2015年8月16日 礼拝説教〜悔い改めと赦し(8)〜
  聖  書  ローマの信徒への手紙3章21〜26節
  説教者  山岡 創

「キリストの十字架〜赦しと愛」

 礼拝において、私たちは〈悔い改めと赦し〉を行います。この悔い改めと赦しについて、聖書の御(み)言葉によって学び続けて来ました。悔い改めた私たちは、「あなたの罪は赦された」と主イエス・キリストから赦しの宣言をいただきます。この赦しの宣言に続いて、次の言葉が語られます。
主イエス・キリストの十字架と復活の御業(みわざ)によって、神は私たちを赦し、愛してくださいます。
 神は私たち人間を愛しておられる。人間の罪を赦してくださる。それが、聖書の語る福音(ふくいん)です。この福音は、“神はわたしを愛し、赦してくださる”と自覚するとき、信仰になります。
 けれども、神が人間を愛しておられると、どうして分かるか?人間の罪を赦してくださると、何によって分かるのか?神さまは目に見えないし、直接語りかけてくださるわけでもなし。昨今の自然災害等を考えると、むしろ神は人間を愛していないのではないか、赦さないのではないかと思われるかも知れません。けれども、一つだけ、神さまが私たち人を愛し、赦される恵みの確かなしるしがあります。それが十字架です。主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、死なれたという出来事です。だから、赦しの宣言の中で、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、神は私たちを赦し、愛してくださいます、と皆さんに語りかけるのです。

 けれども、今回、この赦しの言葉について考えてみて、ちょっと語弊(ごへい)があるかも知れないと思いました。と言うのは、キリストの十字架によって、神は私たちを赦し、愛してくださる、ということは、逆に言えば、もしキリストの十字架がなかったら、神は私たちを赦さず、愛さないということになるのでしょうか?そうではありません。けれども、この言い方ですと、そのように受け取られてもおかしくないと感じました。
 キリストの十字架とは何でしょうか?神さまがお取りになった、私たち人間の罪の解決手段です。それによって、罪の赦しが究極的に実現しました。
けれども、それによって神の愛が実現したわけではありません。十字架は確かに、神さまが私たちを愛しておられることを表わすしるしであり、一つの形です。けれども、十字架の出来事がなかったら、神さまは私たちを愛していないのかと言えば、そんなことはありません。神さまはそれ以前から、私たちを愛しておられます。天地創造の初めから、ご自分が心を込めて造ったものとして、人間を愛してられます。神の愛は初めから今まで、そして永遠に変わりません。
 先週11〜13日に、埼玉地区中学生KKS青年キャンプが、みなかみの日本バイブルホームで行われました。今年も、坂戸いずみ教会から20名を超える中学生、高校生、青年が参加しました。このキャンプでは、ルカによる福音書19章にある徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイの物語を学びました。物語の簡単な説明をした後で、ザアカイの気持や、イエス様の伝えたい思い、自分自身と重なるところ等を黙想して深めました。その上で、この物語を劇にして演じるワークショップを行いました。3つのグループに分かれて、中学生は初々しくストレートに、しかし心を入れ替える前と後のザアカイを別々の人が演じるという工夫を取り入れながら演じました。高校生は、現代版にアレンジし、とある高校で生徒を厳しく取り締まるため皆から嫌われていた風紀委員長が、臨時代用教員としてやって来た先生によって受け入れられ、心が変わるという設定で、リアルに演じました。青年は、2千年前のユダヤでありながら、そこに携帯電話ショップの店員をザアカイとして登場させるという設定で、ストーリーも、とても引き出しの多い、さすがの演技を見せてくれました。
 ザアカイの物語によっても分かること、それは主イエスを通して、神がザアカイを愛しているということです。周りの人々は、ザアカイは罪深い男だ、だから神に愛されないと言います。けれども、そうではないのです。罪深いザアカイを神さまは愛しているのです。だから、「ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と言われるのです。その愛を感じてザアカイは変わります。ザアカイが変わったから、罪を悔い改めたから、神さまは愛されたのではありません。神さまはザアカイを、そして私たち一人ひとりを無条件で愛しておられるのです。
そのような神の愛と罪の赦しとは別問題です。神は私たちを愛しておられます。でも、罪を犯せば、それを叱ります。お咎(とが)めになります。咎めることも、愛です。そして、悔い改めたら、赦してくださいます。神と私たち人間の関係は、すべて愛の中で行われます。
 親子関係にたとえて言うならば、親は我が子を愛しています。無条件に愛しています。けれども、我が子が何か悪いことをすれば、それを叱ります。咎めます。そうするのは我が子に、人としてまっすぐに、健やかに生きてほしいからです。叱ることも咎めることも我が子を愛する行為です。可愛がり、甘やかすだけが愛ではありません。そして、子どもが自分の悪さに気づき、反省すれば、赦し、喜びます。神さまと私たち人間の関係も、これと同じです。否、もっと根本的です。

 けれども、気づいて反省し、改めさえすれば済む罪もありますが、それでは済まないものがあります。相手に謝ることが必要な場合があります。弁償しなければならない場合もあります。自分ではできず、親が出て行って一緒に謝罪し、弁償しなければならないケースもあるでしょう。謝るタイミングを逸(いっ)してしまい、もはや関係を回復できない場合もありますし、弁償しようにも元に戻せない、償(つぐな)いたくても償えないケースもあるでしょう。中には非常に重いものもあります。精神的に背負い切れないものも出て来ます。そんな時、私たちはどうしたらよいのでしょうか?
 古来ユダヤ人は、罪を償う掟を定めて来ました。罪を犯したとき、必要があれば相手に賠償すると共に、神さまに対して罪の償いをするのです。それは、命を犠牲に献げるということです。罪とはそれほど重いものと考えていたのです。けれども、自分の命を犠牲に献げる場合もなくはありませんが、そうしたら、そこで人生は終わりです。そこで、自分の命の代わりに、動物の命を犠牲に献げました。本来、自分の命を犠牲として神さまに献げるところを、代わりの動物の命によって、自分の命を買い戻すという考え方です。この買い戻しのことを“贖(あがな)い”と言います。
 このように、自分の命を、他の代わりの命によって買い戻す贖いの究極が、主イエス・キリストの十字架だと新約聖書は言います。罪を犯すたびに、繰り返し何度も動物の犠牲を献げるのではなく、神の独り子であるイエス・キリストの命が、私たちの命の代わりに、十字架の上で献げられたことによって、私たちの罪の問題は、根本的に、究極的に解決されたとするのが聖書の語る福音です。
 この福音の恵みが、今日読んだ聖書の御言葉に表わされています。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」
(23〜25節)
 私たちが償えない罪を、キリストが償ってくださいます。私たちが負いきれない罪を、キリストが背負ってくださいます。人には赦されない罪を、キリストを通して、神が赦してくださいます。それが、キリストの十字架という行為です。
 そして、これが「神の義」と呼ばれるものです。今日の聖書箇所に、(神の)義という言葉が何度も出て来ました。義というのは、“正しい行為”という意味ですが、神の正しい行為とは何でしょうか?それは、人の罪を裁いて罰することではありません。
 ユダヤ人は旧約聖書の教えの中で、ずっとそのように考えて来ました。掟を守らず、罪を犯す者は、神に裁かれ罰される、と。それが神の義だと信じて来ました。だから、彼らは「律法」と呼ばれる掟を懸命に守りました。そして、掟を守れない者を神に裁かれ罰される罪人として差別しました。徴税人ザアカイなどは、まさに、そのような思想・信仰の下で差別された典型的な人物です。
 けれども、神の義とは、罪人を裁いて罰することではありませんでした。罪人を招いて赦すこと、それこそが神の義でした。しかも、「無償」です。無償ということは、何の条件も求めないということです。“これをしたから”“あれをしたから”赦すというのではなく、何もないのに赦される、ということです。私たちが何もしなくても、何もできなくても、代わりに主イエス・キリストが、ご自分の命を十字架の上で供え物として、私たちの罪を償い、私たちの命を買い戻してくださったからです。
 そんな虫の良い話があるのか!?と思われるかも知れません。‥‥‥あるのです。聖書は、そんな“虫の良い話”、つまり福音を示しています。「信じる者のために」とありましたが、信じさえすればよいのです。神さまは実に気前がいい。働きのない者に賃金を、償いの行いのない者に赦しを与えてくださるのです。その気前の良さを信じるだけでいい。
 ただし、その気前の良さの裏側にある神さまの愛と痛みの大きさに気づかなかったら、私たちは大馬鹿者です。「信じる者」だなんて、とてもおこがましくていえません。我が子を犠牲にして痛みを感じない、苦しまない人がどこにいるでしょうか。我が子を惜しまない人がどこにいるでしょうか。それでも神は、ご自分の独り子イエス・キリストを犠牲になさったのです。私たちのために、です。十字架には、神の愛による赦しと、その裏側にある神の愛の痛みが表わされています。この神の心、神の痛みを感じなかったら、私たちには神の愛も赦しも分かりません。
 この神の痛みが分かるということは、自分の罪が分かるということです。自分の罪が分かるということは、自分の命(人生)が分かるということです。自分が正しいから生きられるのではない。自分の力だけで生きているのではない。神の犠牲に支えられ、多くの人に支えられて生きている。それが自分の命だと分かるということです。そのことを、別の言い方で“生かされている”と言うのです。
主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、神は私たちを赦し、愛してくださいます。
この赦しの言葉を聞くたびに、私たちは、神に愛され、赦され、支えられている命、“生かされている命”であることを噛みしめていきたいと願います。




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