの他にも広がる「戦争に行きたくない。子どもたちを行かせたくない。平和に暮らしたい」という国民の願いは、決して自分中心で利己的なわけではない。日本の人々が戦争に巻き込まれて人を殺し、殺されることに反対しているのだ。国民だれもが抱く当然の感情である。それを否定する政治家がいるとは信じられない。‥‥
 この中にも、国民の声が出て来ます。平和に暮らしたい。そのために、戦争に行きたくない。子どもたちを行かせたくない。これは、だれもが抱く、自然な願いでしょう。人の願いと神の願いとはマッチしているのです。

 けれども、18節のこの御(み)言葉に、“んっ?”と思った人も少なくないと思われます。
「できれば、せめてあなたがたは‥」とパウロは言います。この言い方には、“できないかも知れないが、その努力をしてほしい”という願いと、“他のことはできなくても、これだけは最低限、実現してほしい”という思いが込められています。
 パウロは12章9節から、〈キリスト教的生活の規範〉というタイトルが付いているように、ローマの信徒たちに、クリスチャンとして、このような心構えで、態度で、行動で生活してほしいということを書き連ねて来ました。けれども、たとえそれらのことが生活の中で実践できなくとも、できれば、せめてこれだけは実践してほしい、という願いを持っているのです。それは、「すべての人と平和に暮らす」ということです。それが、クリスチャンとして、人として、最低限守るべき人の道だとパウロは考えているのです。
 平和に暮らすとは、どのように生活することでしょうか?仲良く暮らす、ということも考えられます。助け合い、支え合って暮らす、ということも考えられます。戦争をせずに暮らすということでもあるでしょう。けれども、パウロがこの手紙の中で考えている、平和な暮らしの内容は、復讐をしない、ということです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。
平和に暮らすということは、仲良くできなくとも、助け合えなくとも、せめて復讐をせずに、仕返しをせずに暮らす、といことです。たとえ心の中にそういう思いが湧き上がって来ても、その思いを心の中に留めて、表には出さない。実際に復讐し、仕返しする行動を取らないということです。
 ずいぶん消極的ではないか?と思われるかも知れません。けれども、復讐をしない、仕返しをしないということは、とても難しいことなのではないでしょうか?私たちは、日常生活において、ちょっとしたことでも、やられたら、腹が立ち、悔しい気持になります。そして、やり返したくなります。やり返さないのは、自分にその力がないから、力があったらやり返しているかも知れません。しかも、ただやり返すのではなく、2倍にも3倍にもしてやり返したくなるのです。神さまになど任せてはいられない気持になるのです。当事者になればなるほど、そうです。
 そういった私たちの根本的な気持が、集団的自衛権の問題にも現われているのではないでしょうか。仲間がやられたら、一緒になって反撃する。つまり、やり返しの論理が拡大しただけのことです。やり返さなければ守れない。確かに、そうかも知れません。けれども、その根底には、“やり返さずに平和に暮らす”ではなく、“やり返さなくては平和に暮らせない”という思いがあるのではないでしょうか。そうであるならば、私たちは、戦争や集団的自衛権の問題と取り組むと同時に、自分自身の心の中にある復讐の思いを見直す必要があると思います。
 復讐ではなく、「善」を返しなさい、と神さまは求めます。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節)と聖書は語ります。これは、悪を行う相手に対して、かえって善を返すことによって、“この人と比べて自分は何だ‥‥”と相手の良心が恥じ入るようになるということです。そんなに甘くはないと私たちは思います。けれども、それがキリストの生き方です。そして、キリストに赦され、愛されて、キリストに従い、キリストの愛に倣(なら)う者の生き方だとパウロは語りかけるのです。キリストは、そのように悪に対して善を返し、憎しみに対して愛を行いました。その先にあったのは十字架の死でした。それを知りながら、しかしその死の先に“復活”という何かがあることを信じて生きる。それが、キリストの生き方であり、キリストに愛されてキリストに従う私たちの歩みではないでしょうか。
自分には愛があるなどと、おこがましくて言えません。けれども、復讐はしない。せめてそこだけは守ろう。それがキリストの十字架に生かされた私たちの道、私たちの暮らしです。

 先日、子どもの頃、この教会に来ていた一人の青年が久しぶりに訪ねてくれました。今の職場を退職して自衛隊に入るのだそうです。このタイミングで?と、とかくの思いは私の中にもあります。けれども、彼は、東日本大震災の時に、国民を助けていた自衛隊の働きを見て、自分も人の役に立ちたいと思ったことがきっかけだったと話してくれました。その志は尊いものです。そして、その志が汚されることのない日本の政治、社会、そして私たち一人ひとりの心でありたいと思います。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。





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