2015年12月27日 大人と子どもの礼拝説教
  聖 書   マタイによる福音書2章13〜15節
  説教者  山岡 創

2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「 神の逃避行 」
  クリスマスの夜、ベツレヘムの家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたイエス様。さて、その後イエス様はどうなったのでしょう?その後の話を知らないという人が意外と多いかも知れません。今日読んだ聖書の箇所が、クリスマスの後の物語です。一言で言えば、イエス様は、ヨセフさんとマリアさんに連れられて、ユダヤのベツレヘムからエジプトへ逃げました。
 どうしてイエス様は逃げなければならなかったのでしょう?それは、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていたからです。
 ユダヤに新しい王が生まれた。東の国から星を調べてやって来た学者たちが新しい王を探しているとの噂がヘロデ王の耳に入ります。王は、自分を王座から引き下ろすライバルの出現に脅威を感じ、新しい王を殺してしまおうと考えました。そこで、学者たちを利用し、学者たちに新しい王イエス様の生まれた場所を探させ、自分にも知らせるようにと命じたのです。ところが、学者たちは、夢で天使のお告げがあり、ヘロデ王のもとには戻らず、別の道を通って自分の国へ帰って行きました。
 学者たちが帰って行った後で、ヨセフさんは夢の中で天使のお告げを聞きます。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」(13節)。
 そのお告げを受けたヨセフさんは、とても迷っただろうと思います。頼れる知り合いが一人もいない、全く知らない外国へ行くのです。しかも、生まれたばかりの赤ちゃんと、まだ体が回復していないマリアさんを、過酷な長旅へ連れ出さなければなりません。けれども、ヨセフさんは、イエス様の命を守るために、神さまのお告げに従い、エジプトへ逃げる決心をしました。その決断がよかったのです。
 なぜなら、学者たちにだまされたことを知ったヘロデ王は、暴挙(ぼうきょ)に出ます。新しい王として生まれたのがどの子か分からないため、ベツレヘムとその周辺地域にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺すという大虐殺(ぎゃくさつ)をしてのけたからです。イエス様は間一髪(かんいっぱつ)で、その危機を逃れることができました。

 この箇所を読んで、イエス様は、現代で言う“難民”だ、と言った人がいます。
 現代の難民と言えば、私たちは真っ先に、シリア難民のことを思い浮かべるでしょう。2011年に内戦が起こり、その後、イスラム国という組織が勢力を強め、難民はさらに増えました。現在では、シリアの人口2200万人のうち、約400万人が国外へ脱出し、難民となっています。また、シリア国内でも避難生活をしている人が760万人いると言われています。そういう中で、舟に乗ってトルコに逃げようとした家族が、船が転覆して命を失い、3歳の男の子がトルコの海岸に打ち上げられて死んでいる写真が世界中に衝撃を与えました。また、難民キャンプで、4歳ぐらいの女の子がジャーナリストからカメラを向けられたとき、何をしたと思いますか?‥‥‥両手を挙げたのです。女の子はカメラを銃と勘違いして、“降参、打たないで、助けて”と両手を挙げたのです。そのニュースを読んだとき、こんな小さな子どもが、心に深い人間不信の傷を負わされていることにショックを覚えました。
 イエス様も、ヨセフさん、マリアさんも、そんな難民の苦しみを経験されたのです。知り合いもなく、言葉も通じず、仕事もなく、家もなく、食べ物もない難民生活を味わわれたのです。そのようなイエス様の痛み苦しみを思うとき、現代の難民の人々のために、また国内で今もなお東日本大震災のため、また秋の台風による水害のため、避難生活をしている人々のために祈り、心を向けることを求められている気がします。

 ところで、私たち自身は、難民になったことはないでしょう。けれども、いわゆる難民ではありませんが、私たちの人生には、“逃げた方がよい”という場合があります。私たちは、逃げるか、立ち向かうかという選択の前に立たされる時、“がんばって、闘って”と考えることが少なからずあると思います。もちろん、逃げてはならない問題、背負って行くべき事柄もあります。けれども、自分を守るために逃げた方が良い出来事もたくさんあるのです。
 たとえば、学校のいじめの問題です。周りからいじめられると、苦しく辛(つら)い気持になります。死にたくなることもあり、ともすれば自死(じし)を選んでしまうことさえあります。学校に行きたくないのです。逃げたいのです。けれども、子どもも親も多かれ少なかれ“学校には行かなければならない”という呪縛(じゅばく)にかかっています。不登校気味になると焦ります。“不登校のレッテルを貼られたくない”“勉強が遅れてしまう”“もうちょっとがんばってみよう”、そんなことを考えて、学校に行き続ける。行かせようとする。こう考えるのは、どちらかと言えば子どもより親でしょうね。
 けれども、自分を守るために、いじめる友だちから、学校から逃げて良いのです。不登校になってよいのです。イエス様だって、ヘロデ王の“いじめ”から逃れるために、闘わず、エジプトへ逃げたのです。エジプトで“引きこもり”になったのです。
 『教師の友』で中川翔子さん(愛称:しょこたん)というタレントのことが紹介されていました。しょこたんは、子どもの頃、ひどいいじめに遭った経験があって、ある時、新聞に〈逃げて、まず自分が大事〉という文章を書きました。
  無理して学校に行く必要なんかない。いじめなんてくだらなくて、立ち向かう意味すらないから。いじめから逃げることは、本当の“逃げ”とは違う。自分のことを大事に考えてほしい。
 いじめから逃げて良いのです。聖書の別の箇所にも、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭(あ)わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように、逃(のが)れる道も備えていてくださいます」(?コリント10章13節)と書かれています。逃げて良いのです。イエス様も、神さまからエジプトという「逃れる道」を備えられて、そこへ逃げたのです。
 神さまは私たちにもきっと「逃れる道」を用意してくださいます。その道の一つは、教会だと思います。不登校になって、子どもも親もいちばん苦しみ悩むのは、引きこもりになってしまうことではないでしょうか。家族以外の人との関係を失ってしまう。下手をすれば、家族との関係もぎくしゃくしてしまう。そんな時、教会というつながりを持っていたら、全く違います。自分のことを、どんな自分であっても、愛して受け止めてくださる神さま、イエス様がいます。自分といつも通り、優しさと笑顔で接してくれる仲間がいます。教会には、不登校を白い目で見る人はだれもいません。安心して、その関係の中に出て行くことができます。教会とはそういう意味で、「逃れの道」、逃れの場です。
 我が家でも10年ほど前に、いじめの問題が起こりました。子どもが学校に行けなくなり、親としては焦る気持もありました。でも、“いちばん辛いのは本人。学校に行けなくても教会があるからだいじょうぶ”と思い直して、不登校の状態を受け入れました。

 私たちの人生には、“逃げる時”があります。苦しくて、辛くて、逃げずにはいられない時があります。けれども、イエス様がそうであったように、神さまが御(み)心のままに、ご計画をもって導いてくださいます。逃れる道を備え、また“帰れる時”“戻れる時”もきっと用意してくださいます。復活の時が備えられています。苦しく辛いことも、神さまを信じれば、無意味なこと、無駄なことはきっと、一つもありません。私たち一人ひとりを愛する神さまのお導きを信じて歩んでいきましょう。





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