2015年10月18日 信徒証し礼拝説教
  聖 書   使徒言行録11章19〜26節
  説教者  山岡 創

11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。


「 恵みを語りかける 」
 今日は〈信徒証し礼拝〉ということで、N.Yさんにご自分の信仰の証しをしていただきました。信徒が、聖書と教会を通して神さまからいただいた救いの恵みを語ることを“証し”と言います。自分の魂が救われたことを証言するのです。
 ところで、今日の説教題を〈恵みを語りかける〉としました。もちろん、それでも良いのですが、今日の聖書の御(み)言葉を改めて考えながら、〈私たちはプロデューサー〉という題にすればよかった、と思いました。ずいぶん話の内容が変わるなぁ、と思われるかも知れませんが、実はそうでもないのです。と言うのは、私たちが主イエスの救いを証しするということは、福音(ふくいん)の伝道をプロデュースするということだからです。言わば、私たちは“主イエスのプロデューサー”なのです。

 さて、今日の聖書の20節に、「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。キプロスという地名は今も残っています。地中海に浮かぶ島です。
 彼らは、エルサレムではなく海外在住のユダヤ人たちでした。エルサレムに巡礼に行き、その時、ペトロたちから「主イエスについての福音」を聞いたのでしょう。それを聞いて、信じて主イエスに立ち帰ったのです。エルサレムで主イエスを信じる人が3千人、5千人と増えていきました。
 ところが、「ステファノの事件」(19節)が起こります。主イエスを信じないユダヤ人たちが、主イエスを信じるユダヤ人たちをねたみ、迫害し、その大半をエルサレムから追い出したのです。
 けれども、彼らは、迫害され、散らされた先で、「主イエスについての福音」を、そこに住むユダヤ人たちに語り伝えました。主イエスこそ、待ち望んでいた救世主だ、と。
 最初はユダヤ人にだけでした。けれども、しばらくしてキプロス島やキレネ出身のユダヤ人たちが、アンティオキアで「ギリシア語を話す人々」に、つまりギリシア人やローマ人といった異邦人にも語りかけるようになりました。すると、多くの異邦人が主イエスを信じるようになりました。「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」(21節)という出来事が起こったのです。

 彼らはなぜ、最初は異邦人に語りかけなかったのでしょう?単純に、ユダヤ人は同胞だから話しやすいという理由だったかも知れません。けれども、裏を返せば、異邦人には話しても伝わらない、信じない、という思いがあったのではないでしょうか。
 私たちもともすれば、家族や友人知人に対して、“あの人に話しても、どうせ信じない”という思いを抱くことがあります。そう思って、伝えることを躊躇(ちゅうちょ)し、消極的になり、あきらめがちになるのです。確かに、簡単ではないかも知れない。けれども、では私たちは祈っているでしょうか?伝えられるように、伝わるようにと、主イエスに祈っているでしょうか?伝道とは、この祈りから始まるのです。なぜなら、伝道は自分一人でするものではなく、主イエスとの“共同作業”だからです。だからこそ、“イエス様、助けてください。共に働いてください”と、まず祈ることから始める必要があります。
 今日の御言葉にも「主がこの人々を助けられたので‥」とありました。私たちは、伝道のために努力し、工夫します。けれども、私たちの知恵と力だけでは伝わりません。主イエスご自身が働き、助けてくださる時、主イエスの救いの恵みは信じられます。それはそうでしょう。本人に働いて、話してもらうのが一番いいに決まっています。
 そのように考えていたら、最初にお話したプロデュースのことがひらめきました。そうか、ぼくらはイエス様に働いてもらうための舞台を用意し、整えればよいのだ。自分が主役で、伝道のパフォーマンスをするのではなく、ぼくらはイエス様のプロデューサー、“伝道のプロデューサー”になれば良いのだ、そう思いました。
 俗(ぞく)っぽい話になりますが、芸能人に人気が出るかどうかはプロデュース次第だと言っても過言ではありません。年配の方々も割とご存知かと思いますが、AKB48とモーニング娘というアイドル・グループがあります。最近ちょっとモーニング娘の勢い、人気共に下降線です。片やAKB48は、勢いが衰えず、人気のトップを走っています。何が違うのでしょう?色々な要素があるとは思いますが、インターネット上で、ある人が、それはプロデュースの差だと言っていました。確かに、秋元康さんはプロデュースがうまい。例えば、シングルCDに人気投票の券を付けて、その人気投票数によって、AKB48のメンバーの舞台上でのポジションを決めたりする。人気のある人ほど前の列になる。一番人気の人はセンター・ポジションです。そうすれば、ファンは自分たちが大きく関わっている気持になりますし、CDも売れるというわけです。我が家が大ファンの乃木坂46というアイドル・グループも、やはり秋元康さんのプロデュースの力が非常に大きく影響しています。
 伝道ということに関して言えば、私たちは、イエス様のプロデューサーです。イエス様がベストパフォーマンスを発揮できるように、そうしてイエス様に人気が出るようにプロデュースするのです。

 では、どのようにプロデュースするか?色々なことが考えられます。先ほどお話した、伝道のために祈るということもプロデュースの一つでしょう。祈りによって、私たちという舞台上で、イエス様が働きやすくなるのです。
 16日の金曜日、東松山教会で近隣8教会による最寄り婦人会があり、私もうちの教会の二人の婦人と一緒に出席しました。その会で、東松山教会の野村牧師から〈真の弟子の姿〉というタイトルでお話を伺いました。そのお話の最後に、野村先生は、私たちが教会から帰るとき、嬉しそうに、楽しそうに、笑顔で帰ると、その様子を見た家族や周りの人が、“どうしてあの人はいつもニコニコしているのだろう?教会ってどんなところなのだろう?”と関心を持ち、やがて教会に来てくれるようになるかも知れない、と言われました。それはそうでしょう。教会から出て来る人が皆、仏頂面(ぶっちょうずら)や暗い顔をしていたら、それを見て、だれも教会に行きたいとは思わないでしょう。なんだか楽しそう、嬉しそうにニコニコしている。それを見て、教会に行ったら、自分もあんなふうになれるのだろうかと思うわけです。その時、私たちがプロデュースした舞台の上で、“私”という舞台の上で、イエス様が最高のパフォーマンスをして、働いてくださっているのです。もちろん、作り笑いではだめです。イエス様の恵みと出会い、お互いの親しい交わりによって、心から笑える信仰の笑顔です。もちろん、苦しみや悲しみを抱えて、ニコニコなんてしていられない時もあります。けれども、信じるもののない不安な顔と、信じて依り頼むもののある顔は、きっと違うはずです。
 私たちは、イエス様のプロデューサー、伝道のプロデューサーです。舞台の上の仕事はイエス様にお任せしましょう。それを見た人が、聞いた人が、イエス様のファンになるかどうかはイエス様にお任せしましょう。人気の責任まで、自分のせいだと私たちが負わなくてよいのです。私たちは、ただプロデューサーとして、イエス様が活躍するために自分という舞台を整えていく。それが、「キリスト者」(26節)の生き方です。




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