2015年10月11日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)1章3〜9節
  説教者  山岡 創

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。


「 チケットを手に入れる喜び 」

 私たちの教会が属している日本キリスト教団、この教団の埼玉地区には現在、61の教会があります。この61教会の中に、埼玉新生教会という教会があります。さいたま市にある教会で、新年合同礼拝や埼玉地区総会、その他、大きな集まりやイベント等があるとき、よく会場としてお世話になる教会です。
 ところで、この教会の名前に“新生”という言葉が付いています。これは、新約聖書の中でしばしば語られる“新しく生まれる”という内容からネーミングしたものに違いありません。教会を生み出した当初の牧師と信徒の方々が、教会の名前を考えるとき、自分たちの教会は、イエス・キリストにおいて新しく生まれるという信仰を大切にしよう、宣べ伝えていこう、と考えたのでしょう。

 今日読んだ聖書箇所にも、“新しく生まれる”ということが出て来ました。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ‥‥」(3節)。この御(み)言葉から、キリスト者とは、神の憐れみにより、新たに生まれた者だということができます。魂のニュー・タイプです。
 新しく生まれる、ということで思い起こすのは、主イエスとニコデモという人の対話です(ヨハネ福音書3章)。ニコデモは、ユダヤ人の議員であり、ユダヤ教ファリサイ派に属する教師でした。彼はある夜、主イエスのもとにやって来て、敬意を述べます。そのとき、主イエスがニコデモに語ったのが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということでした。こう言われたニコデモは唖然(あぜん)として、年をとった者がもう一度、母親の胎内から生まれることなんてできません、とトンチンカンなことを言います。主イエスは、そんなニコデモを、あなたはユダヤ人の信仰の教師でありながら、こんなことが分からないのかと、たしなめながら、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」とお教えになるのです。
 ここで主イエスが教えておられるように、新しく生まれるということは、もう一度母親の胎内から生まれる、という意味ではありません。私たち人間が、神の霊である聖霊の働きによって、内側から刷新され、造りかえられる、ということです。まるで生まれ変わったかのような魂の変化を味わうのです。

 では、私たちの内側が新しく造りかえられるとは、どういうことでしょうか?一言で言うなら、“神の愛と命”に触れるということです。「神の豊かな憐れみ」とありましたが、これが分かるようになる、ということです。
 韓国の牧師でイ・ミンソプという人が作った〈きみは愛されるため生まれた〉という讃美歌(ゴスペル)があります。
  きみは愛されるため生まれた。きみの生涯は愛で満ちている‥‥
 繰り返される、このフレーズを聞いて、長崎の少年たちが変えられました。親に捨てられ、問題行動を繰り返し、でも彼らは“自分たちはなぜ、何のために生まれたのか?”と泣きながら問いました。その少年たちが、教会でこの歌を聞いたとき、感動と喜びの涙を流しました。自分は愛されるために生まれたということを、理屈抜きに感じたからです。少年たちは神の愛に触れ、内側から変えられたのです。
 聖書の物語で言うなら、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイでしょう(ルカ19章)。私は、イ・ミンソプ牧師はザアカイの物語からこの歌を作ったのではないか、と思うぐらいです。軽蔑され、差別され、だれからも相手にされず、愛されていることを感じることができずに、徴税人として突っ張って来たザアカイ。そんなザアカイが、いちじく桑の木の上で主イエスにかけられたたった一言、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、その一言で彼は全く変えられてしまったのです。ザアカイは、主イエスを通して神の愛に触れたのです。魂が喜びに満ちあふれたのです。その変わりようは、自分が生涯かけて貯めて来た財産をすべて、貧しい人に施(ほどこ)し、だまし取った人に返すと宣言したほどです。理屈ではありません。理屈ではない実感、体験ことを、聖書は聖霊(せいれい)の働きと言うのです。聖霊の働きによって、ザアカイも長崎の少年たちも、そして私たちも、神の愛に、神の豊かな憐れみに触れるのです。
 もう一つ、私たちが新たに生まれるということは、私たちが“神の命”に触れるということです。それは、復活を信じるということです。今日の御言葉に、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)とありました。私たちの地上の命はいつかやがて死を迎えます。愛する者を失い、自分自身も死に至ります。それを人の終わり、命の滅びと思い、恐れと不安を抱く人が少なくありません。けれども、神はイエス・キリストを復活させてくださいました。ペトロをはじめ弟子たちに、復活したイエス・キリストを会わせてくださいました。だから、弟子たちは命の「希望」を抱くようになりました。地上の命の終わりは滅びではない。新しい命の始まりだ、「天に蓄えられている‥‥財産を受け継ぐ」(4節)ための命、永遠の命の始まりだと信じて、希望を抱くようになったのです。先ほど主イエスとニコデモの話をしましたが、復活し、永遠の命をいただき、天の財産を受け継ぐということは、すなわち天にある「神の国に入る」ということです。
 このように、地上で神さまに愛されていること(神の豊かな憐れみ)を知り、やがて将来、天国に入れていただく希望を抱いて、喜んで生きている。それが、新しく生まれるということです。

 ところで、新しく生まれた者は、“二つの救い”を味わいます。一つは、5節に書かれている「終わりの時に現わされるように準備されている救い」であり、もう一つは9節に書かれている「魂の救い」です。言わば、“将来の救い”と“今現在の救い”と言って良いでしょう。そして、今現在の救いは、将来の救いをいただくための“約束手形”のようなものです。
 将来の救い、終わりの時に準備されている救いというのは、救われるということの完成です。神の救いを100%味わうということです。聖書の御言葉で言えば、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」、「神の国に入る」ということです。天の財産とは一体どんなものなのでしょうか?
 新約聖書の福音書(ふくいんしょ)において、主イエスは、天の国をしばしば“宴会”にたとえています。盛大なパーティー会場です。そこに、人々が招待されるたとえ話です。パーティーに招待されたら、私たちは、その日を楽しみに待つことでしょう。
 夏休みの終わりに、我が家の子どもたちは、乃木坂46という美少女グループのライブ・コンサートに行って来ました。チケットが奇跡的に手に入りまして、その日まで、下調べをし、会場で使うアイテムを揃え、それ以外の出費はなるべく節約し、それはそれはコンサートの日を楽しみに待っていました。まさに魂の救いを受けた人のように、「喜びに満ちあふれて」(8節)いました。そして、コンサート当日、会場で売られているTシャツやグッズを買って、それはそれは嬉しそうに帰って来て、色々と楽しそうに話してくれました。
 私たちにとって、終わりの時の救い、天の国とは、そのような、否それ以上の喜びであり、楽しみであるはずです。これは私の勝手な想像ですが、もし天国が巨大なパーティー会場であるとしたら、そこでは数え切れないほどのコンサートやイベントが開催されていると思うのです。もし地上の命を終えた人が皆、天国に集まるのだとしたら、そこには、地上の歴史に現れた多くのミュージシャンや、アーティストや、俳優や、スポーツ選手や、色々な人たちが様々なイベントを開催していて、それを自由に見ること、聞くことができる。そんなふうに考えるのは、いささか想像が飛躍しすぎでしょうか。
 しかし、少なくとも私たちは、信仰によって、天国に愛する家族や親しい人との再会を夢見ています。再会の希望を信じて、今、慰めを与えられています。終わりの時の救い、天の国とは、希望の国であり、今、喜びにあふれて待ち望むに足るものです。
 そして、希望と喜びがあるとき、待ち望むものがあるとき、人は苦しみに耐えることができます。神を信じて生きる生活は、決して神の“ご利益”に満ちあふれたものではありません。私たちのキリスト教信仰は、ご利益を信じる信仰ではありません。むしろ、神を信じるがゆえに、人生の良いものも悪いものも受け入れる信仰です。そして、神さまのご計画のうちに私たちの人生があるならば、悪いものも決して悪いだけ、不都合なだけでは終わらない。その苦しみ、悲しみを通して、私たちは、人生の深さを学び、隣人へのやさしさを学び、人格が磨かれると共に、信仰もまた磨かれ、精錬されて、確かなものになっていくのです。

 今、私たちは神さまから「信仰」を与えられています。「信仰の実りとして魂の救い」を受けています。「神の豊かな憐れみ」により愛されていることを喜び、終わりの時の希望、天の国を喜び待ち望んで生きています。単純に言えば、“聖書と出会い、教会と出会い、イエス・キリストと出会い、神さまを信じていて良かった、嬉しい”という思いです。その魂の救いこそ、天の国への入場を約束するチケットです。もちろん当日券もありますが、それでは当日まで喜びを味わうことはできません。信じて天国のチケットを手に入れ、喜び、感謝し、安心して生きる。その魂の救いこそ、私たちの信仰の道です。





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