2015年11月8日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)1章10〜16節
  説教者  山岡 創

1:10 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
◆聖なる生活をしよう
1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。


「 待ち望む生活 」

私たちの信仰生活は、“待ち望む生活”であると言うことができます。何を待ち望むのかと言えば、13節に書かれているように、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」を待ち望むのです。「イエス・キリストが現れるとき」というのは、過去の時、2千年前の時を言っているのではありません。それは、将来の時です。5節に記されている「終わりの時」と呼ばれる将来の時です。そのときに、イエス・キリストが再び現れる。そのキリストから与えられる恵みを私たちは待ち望んでいるのです。
そして、待ち望む生活というのは、その時が来るのを意識して、一種の緊張感を持ちながら過ごす生活です。何も意識しないまま、その時が来たら、“あっ、来た来た”と言って迎えるような生活ではないのです。「恵み」を待ち望むのですから、そこには希望があります。楽しみがあります。そして、それを待ち望むという意識は、「イエス・キリストが現れるとき」に備えるという張りのある生活を生み出します。例えば、女性がお腹に赤ちゃんを宿したとします。すると、その女性は赤ちゃんが生まれ出る時を待ち望み、希望を抱き、健康管理をしたり、胎教(たいきょう)に良い音楽を聞いたり、お腹の中の赤ちゃんに話しかけたり、様々な準備をしながら過ごすでしょう。私たちの信仰生活もそのようなものなのです。待ち望む生活とは、備える生活であると言うことができます。
 私たちはだれかをお迎えするとき、迎えるための準備をします。今年の春休みに、北海道に住んでいる中学校を卒業した甥と小学校を卒業した姪が、我が家に遊びにやって来ました。つまり、我が家の子どもたちにとっては“いとこ”になります。我が家では、どこに遊びに連れて行ってあげようかと、みんなで考えました。せっかく北海道から出て来るのだから、やっぱりディズニーランドではないかというのが大方の意見でした。けれども、本人たちが行きたいところがあるかも知れないので、聞いてから決めようということになりました。その結果、遠慮したのかも知れませんが、お兄ちゃんの方はラウンド・ワンというゲーム・センターに、妹は動物が好きなので、高坂の子ども動物自然公園に行くことになり、男組と女組に分かれて、それぞれラウンド・ワンと動物公園に行きました。でも、その二日間は、久しぶりの出会いと楽しい時間になりました。
 そんなふうに、私たちは、だれかを迎える時には準備をします。ならば、イエス・キリストをお迎えする時のために、私たちはどんな備えをすればよいでしょうか?

 キリストを待ち望む生活とは、キリストを迎えるために備える生活です。そして、備える生活とは、「いつでも心を引き締め、身を慎(つつし)んで」(13節)生活すること、また15節以下の内容から言えば、「聖なる者」として生活するということです。
 いつでも心を引き締め、身を慎んで、聖なる生活をする。そう言われると、何だか聖人君子のような、道徳的な生活を想像するのではないでしょうか。何だか堅苦(かたくる)しそうなイメージを抱きます。ノン・クリスチャンの人たちの中には、そういうイメージを抱いている人が少なからずいるようです。いや、私たち自身、そんなイメージを抱き、“そんな生活、できないよ。続かないよ”とネガティブな気持になるかも知れません。けれども、心を引き締め、身を慎んでする聖なる生活とは、そういうものではないと思われます。単に、聖人君子のような、道徳的な生活をするのではないのです。
 備える生活、心を引き締め、身を慎んでする聖なる生活ということから、私は、聖書の中でイエス・キリストがなさった二つの譬(たと)え話を思い出します。その一つは、マタイによる福音書22章にある〈婚宴(こんえん)のたとえ〉です。天の国とはこういうものだ、という譬えですが、それは、ある王様が王子のために婚宴を催したようなものだ、と言うのです。途中の内容は省きますが、この譬えの最後に、王子の披露宴に招かれた人の中に「礼服」を着ていない人がいて、その人は披露宴の会場から追い出されるという結末になっています。
天国に人を迎えるのに、神さま、そんなケチな条件をつけなくたっていいじゃない、という気もします。けれども、その場にはその場にふさわしい服装がある、必要なふさわしさがあるということは、私たちも普段の生活の中で意識していることです。
人の結婚式に、ジーパンやジャージで出席する人はいません。また、学生が就職活動をする時には、会社の面接等には必ずスーツを着て行きます。普段の学校生活では、カジュアルな、あるいはラフな普段着でいるのに、就職活動になったら、当たり前のようにスーツを着る。それは、TPO(時、場所、場合)をわきまえるからです。面接には、それにふさわしい服装がある。それを着なければ、会社にいれてもらえなくなる、と考えるからです。そのように、天の国という披露宴会場に入れてもらうには、それにふさわしい服装という備えが必要だということです。
更に、もう一つ思い起こす譬え話は、同じくマタイによる福音書25章にある〈十人のおとめのたとえ〉です。やはり天の国の譬えで、しかもシチュエーションは、結婚披露宴なのですが、当時のユダヤの披露宴は夜に行われ、花嫁のもとにやって来る花婿を迎えるために、ともし火を掲げる役割を持った女性たちがいました。この話には10人のおとめが出て来ますが、花婿の到着が遅れたために、10人のうちの5人は油が切れてしまいます。そこで夜中に油を買いに行くのですが、その間に花婿がやって来て、遅れて帰って来た5人は会場に入れてもらえなかった、予備の油を準備していた他の5人だけが花婿を迎えることができた、という話です。
花婿が遅れるという不測の事態が起こったのだから、それを考えたら、ちょっと厳しいんじゃない?という気もします。けれども、花婿を迎えるには、すなわちイエス・キリストを迎えるには、そのための備えが必要だということです。
ともし火を消さないことが必要なのです。「“霊”の火を消してはいけません」とテサロニケの信徒への手紙(一)5章19節で言われています。私たちの内に燃える“霊”の火とは、信仰のことでありましょう。「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」を待ち望む信仰です。その信仰を捨てず、失わず、保ち続けるのです。
それは言い換えれば、信仰の「礼服」を着続けるということでもあります。ガラテヤの信徒への手紙3章27節には、「キリストを着る」という表現があります。それは、罪人であり、死すべき人間である私たちが、キリストの愛と赦(ゆる)しに覆(おお)われるということです。私たちは、天国に入れてもらうにはふさわしくない罪人なのだけれど、キリストが私たちの罪のために十字架に架かって犠牲となってくださったので、罪を赦されて、天国に入れてもらうことができる。だから、「終わりの時」まで、再びキリストと出会う時まで、キリストの愛と赦しという礼服を着続けるのです。それを着続けることで、「聖なる者」としていただくのです。キリストの愛と赦しによって救われ、天国という宴会場、パーティー会場に入れていただけると信じ続けるのです。

だから、キリストを待ち望む生活とは、キリストに備える生活であり、備える生活とはキリストを信じ続ける生活だということになります。何だ、意外に簡単なことじゃないかと思われるのではないでしょうか。確かに、思ったほど難しいことではないように思われます。けれども、思っているよりも簡単ではないような気もします。それは、「キリストが現れるとき」というものを、どのように捉えているか、に因(よ)ります。
「キリストが現れるとき」というのは、5節に記されているように「終わりの時」だとお話しました。当時のクリスチャンたちは、この世界が終わり、新たに天の国が始まる時だと信じました。イエス・キリストが天から再びやって来て、この世界を天の国に造りかえ、完成させる時だと信じていました。
けれども、その信仰の理解は、現代の私たちにとってリアリティーがありません。そのような世界の終わりは、この先の将来に起こるのかも知れませんが、少なくとも2千年間起こってはいないのです。それよりも「終わりの時」という意味で、私たちにとってリアルなのは、自分自身の“命の終わりの時”ではないでしょうか。死によって私たちは再び、霊であるキリストと出会う。そして、天国に迎え入れられる。そう考え、信じる方がリアルなのです。
人は何かを終わらせる時、終わり方を考えます。終わり方を大切にします。人生もそうではないでしょうか。自分の命には終わりがある。そう意識した時、その終わりの時のために、私たちは本気で備えるようになると思います。生き方を考え直すと思います。
カトリックの作家である曽野綾子さんが最近、『人間の分際』という本を出されました。その中で、老いと死について書かれている章が最後にあります。そこで、曽野綾子さんは、次のようなことを書いています。
死はむしろ生き方を教えてくれるものなのである。死ぬ予感がないから、人の心は彷徨(ほうこう)する(さまよう)。他人の境遇を羨(うらや)んだり、名誉や地位に執着(しゅうちゃく)したりする。昼日中から、芸能人の離婚話やスキャンダルを種に、ああでもない、こうでもない、と揣摩臆測(しまおくそく)するようなむだなテレビ番組を見ていられるのも、死を意識していないからである。‥‥
私たちは死を意識しているからこそ限りある時間の生を濃縮して生き尽くそうとするし、また死があるからこそ人間のできうることの限界を知り、今持っているもののはかなさをというものを知ることができるのです。‥‥
何歳で死のうと、人間は死の前に、二つのことを点検しているように思われてならない。一つは自分がどれだけ深く人を愛し愛されたかということ。もう一つは、どれだけおもしろい体験をできたか、である。‥‥
 自分がすばらしいことに出会ったという事実を、常に「心に留め」ておけば、死ぬ時も思い残しがない。つまり、死に易くなる。そして、自分の生涯に納得し、満ち足りて死ねるように準備するということは、この世で出世する以上の大事業なのである。‥‥
(『人間の分際』225〜228頁)
 断片的な引用ですが、曽野綾子さんの書かれていることを読むと、自分はまだまだ死を意識していないなぁ、死に備えていないなぁ、その意味で終わりの時のキリストとの再会を待ち望んでいないなぁ、と思わされます。まだまだ年齢が足りない、人生経験が足りないのでしょう。今はそういう自分であることを自覚していたいと思います。
 待ち望む生活は、備える生活です。終わりの時に備え、死に備え、キリストとの再会に備え、天に備える生活です。自分を省みて、信仰が生きているか、希望を抱いているか、愛をもって人と関わっているか、自分の生活を改めて見直し、備えていきましょう。





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