2015年11月22日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)1章22〜25節
  説教者  山岡 創

1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。


「 永遠に変わらないもの 」
 
次週11月29日の礼拝後、私たちは教会バザーを行います。3年ぶりのことです。その準備のために、多くの時間が費(つい)やされてきました。バザー委員のメンバーは、7月から月に1度、委員会を開き、バザーの実施方法を検討して来ました。11月に入ってから、動きが本格化しました。看板やポスターを掲げ、献品を集め、先週15日(日)午後には、泉町内へのチラシ配布や献品の整理、値付け作業、会場配置の確認などを行いました。今日も、この礼拝の後で、同様の活動を行います。皆さん、ご協力をお願いします。
 なぜ私たちはバザーを行うのでしょう?教会はバザーをしなくてもよいところです。教会とは、主キリストの父なる神さまを崇(あが)める礼拝を共にする集まりです。では、何のためにバザーを行うのか?その礼拝に人々を招き入れるためです。伝道のためです。バザー要綱の中にも、その趣旨として、“地域の方々に教会においでいただく伝道の機会とする”と記されています。
 もちろん、その場で聖書の話や信仰の話をして、直接伝道するわけではありません。ただバザーにおいでいただき、楽しんでいただくだけです。けれども、その際この会堂に入っていただくことが重要なのです。中には、キリスト教と教会に関心のある方、教会に入ってみたいと思っている方、救いを求めている方がおられるかも知れません。けれども、よく分からないし、宗教だから怖い気もする。よく言われるように“敷居が高い”のです。でも、バザーならば、気軽に入ってみようという人も出て来ます。
 一昨日、教会の掃除をしていたときに、仕事を退職したであろうと思われる年齢の男性の方が訪ねておいでになりました。先週の日曜日、ポストにバザーのチラシが入っていた。自分は学生の時にミッション・スクールに通っていたことがある。場所を見に来たと5分ほど話してお帰りになりました。ちょっと嬉しくなる出来事でした。
 一度教会にお入りになったら、次は礼拝に来てくださる方が現れるかも知れません。そんな祈りと期待を持って、私たちはバザーを行うのです。
 教会とは、伝道を目的とする集まりです。25節にあるように、「永遠に変わることのない」「主の言葉」を「福音(ふくいん)として告げ知ら」せるのです。それは、その主の言葉、「真理」(22節)によって、人を一人でも救いたいからです。

 永遠に変わることのない「主の言葉」は、23節では「朽ちない種」にたとえられています。時々お話しますが、私は高麗川(こまがわ)の向こうで、わずかばかりですが家庭菜園を営んでいます。「朽(く)ちる種」(23節)を蒔(ま)いて育て、朽ちる野菜を収穫します。でも、もちろん朽ちる野菜も体のために必要ですし、そして種を残してくれます。その種を取っておいて、来春に蒔くと、また芽が出て来ます。種は新しい命を生むのです。
 「あなたがたは」「朽ちない種から」「すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(23節)と言われています。神の言葉によって、新しい命になって生きていくのです。新たな生き方を始めるのです。
 「新たに生まれた」という言葉の背後には、教会の洗礼(せんれい)が考えられています。ヨハネによる福音書3章で、主イエスは、ニコデモという人を前にして、「人は、新たに生まれなければ」、すなわち「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。この、水と霊によって新たに生まれるということが、洗礼を表わしています。
 洗礼とは何でしょう?しばしば考えます。ある意味で、入会の手続きのようなものでもあります。教会という信仰の共同体、兄弟愛の共同体に正式に入会するための手続きです。すると、教会に会員としての籍ができます。教会を通して、天国に国籍を持つ者とされます。最近よくお話する、天国というパーティー会場のチケットを手に入れるということでもあります。救いの保証、安心と期待の保証なのです。
 また、もう一つ大切な意味があります。それは、自分は生涯、神を信じ、神の救いを信じて生きていくという決断のしるしだということです。今までの生き方から新しい生き方へと何かを飛び越える、向こう岸に渡るといった感覚でしょうか。
 そこで大切なことは、“受け入れる”という思いです。22節に「真理を受け入れる」とありました。決断とは、「真理を受け入れる」決断です。「真理」とは、先週お話した直前の箇所の18節以下の内容で言えば、私たちが「むなしい生活」から「キリストの尊い血」によって「贖(あがな)われる」、ということです。「金や銀のような朽ち果てるもの」に価値を置き、それを追い求めて自己本位な生き方をして来たむなしさに、主の言葉によって気づかされる。そのような罪の生活を、十字架に架けられたキリストの尊い血によって清められ、赦(ゆる)される。そして、神の心を尋ね求めながら、「兄弟愛」(22節)を宿して深く愛し合いながら生きる生き方へと方向転換させていただくことです。その救いの真理を自分の内に受け入れるのです。
 受け入れるというのは、理解することとは違います。自分の知恵で理解し、自分の力で達成するものではないのです。聖書の内容が、福音の真理がよく分かってから洗礼を受けようと考える方がおられます。その思いはよく分かりますし、それが間違いというわけではありません。けれども、身も蓋(ふた)もないようなことを言いますが、聖書の内容も、福音の真理も、一生かけてもよく分からないのではないでしょうか。たぶん、私たちが天国に行ってから分かることがたくさんあります。だから、後のことは神さまによろしくとお任せして、受け入れるのです。礼拝(れいはい)に参加し、説教を聞き、聖書を読み、祈って、何かしら“これだな”と感じる確信的なものが与えられたなら、後は決断するだけです。神さまがあなたを呼んでいます。自分で生きる人生から、神に生かされ、神にゆだねる人生を信じて受け入れる。キリストの尊い血、キリストの十字架によって救われるという福音は、私たちの命が生かされ生きているという真理を表わしています。それを承認して受け入れることが、すなわち洗礼の意味でありましょう。
 私たちは、真理を受け入れて、新たに生まれます。すると、私たちの内に、「信仰と希望」(21節)と共に、「偽りのない兄弟愛」(22節)が宿ります。22節で注意すべきことは、「兄弟愛を抱くようになった」と書かれている点です。今はないけれど、これから兄弟愛を身につけて行くというのではありません。あなたは、もう既に兄弟愛を抱いている、兄弟愛を持っている、という表現なのです。
 自分の内の、どこにそんな兄弟愛があるのだろうか?と考えてしまいます。何かにつけ“自分には愛がないなぁ”と感じずにはいられないことが少なからずあります。けれども、そんな私(たち)にも兄弟愛がある、と聖書は言うのです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの内に住んでおられるからです。
 真理を受け入れるとは、イエス・キリストを受け入れると言い換えてもよいことです。イエス・キリストが私たちの内に宿ったのです。聖霊(せいれい)となって私たちの心の内に住んでおられるのです。それはまた、兄弟愛が私たちの内に宿っている、住んでいると言ってよいことです。私たちは、自分の力とか人間性とか考えるから、自分には兄弟愛がないのではないかと思います。そうではなくて、愛そのものであるキリストが私たちの内に宿るのです。そのキリストに愛の力を発揮していただく。自分の力で、ではないのです。私たちは、自己中心という心の壁で、キリストの愛をふさがないようにするだけです。だから、「深く愛し合いなさい」(22節)と言われます。あなたがたは兄弟愛を持っている、キリストを心に宿している。それをふさがないように、殺さないように心掛けなさい。そのために、主の言葉を聞き、祈る信仰生活を続けるのです。

 私たちを新たに生まれさせる「主の言葉」は、永遠に変わることがありません。朽ちることがありません。
「人は皆、草のようだ。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(24〜25節)
 主の言葉が永遠に変わることがないと言われるのは、主なる神が永遠に変わらない方だからです。主であるイエス・キリストが変わらない方だからです。主による救いの真理が永遠に変わらないからです。主なる神は永遠に、私たちの救いを願い続けておられる。それを伝える言葉だから、「主の言葉は永遠に変わることがない」と言われるのです。
 私たちは、この世界で、朽ちるもの、枯れて散りゆくもの、変わっていくものに囲まれながら生きています。永遠なるものを探し当てた時、私たちは新たに生まれます。それを見つけるまでは、私たちは、充実しているようで、根本的には「むなしい生活」(18節)を営んでいるのではないでしょうか。
 昨日、家族の間で、自分たちの存在意義の話をしました。私たちは、自分が何か意味を感じる、あるいは人の役に立つような行動をしていないと、自分には存在意義がないかのように感じてしまう。そこに、虚(むな)しさという闇が入り込んで来ます。
 クリスチャンであり、東京大学の名誉教授であるカンサンジュン先生が、この虚しさという闇について語っておられます。『悪の力』という著書の中で、先生は、
 自分たちがどこに拠って立っているのかわからない。善悪を含めてしっかりとした基準や価値が欲しくても、それが非常に曖昧(あいまい)になっているので、何を信じていいのかわからない。それはとても苦しいことです。その空虚感の中で、生きる術(すべ)を見失っている人たちもまた増えているのだと思います。
 悪というものは、こうした善悪の基準が曖昧になった「何でもオーケー」の世界が大好きなのです。悪は空虚な存在にするりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのです。そして‥‥生きている実感をさらに奪っていき、そうして広がっていく虚無(きょむ)の中で、世界をぶち壊したい、人を傷つけたいという破壊衝動を育てていくのです。
(『悪の力』55頁)
 このようなむなしさの中で、名古屋の女子大生による殺人事件も、またイスラム国のテロ活動も起こっていると、先生は見ています。
 私たち人間は、草のように枯れ、花のように散っていきます。私たちの周りにあるもの、私たちが持っているものも‥‥財産も、地位も名誉も、美貌(びぼう)も健康も、家族や親友も、移り行き、失っていきます。最後には自分の命を失います。その空しさに気づかされた時、私たちは絶望的な気持になるでしょう。投げやりな思いになることもあるでしょう。ともすれば、そこに悪が入り込んで来るのです。
しかし、むなしさに、絶望に、自暴自棄に陥りそうになる人生において、信じられるものがある、というのは本当に幸いなことなのです。永遠に変わることがないものを信じられるのは、とても幸いなことです。
13日の同時多発テロで、妻を失い、1歳5カ月の息子と二人きりになったアントワーヌ・レリスさんという人のフェイスブックが世界中に反響を呼んでいます。悲しみの中で、彼は“憎しみに屈するわけにはいかない”と思い、テロリストに向けてフェイスブック上で、「憎しみという贈り物はあげない」と手紙をつづりました。その手紙が大きな反響を呼び、各国から無数のメッセージが届いたといいます。その中に、一人のイスラム教徒から、宗教の名の下に操(あやつ)られ、ためらいなく人さえ殺せるような“そんな盲目的な憎しみに、私たちは盲目的な愛で答えよう”とのメッセージがあったということです。
永遠に変わらないものを知っている人は、憎しみに駆(おいたて)られず、絶望に支配されません。私たちキリスト者は、永遠に変わらないキリストの愛を信じています。主イエス・キリストとその父なる神さまによって生かされ、愛されて生きている。この永遠に変わることがない真理を、胸にしっかりと抱きしめて生きていきましょう。





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