2015年10月25日 大人と子供の礼拝説教
  聖 書   マタイによる福音書13章44〜46節
  説教者  山岡 創

13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。


「 全財産をかけた買い物 」

 北坂戸駅を降りて、線路沿いに教会に向かって歩いていると、ちょっと変わった形をした赤い屋根の家が見えて来ます。1980年代、私たちの教会がまだ正式に教会になる前に、その家を借りて伝道活動をしていました。当時、集まっていた子どもたちと一緒に、その庭の隅にタイム・カプセルを埋めました。やがて子どもたちは中学生、高校生となるにつれ、教会に来なくなりました。教会の場所も、その家から移転しました。あのタイム・カプセルはどうなったのだろう?あの頃来ていた子どもたちは、どんなことを書いたのだろう?掘り出して、見てみたいなぁ、と思います。ある意味で、埋めてある“宝物”のようなものです。
 「畑に宝が隠されている」(44節)。2千年前のイエス様の時代、ユダヤでは、そういうことがよくありました。埋めてある宝物です。当時、戦争がしばしば起こりました。大きくて、強い国に攻め込まれて、ユダヤはたいてい負けていました。人々は、自分の命を守ろうとして、何も持たずに逃げます。しかし、その時、人々はお金や宝石等を壺に入れて、畑に埋め、隠して逃げました。戦争が終わって、後で帰って来た時に、掘り出そうと思っていたのです。ところが、なかなか帰れない人もいました。死んでしまう人もいました。宝は、だれにも知られず埋められたままです。やがて畑を耕すだれかがたまたま、掘り当てます。たぶん雇われた農夫です。見つけた宝は、その畑を買って自分のものにすれば、隠されていた宝も自分のものになります。だから、「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(44節)ということが、現実に、少なからずあったのです。
 私も、高麗川(こまがわ)の向こう側で畑を借りて家庭菜園をしています。もしその畑から千両箱が出てきたら、どうしましょう?持ち物、何を売ってお金を作り、その畑を買いましょうか?我が家の財産ではとても足りないので、もし見つけたら、皆さんにも1口乗って、と相談しますね。‥‥‥なんて冗談ですが、借りている土地から宝物が見つかったら、私たちは、そんな気持になるのかも知れません。(でも、正直がいちばんですね)

 イエス様のこのお話は、「天の国」のたとえ話です。神さまの国のお話です。神さまが治めている天の国は、宝のように、真珠のように、とても価値あるものだとイエス様は言います。それは、「天の国」を見つけた人が、持ち物をすっかり売り払ってでも、買って自分のものにしたいと思うほど、価値あるものだと言うのです。
 持ち物をすっかり売り払うということから、私は、聖書の中の2つのお話を思い起こします。一つは、〈金持ちの議員〉というお話です(ルカ18章)。この人は、永遠の命を探していました。そのために、熱心に神の掟(律法)を守ってきましたが、神の掟の中に、永遠の命を探し当てることができませんでした。そこで、イエス様なら永遠の命の在りかを知っているだろうと思って、イエス様に尋ねたのです。イエス様は、神の掟の中にあるはずだと答えました。けれども、議員は、見つからなかったと反論します。そこでイエス様は教えます。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。‥‥‥それから、わたしに従いなさい」(ルカ18章22節)。それを聞くと、この人は悲しみながら去って行きました。お金持ちだったからです。彼は熱心に永遠の命を探し求めて来ましたが、彼にとって財産の方が、大切な、価値あるものだったのでしょう。彼は、持ち物をすべて売り払うことができませんでした。でも、私(たち)もこの人と同じかも知れません。
 もう一つ思い出すのは、〈徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイ〉の話です(ルカ19章)。子どもも大人もよく知っているお話でしょう。税金集めという仕事柄、みんなから嫌われていたザアカイは、噂のイエス様が町にやって来ると聞いて、見物に出かけます。けれども、見物人がいっぱいで嫌われ者のザアカイをだれも前には行かせてくれません。そこで彼は先回りして、いちじく桑の木に登ります。そんなザアカイをイエス様は見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19章5節)と声をかけたのです。ザアカイは喜んでイエス様を家に迎えました。そして、夕食の席でイエス様に自分の気持を言い表します。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。また、だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)。このザアカイの宣言、実質的には財産をすべて売り払い、施すと言っているようなものです。ザアカイはこの後、きっと持ち物のすべてを売り払い、貧しい人々に施し、返したことでしょう。ザアカイは、財産よりも大切な、価値あるものを見つけたのです。でも、私たちも、こんなふうに気持よくできる時があるかも知れません。

 金持ちの議員は、探し求めていた真珠のように価値あるものを見つけることができませんでした。一方、ザアカイは、隠されていた宝を見つけました。二人は何が違うのでしょう?ザアカイは何を見つけたのでしょう?
 ザアカイが見つけたものは“愛”だったと思います。周りの人々から、好かれず、認められず、愛されずに、さびしく、でも強がって生きて来たザアカイが、愛という宝物を見つけたのです。自分はイエス様に愛されている。イエス様を通して神さまに愛されている。自分は愛されるために生まれた。自分は愛されて生きている。この喜びに気づいたのです。
 もちろん、ザアカイは、お金で愛を買ったわけではありません。持ち物をすべて売り払って、イエス様の愛を買ったわけではありません。愛はお金では買えません。イエス様に、ただで与えられたのです。でも、その愛と喜びはお金では買えない、財産なんかよりもはるかに価値あるものだと知って、ザアカイは持ち物をすべて売り払ったのです。
 新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)13章には、“愛”が最高の宝物であることが謳(うた)われています。価値あるものとして永遠に残り続けるものは、信仰と希望と愛の3つ、その中で「最も大いなるものは、愛である」(13章13節)と書かれています。
 愛は最高の宝物、そして「天の国」とは“愛の国”なのでしょう。愛という宝物がザクザク埋まっているところなのでしょう。愛は太陽の光のように、あたたかく、やさしく、私たちを包むものです。でも、案外普段は、その価値に気づかないものかも知れません。太陽の光は毎日、私たちに届けられているので、私たちはその価値に気づきません。それと同じように、家族から、友だちから、周りの人から、当たり前のように愛されている時は、私たちはその大きな価値に気付かないのです。失って初めて、その大きさに気づく。持っていない時にこそ、愛されている喜びの大きさが分かるのです。
 しかも、愛という宝物は、実際の宝や真珠を、持ち物を売り払って買うようには、お金では買えません。今日のお話は、持ち物を売り払い、お金で宝や真珠を買う話ですが、そのたとえは、お金ではなく自分の何をかけて、愛という宝物を手に入れますか?と私たちに問いかけているのです。それは、お金ではなく、自分の人生そのもの、命そのものを誠実(せいじつ)にかけて、手に入れるものでしょう。
 いや、私たちが命をかける前に、既に愛のために命をかけてくださった方がおられます。イエス様です。イエス様は、私たちのために、私たちに神さまの愛を伝えるために、十字架の上で命をかけてくださいました。私たちが、神さまに命がけで愛されていることを教えてくださいました。その愛を、畑に隠されている宝を見つけるように、たまたま見つけることもあります。真珠を探す商人のように、探し求めて見つける人もいます。いずれにしても、自分の命の中に、自分の人生の中で見つけるものです。
 見つけた人は喜んで、愛を抱きしめて生きるでしょう。そして、大切に抱きしめている愛をだれかに分け与えるでしょう。分け合うことによって、愛が減るのではなく増えていく喜びを知ることでしょう。そのために、私たちは自分の人生を、自分の命を、愛にかけるのです。





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