2015年11月1日 永眠者記念礼拝説教
  聖 書   フィリピの信徒への手紙3章17〜21節
  説教者  山岡 創

3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。


「 わたしたちの本国 」

本日は〈永眠者記念礼拝〉の日を迎えました。日本の暦でお彼岸やお盆のように、亡くなった方を供養する日があるように、キリスト教の暦では、お手元の永眠者名簿にも書きましたように11月の最初の日曜日を、〈聖徒の日〉と定めています。この日に、教会では、天に召された方々を記念し、偲(しの)ぶ時を持ちます。坂戸いずみ教会では例年、午前の永眠者記念礼拝と、午後は地産霊園(越生町)の教会墓地で墓前礼拝を行います。
 昨年のこの日から、二人の教会員を天に送りました。1月にはE.Mさんが89歳で、7月にはA.Sさんが91歳で天に召されました。
 E.Mさんは、牧師の妻として埼玉県の秩父教会、千葉県の大網伝道所に仕え、牧師である夫を亡くされてから、11年余り前に、ご長男の近くの坂戸市に引っ越しておいでになりました。日曜日の礼拝に、木曜日の祈り会に熱心に通われましたが、3年目に病を得て、長期入院療養を余儀なくされました。病院にお訪ねすると、いつもニコニコと迎えてくださり、“私のような者のためにお祈りくださり感謝です。教会の皆さんによろしくお伝えください”とおっしゃっていました。
A.Sさんは、国分寺教会、また埼玉県の上尾合同教会、北本教会で信仰生活をなさり、1992年にこの教会が設立された際に移って来られました。草創のメンバーとして長らく役員を務めてくださり、中心となって教会を支えてくださいました。パソコンが得意で、教会の記録や記念誌、会報などを精力的に作ってくださいました。また、とても研究熱心で、聖書について自ら何冊も著書を出されました。その中の『ローマ聖談』という著書は、国立図書館に収められています。
 すべての方の思い出を語ることは、時間的にとてもできません。お許しください。
 私たち、聖書によって示される神を信じる者は、この永眠者名簿に記された方々が、天国に召されて行ったと信じています。地上でその命を召された人々は、天国に迎え入れられると信じています。
 キリスト教信仰を持っていなかった人もそうなのか?他宗教の信仰を持っていた人はどうなのか?別々のところに行かないのか?‥‥‥様々な思いや疑問が湧いて来ます。もちろん理屈ではありません。ただ、イエス・キリストが父と呼ぶ神は少なくとも、天国に入りたいと願う人々を拒絶するような、ケチな神さまではないと信じているのです。頭で、理屈で考えるとゴチャゴチャしますが、そこは神さまに任せて、ともかく死んだらそれで終わりではない、死後のことははっきりとは分からないけれど、神さまが私たち一人ひとりに最善に取り計らってくださる。そのように信じて、慰めと希望を抱いて生きているのが、キリスト教信仰を持っている人間の生き方です。

 さて、すべての人間が迎え入れていただくことができる天国ですが、聖書はその場所こそ、私たちの「本国」だと言います。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(20節)。
 一般的に考えて、私たちの本国はこの日本です。日本の国に国籍を持っています。すべての人が基本的に、地上のどこかの国に属し、その国の国籍を持っています。
 けれども、私たちの“魂の本国”はどこか?霊の故郷はどこか?という話です。
 人間は、神によって造られた存在だと聖書は語ります。天地は神の手で造られ、その中で人間も神さまによって造られた。土の塵(ちり)で体を造られ、その鼻に命の息を吹き入れられて、人は生きる者となった。この命の息を、聖書は霊とも言います。この霊が、一人ひとりの人格と結びつくと、魂と呼ぶのでしょう。
 私たち人間の体は、やがて土の塵に帰ります。けれども、霊は、魂はこの世のものではありません。与えられたものです。神さまのものです。やがては神さまのもとに召し返されます。神さまのもとに帰るのです。元々の場所に帰るのです。だから、「わたしたちの本国は天にあります」と言われるのです。
 キリスト教信仰を持っているクリスチャンであっても、天国というのは、感覚的にはどちらかと言えば、帰る場所と言うよりは、行く場所。初めて行く未知の世界という意識だろうと思われます。ところが、聖書的には反対なのです。私たちはむしろ、天国から地上の世界に行ったのです。来たのです。言わば、天国からこの地上のどこかの国に“留学”に来ているのです。言わば、他国で“仮住まい”をしているのです。地上で、人として、大切な何かを学び、そして本国である天に戻るのです。
地上での生活が、どんなに苦しくても、大変でも、戻れる場所、帰れる場所があるというのは、私たちに安心を与えます。希望を与えます。そして、帰った先で、また愛する家族と再会できる、親しい友人と再会できるという信仰は、私たちに慰めを与えます。私たちは、亡くなった人を偲(しの)ぶ時、また、やがて迎える自分の死を思う時、信仰を抱いているならば、この安心と希望と慰めを与えられるのです。

 「わたしたちの本国は天にあります」。この御(み)言葉から、私たちにもう一つ示されていることがあると思います。それは、“帰る時”のことと並んで、“今、地上に来ている時”のことです。天に国籍を持ち、天を本国とする者として、地上でどのように生きるか、ということが問われていると思います。
 “郷に入っては郷に従え”という諺(ことわざ)がありますが、この世ではこの世の生き方があります。それはそれでよいのです。けれども、悪い意味でこの世に染まらないように、溺(おぼ)れないように、という語りかけが、この御言葉には込められていると思います。天を本国とする者としての意識、誇りを持って生きてほしいということです。それはどういう意味でしょうか?
 「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(18節)と書かれています。イエス・キリストは、弟子のために、敵のために、すべての人のために、罪を背負い、身代わりとなって十字架にかかり、神の赦しを祈り願って死なれました。だから、キリストの十字架とは、一言で言うなら、すべての人を愛する“愛”のシンボルです。そう考えれば、「十字架に敵対している」とは、愛に敵対しているということになります。人を思いやり、人を愛することを考えず、「腹を神と」(19節)する、つまり自分の欲につき従い、この世のことで自分の利害、損得しか考えていないということです。そういう生き方に、私たちは染まり、溺れてはならないのです。
 「本国」というキーワード、また“愛”という言葉から、私が思ったことは、現代のシリア難民の問題です。アメリカやヨーロッパ諸国が、アラブの国々の政治問題に介入するようになって、多くのアラブ諸国では、独裁政権を倒し、民衆化を求める“アラブの春”と呼ばれる革命が2010年頃から起こっています。けれども、結果的には新しい独裁政権が生まれるか、無政府状態になることが多いようです。その結果、シリアとイラクにまたがって、イスラム国のようなテロ活動が起こり、400万人とも500万人とも言われるシリア難民を生み出しました。彼らは本国を捨て、隣国のキャンプに移り住むか、ヨーロッパ諸国を目指すことが多いようです。そして、そこに“愛”が問われる問題が起こっています。
 シリアを脱出し、難民となる人々が、その途中で、無理な移動方法のために亡くなるという悲惨な報道をしばしば耳にしますが、9月の初めに、トルコの海岸で、うつ伏せになって溺死していた3歳の男の子の写真は、世界に衝撃を呼びました。4人家族がボートに乗って、トルコを目指していたけれども、ボートが転覆し、父親以外の妻と子ども3人が亡くなりました。その一人が、トルコの海岸に打ち上げられた3歳の男の子でした。それまで、難民の受け入れを渋っていたヨーロッパ諸国の多くが、その映像と報道を見て、国民の意識も高まり、難民受け入れの枠を拡大し始めました。その事件によって、彼らは、シリア難民に対して、愛を問われ、呼びさまされたのです。
 政治的な問題や諸事情があるでしょうから一概には言えませんが、それまで自分の国の、自分たちの利害、損得を考えていた人々が、シリアの人々のことを考え始めたのです。言わば、キリストの十字架に倣(なら)って、愛に生き始めたのです。天を本国とする人間として、ハッと目を開かれたのです。

 何週間か前に、子どもの礼拝で、“天国って、どこにあるんだろう?”というお話をしました。昔の人々は、天は空の上にあると信じていましたが、現代人である私たちは、天がどこにあるのか分からなくなっています。けれども、天国という信仰から連想することは、天国とは天にある神の国、それは“愛の国”だと考えることができるのではないか、ということです。私たちは、私たち一人ひとりを愛してくださる神の愛の国に迎え入れられるのです。
 けれども、人の“腹の国”“欲の国”とも言うべきこの世も、もし私たちが天の国、神の国に倣って、人間同士、互いに愛し合うならば、そこに小さくても、拙(きたな)くても、不完全でも“愛の国”は生まれるのではないか。そして、それは本国である天につながる芽生えとして、天を本国として慰めと希望に生きる者の、この世での生き方になると思うのです。
 愛の国を生み出す。それは、欧米諸国の人々にだけ問われ、求められていることではありません。日本というこの世の国に生きている私たちもまた、シリア難民や世界で苦しむ人々のことを思って、また日本国内で水害等の被害に労苦している人々との関係において、そして家族や、職場、学校、近所などで関わる身近な人との関係において、隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい、と求められていることでありましょう。
 天に召された方々は今、永遠の愛の中で生きています。私たちも今、この地上において、希望と慰めに、愛を加えて、天を目指して歩んでいきましょう。





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