2015年12月6日 アドヴェント第2主日・礼拝説教
  聖 書   ルカによる福音書1章67〜79節
  説教者  山岡 創

1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

「 朝が来た 」
 
 今日の聖書の御(み)言葉の中で、私がまず注意を引かれたのは、78節の「あけぼのの光」という言葉でした。「あけぼの」と言うと、私は、相撲で活躍した“曙(あけぼの)”という力士を思い出します。ハワイ出身、長身のアメリカ人力士で、外国人で初めて横綱になった人です。2代目・貴乃花と共に、“曙貴時代”と呼ばれる一時代を築きました。
 それまで、私は“曙”という言葉を知らなかったかも知れません。学校では習わない漢字です。若い人たちは、曙という漢字はもちろん、その意味を知らない人が多いのではないでしょうか?曙というのは、簡単に言えば、夜明けのことです。朝のことです。その言葉の意味を考えると、日本の国技である相撲の世界に、この外国人力士によって、新しい時代の夜明けがもたらされる。新しい朝が来る。そういう意味で、“曙”という四股名(しこな)が付けられたのかも知れません。
 「あけぼのの光が我らを訪れ」(78節)る。夜が明け、朝が来る。そこで、もう一つ連想したのが、現在NHKで放映されている連続テレビ小説〈あさが来た〉です。幕末から明治へと時代が大きく変わって行き、西洋の思想や文化が取り入れられていく時代に、現在の日本女子大の前身である、日本初の女子大学・日の出女子大学校の設立に深く関わった広岡浅子という人物をモデルにしたドラマです。相撲と木登りが好きで、算盤(そろばん)が好きで、学問が好きで、当時どこにもいなかったような少女・あさが、加野屋という大阪の両替商(りょうがえしょう)に嫁(とつ)ぎます。そして、女性ながら両替商の仕事を覚え、時代の変化の中で、九州の石炭を商い、銀行を設立し、教育の分野においても、やがて日本初の女子大設立に関わっていく。その生涯を描いたドラマです。いつも楽しみに見ています。“あさ”という名前に引っ掛け、時代に朝をもたらす、新しい時代の夜明けを担(にな)う、という意味で〈あさが来た〉というタイトルになっているのでしょう。実は、今日の説教題も、〈あけぼのの訪れ〉では分かりづらいと思い、ドラマを思い出して、〈朝が来た〉とした次第です。

 当時、ユダヤの人々も時代の夜明けを、新しい朝が来ることを待ち望んでいました。今日の聖書の預言を語ったザカリアが生きていた時代、今から2千年とちょっと前の時代ですが、ユダヤ人は強大なローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国だけでなく、600年も昔から、代わる代わる大国に支配され続けて来ました。ユダヤの人々は、まさに「暗闇と死の陰に座す」(79節)ように、支配される屈辱と苦しみに耐えて来ました。このままでは終わらない。いつの日か神さまが、「あけぼのの光」を、救いの朝をもたらしてくださる。かつて栄えたユダヤ人のイスラエル王国、その王座に君臨したダビデ王。そのダビデ王の末裔(まつえい)から、神さまは英雄を起こし、支配されているユダヤ人を解放してくださる。そう信じ、待ち望み、歯を喰いしばって生きて来ました。そのようなユダヤ人の希望を、ザカリアは我が子ヨハネの誕生を機に預言したのです。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角(つの)を、僕(しもべ)ダビデの家から起こされた。‥‥」(68〜69節)。
「救いの角」が起こされる。「あけぼのの光が我らを訪れ」る。もうすぐ、救い主イエス・キリストがやって来ることを預言したのです。

 ところが、この預言の内容は、後半に至って大きく変わります。救いがもたらされることに変わりはないのですが、その救いの内容が大きく変わるのです。77節で、
「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」
と言われています。救いの内容が、大国の支配からの解放による救いではなく、罪の赦しによる救いへと変わるのです。言わば、外面的な救いから、内面的な救いへと変わったと言ってもよいでしょう。
 ザカリアの子ヨハネは、成長して、まさに「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(77節)人となりました。ヨハネは、ユダヤ人の罪を問いました。あなたがたは、自分たちを「主の民」だと自負している。神の民なのだから当然、救いが約束されていると思い込んでいる。しかし、果たしてそうだろうか?「主の民」だということに良い気になって、あぐらをかいてはいないか?神さまの救いにふさわしくない罪を抱えてはいないか?まず、その罪を悔い改めよう。そう呼びかけて、ヨルダン川で、罪を悔い改めた者に、罪の赦しのしるしである洗礼を授けました。そして、持っている者は持っていない者に分けてやれ。規定以上のものを取り立てるな。金をゆすり取るな、と人々に教えました。
 やがてヨハネから少し遅れて、主イエス・キリストが世に現れます。その主は、人々にこうお教えになりました。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章31〜32節)。
 当時、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女など「罪人」と呼ばれる人々がいました。むさぼるな、姦淫(かんいん)するな、といった神の掟を守れない人々でした。そういう人たちを、神の掟を守る「正しい人」たちが非難し、蔑(さげす)み、疎外(そがい)していました。徴税人や遊女は確かに「罪人」でした。しかし同時に、疎外された、寄り添う人を持たない、孤独な人々でした。主イエスは、まずその罪を責めたのではありません。ただ、彼ら罪人を受け入れ、寄り添おうとしたのです。彼らと共にいようとされたのです。それが罪人を招くということ、魂の「病人」を招くということでした。それが、「神の憐れみの心」(78節)です。
 その神の憐れみに触れた時、罪人は、悔い改めて心を入れ替えます。ルカによる福音書18章9節以下の主イエスのたとえ話の中で、徴税人が、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18章13節)と神殿で祈ったように、心を入れ替えるのです。その典型が、続く19章に出て来る徴税人ザアカイでしょう。
 主イエスは、罪人を神の憐れみへと招かれます。神の愛へと招かれます。けれども、招かれているのは「罪人」だけではありあせん。「健康な人」「正しい人」も招かれています。徴税人や遊女らを非難した人々は、自分のことを「正しい人」だと思い込んでいるだけです。そう思い込んで、彼らの非難し、蔑みました。その思い上がりと愛の無さにこそ罪があると主イエスは見ておられます。だから、一見「正しい人」も、実は「罪人」なのです。神の憐れみに招かれるべき罪人、神の憐れみの中で悔い改めるべき罪人なのです。
 けれども、「正しい人」はなかなか自分の罪に気づきません。認めよとしません。反対に攻撃さえして来ます。その攻撃によって主イエスは、「正しい人」たちの手で十字架に架(か)けられました。けれども、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と、ご自分を十字架に架ける罪人たちを赦し、受け入れられました。その意味で、主イエスの十字架は、最大の罪の赦し、神の憐れみの象徴だと言うことができます。
 この十字架が表わす神の憐れみ、神の愛による罪の赦しへと、私たちもまた招かれています。私たちは、魂の「病人」だから、「罪人」だから、こうして主イエスに招かれ、教会に集まるのです。「正しい人」だから教会に集まるのだと勘違いしてはなりません。私たちは「罪人」なのです。神の言葉に従えない罪人です。神の愛を離れ、孤独に陥り、絶望する罪人です。自分は「正しい人」と思い込んで、他人を裁く罪人です。愛を忘れ、人を傷つける罪人です。だから、主イエスによって招かれます。教会で礼拝を共にします。神の憐れみによって罪を赦されます。神の愛で受け入れていただきます。魂の病を癒(いや)していただきます。でも、また病にかかります。罪に陥ります。だからこそ、魂の癒しの病院、罪の赦しの神殿である教会に、私たちは「罪人」として通い続けるのです。その罪人が、神の憐れみによって愛され、赦され、受け入れられていることを知る時、私たちの内側に“人間革命”が起こる。魂の革命が起こる。朝が来るのです。イエス・キリストという「あけぼのの光」が、神の愛という光が、私たちの内側を照らすのです。

 罪とは、ちょっと飛躍した言い方になるかも知れませんが、神さまから離れて生きていること、神の憐れみをきちんと受け止めずに生きている人生、と言ってもよいのではないでしょうか。心の内に神の憐れみという光を持たないままに生きていると、私たちはともすれば孤独に陥ります。絶望と虚無(きょむ)に陥ります。悪に支配され、罪を犯すことにもなりかねません。魂を照らす光、愛の光を私たちは必要としています。
 “イエス・キリストは私たちの太陽だ”。古代のクリスチャンたちはそう言いました。そう言って、ローマ帝国で12月25日に行われていた太陽神を祭る冬至の祭りを乗っ取って、イエス・キリストの誕生祭としました。それが、12月25日にクリスマスが祝われるようになった由来です。
 イエス・キリストは私たちの心の光、私たちの心を太陽のように暖かく照らす光です。迎えようとしているクリスマス、私たちは、この“私”と共にいてくださる神、“私”に寄り添い、受け入れてくださる神、“私”という人間を丸ごと承認してくださる神、すなわち憐れみの神、愛の神と、イエス・キリストを通して、改めて、また新しく出会わせていただきましょう。その時、私たちの内に「あけぼのの光」が訪れます。朝が来ます。





   ウィンドウを閉じる