2015年9月27日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書14章22〜33節

  説教者  山岡 創

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


「 何を見据えて歩むか 」
 私は子どもの頃、お化けとか幽霊をとても恐れていました。“眠っている間にお化けが出たらどうしよう。幽霊が出たらどうしよう”。そのことを考えると、怖くて眠れません。そこで、私はお化けや幽霊から我が身を守るために、あることを実行しました。それは、ベッドの枕の周りに9匹のぬいぐるみを置くことでした。“もしお化けや幽霊が出ても、このぬいぐるみたちが、ぼくを守って戦ってくれる”。そう思うことにしました。教会育ちで、牧師の息子なのに幽霊を怖がっている。しかも、お祈りをして神さまに頼るならまだしも、ぬいぐるみを頼りにするとは‥‥‥しょうもないですね。でも、こういうのが大人になって牧師になれるのですからだいじょうぶ、どんな人でも信仰を持てます。
 ついでのことに、妻にも“何か幽霊のエピソードって、ある?”と聞いたら、あるあるとのこと。子どもの頃、少年探偵団という番組で〈ミイラは真夜中にやって来る〉というのを見てしまった。それ以来、毎晩2時前に目が覚める。ボーン、ボーンと柱時計の音が鳴ると、ダンッ、ダンッ、ダンッと何かが階段を上って来る音がする。それが怖くて怖くて仕方がない。そこで、聖書を枕の下に入れてみたり、パジャマが悪いのではないかとパジャマを変えてみたり、電気を付けたまま寝てみたり、弟のベッドに潜り込んだり、色々やったけれども効果がない。でも、それは隣りの部屋でお兄さんが夜中に壁を蹴っている音だった、ということです。

 イエス様の弟子たちも幽霊を恐れました。ガリラヤ湖の上で舟を漕(こ)いでいたら、幽霊が出たのです。弟子たちは、イエス様から先に行くように言われて、対岸のゲネサレトを目指して舟を出しました。けれども、逆風のため舟がなかなか進まず、夜通し漕いでも、まだ湖の上にいました。それを見たイエス様が、「夜が明けるころ‥‥湖の上を歩いて弟子たちのところに」(25節)来てくださったのです。
 ところが、弟子たちはその姿を見て、「幽霊だ」(26節)と言っておびえ、怖くて叫びました。イエス様が湖の上を歩いて、自分たちを助けに来てくれるなんて、だれも考えていなかったからです。
 想像してみると、確かに怖いですよね。真っ暗やみの中、波が上下左右に暴れている中を、何かわけの分からないものが自分たちに近づいて来るんですから、弟子たちが怖がり、幽霊だと誤解するのも不思議ではありません。
 弟子たちは逆風と波に悩まされ、心がいっぱいいっぱいになり、逆風と波のことしか考えられませんでした。心配事ばかりを考えていると、私たちは、他のものがちゃんと見えなくなってしまいます。イエス様を見ても、幽霊だと誤解してしまいます。すぐそばに救いがあっても、それが救いに見えなくなってしまうのです。
 そういう、いっぱいいっぱいになっている私たちの心の目を開くのは、イエス様の言葉です。聖書の言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)。この言葉を聞くとき、私たちは落ち着きを取り戻します。安心を取り戻します。イエス様が、神さまが一緒にいてくださることが、心の目に見えて来ます。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。イエス様の言葉に、弟子たちは落ち着きを取り戻しました。その弟子たちの中でペトロが願い出ます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)。すると、イエス様が「来なさい」(29節)と言われたので、ペトロは湖の上を歩き始めます。最初の1歩目は、舟の上から恐る恐る湖に足を出したことでしょう。足が湖の上に着く。歩けるぞ!そう手ごたえを感じて、ペトロはイエス様に向かって、イエス様を見つめて歩き始めたことでしょう。“イエス様のいるところへ!”そう思って、ペトロは一歩一歩進んだことでしょう。
 けれども、途中でふと風の音が聞こえ、強い風に気がつきます。そう言えば、自分は今、嵐の湖の上にいたんだ、大変なところにいたんだ、こんなところ歩けるわけがない!ペトロは、まっすぐに見つめていたイエス様から目を離しました。そのために、怖くなり、湖に沈みかけます。
 私たちが一人ひとり生きている人生は、強風と波の逆巻く湖のようなものです。私たちは、その強風と波に目を奪われ、怖がり、不安に陥(おちい)り、人生の波に飲まれそうになります。強風と波。それは、中学生、高校生、青年のみんなが、夏のキャンプのキャンプファイヤーの時に話してくれたようなことです。友だち関係に傷つき疲れたこと、親子関係につまずいたこと、進路に対する不安、人と比べての劣等感、自分はなぜ、何のために生きているのかという悩み‥‥そういう中で落ち込み、いらいらし、絶望し、死にたくなるようなこともあります。生きるということは、まさに逆風と波の湖を、歯をくいしばって進むようなものです。
 でも、あのキャンプの時、イエス様が見えたから、みんなは自分の悩みと不安を話し、また聞くことができたのではないでしょうか。もちろん、肉眼で見えたわけではない。けれども、ここにイエス様が一緒にいてくれる。そういうあたたかい、やさしい空気を心で感じて、心の目で見て、だから話し、聞き、涙することができたのではないでしょうか。
 私たちはペトロのように沈みかけます。あきらめと絶望の淵(ふち)に沈みかけます。でも、そのときこそ、見失いかけているイエス様を見つめて、もう一度「主よ、助けてください」(30節)と祈ることを思い出しましょう。イエス様が嵐の湖を歩けるのは、父なる神さまに祈っておられるからです。今日の聖書の最初に、イエス様が「祈るためにひとり山にお登りになった」(23節)と書かれていました。祈ることを通して、神さまをしっかりと見つめているのです。父なる神さまが共にいてくださることを確信しているのです。
 先週のサムエル・ナイトで、中学高校生、青年がワーク・キャンプを行いました。大人の方は今日おいでになって気づかれたことと思いますが、床をピカピカにワックスをかけました。庭もきれいに草むしりをしました。よくがんばってくれました。
 今回のサムエル・ナイトの中では、祈りをテーマにしました。みんな、祈れるようになってほしい。そう考え、〈祈りの冊子・子供版〉を用意しました。みんなに聞いたら、かなりの人が、自分で祈ったことがあると話してくれました。祈りがだんだん身について来ているのだなぁ、と嬉しく思いました。
 強風と波の湖の上で、神さまに祈る。そうしてイエス様を見つめる。神さまとイエス様が共にいてくださることを思い出す。その祈りと信仰によって、落ち着きと安心を取り戻して歩いて行きましょう。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。



   ウィンドウを閉じる