2016年1月3日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)2章1〜10節
  説教者  山岡 創

◆生きた石、聖なる国民
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。


「霊の家を建てる 」
  「生まれたばかりの乳飲み子のように」(2節)、使徒ペトロは、このように語りかけて来ます。1章に既に、新たに生まれる、という表現が3節と23節に、2度出て来ました。私たちが、「生まれたばかりの乳飲み子」として、新たな命を生き始めるのです。それは、この世にもう一度生まれ変わって、別の人間として別の人生を生きる、という意味ではありません。人の“一生”と言いますけれども、一回限りの掛け替えのない命、掛け替えのない人生です。その人生において、新たな生き方を始める、新たな道を、別の道を歩いて生きていく、という意味です。
 年が明け、日本は正月真っ只中ですが、教会の暦(こよみ)では1月6日までクリスマス・シーズンです。1月6日は〈公現日(こうげんび)〉と呼ばれ、占星術の学者たちが乳飲み子のイエス・キリストを探し当て、礼拝(れいはい)し、贈り物を献げた日とされています。救い主である乳飲み子に宝を献げた学者たちは、ヘロデ王のもとには戻らず、「別の道を通って」(マタイ2章12節)帰って行ったと記されています。私は、別の道を通って行くこの学者たちの姿こそ、「生まれたばかりの乳飲み子」と言われるクリスチャンの姿だと思っています。来た道とは、今までとは違う、別の道を通って生きていくのです。ヘロデ王のもとには戻らないのです。乳飲み子であるキリストを、自分の王座を脅(おびや)かすライバルとして殺そうとしたヘロデ王とは、今日の聖書の言葉を借りて言えば、まさに「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」(1節)の象徴、その塊(かたまり)だと言えるでしょう。ヘロデ王のもとに戻らないということは、単に地理的な意味ではなく、まさに人の道、人の生き方として、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を「捨て去る」(1節)ということです。それらを捨て去って、イエス・キリストが象徴するものを目指して生きていくということです。それは、ガラテヤの信徒への手紙5章22節に書かれているように、「愛‥‥、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。「生まれたばかりの乳飲み子」であるクリスチャンは、これら“キリストの心”とも言うべきものを目指して、新たに歩み始めるのです。

 そのために、「混じりけのない霊の乳を慕(した)い求めなさい」(2節)と言われています。「霊の乳」とは、1章の終りにあるように、「主(しゅ)の言葉」(25節)、「神の変わることのない生きた言葉」(23節)のことです。この「主の言葉」を聞いて受け入れることで、私たちはクリスチャンとして新たに生まれ、この「主の言葉」を飲み続けることで、私たちは成長し、救われるようになるのです。だから私たちは、赤ちゃんが母親のお乳を“オギャー、オギャー!”と泣いて求めるように、「霊の乳」である主イエス・キリストの言葉を熱心に求める必要があります。生まれたばかりの乳飲み子は、母親のお乳を飲まなければ生きていけません。そのように、私たちクリスチャンも、霊の乳である主イエス・キリストの言葉を聞き続け、取り入れ続けなければ、私たちの内に生まれた神の霊は死んでしまう、信仰という灯(ともしび)は消えてしまうということを心に明記しなければなりません。それは、ヘロデ王の道へと、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口の道へと逆戻りすることです。それは、自分の内に生まれた「乳飲み子」を殺す、ということです。
 ちょっとどぎつい表現をしましたが、それほどに、私たちクリスチャンの信仰生活、霊的な生活には、「主の言葉」が欠かせません。聖書の言葉を読み、聞き、それを自分の生活に取り込み、人との関係において具体的に実践していくことが霊的な成長という意味で必要不可欠です。そのように主の言葉に親しむ生活の中で、私たちは“あぁ、ここに救いがあった”と、しみじみと味わうことになるでしょう。

 私たちクリスチャンが成長し、救われるようになるために、必要不可欠なものがもう一つあります。それは“教会”です。ペトロは、「霊の乳を慕い求めなさい」と勧(すす)めると共に、「この主のもとに来なさい」(4節)とも命じています。「主のもと」とはどこでしょうか?端的に言えば、それは教会です。教会において、霊の乳である主イエス・キリストの言葉をいただき、そして、信仰の仲間と共に、主の言葉を実践し、互いに愛し合いながら成長していく。その意味で、教会とは、霊的な乳飲み子である私たちにとって、“霊的な保育園”であると言っても良いでしょう。
 けれども、教会とは、私たちにとって“既成(きせい)の場所”ではありません。用意され、既にでき上がった施設のような場所を、私たちが“お客さん”として来て、利用するのではありません。そうではなくて、私たちは“一員”として、“スタッフ”として、協力して一緒に教会を造り上げていく、教会にはそういう一面があります。
 そういう意味で、教会は「霊的な家」(5節)と言われます。そして、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とペトロは命じるのです。
 造り上げる、という意味で、教会が建物にたとえられています。そして、教会の一員であるクリスチャン信徒の一人ひとりが、建物の材料である「石」にたとえられています。ペトロは、この部分を書いている時、エルサレム神殿を思い浮かべていたのではないかと思われます。当時のユダヤの家も石造りでしたが、エルサレム神殿は、その石造りの粋(すい)を集めた立派な建物でした。信徒一人ひとりが「生きた石」となって、神が宿る「霊的な家」、霊的な神殿を造り上げる。ペトロはそんなイメージを抱いたでしょう。
 石造りの建物の建築で、最も重要な部分があります。それは、「隅(すみ)の親石(おやいし)」(7節)でした。それは、石を組み上げていく上で礎石(そせき)となる建物の隅(角)に据える石のことです。この「隅の親石」に、主イエス・キリストがたとえられています。霊的な家、教会を造り上げていく上で、最も重要な礎石、隅の親石は、主イエス・キリストです。
 基礎がしっかりしていなければ建物は建ちません。欠陥建築ということになります。昨年10月、三井住友建築と旭化成建材が建てた横浜の大型マンションが傾いていることが住民によって発見され、その後の調査で、地下の基礎部分の杭(くい)が一部、固い地盤に達していなかったり、コンクリートの使用量が減らされていたことが分かり、そのデータが改ざんされていたことが発覚しました。その後の調査で、他にも同じような偽装建築がなされているマンションが少なからずあることが明るみに出て来ました。
主イエスがお話になった、岩の上と砂の上にそれぞれ家を建てた人のたとえ話が思い起こされますが、基礎がしっかりしていなければ当然、建物は傾き、やがて倒れます。霊的な家、教会も同じことです。イエス・キリストをしっかりと「隅の親石」に据えていなかったらどうなるか?教会は傾きます。倒れます。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口が人の心を支配し、対立し、争い、分裂し、解散することになります。
それは教会が、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」の家を建てるということです。偽装マンションと同じように、私たちも“偽りの道”を歩み、“偽善の家”を建てるということ、「強盗の巣」(マタイ21章13節、他)を造り上げることになります。そして、気を付けなければならないのは、私たちは、自分の利害のためには、自己本位な欲望、願望のためには、愛、平和、誠実の道を歩むよりも、悪意と偽りの道を歩きたがる。そういう“罪の傾向”を持っているという点です。
私たちは、「愛、喜び、平和‥‥」の道をいつでも喜んで選び、諸手(もろて)を上げて歩くわけではありません。その道を嫌うのです。煙たがるのです。だから、隅の親石が捨てられるということが起こるのです。隅の親石であるイエス・キリストにつまずき、キリストを邪魔者だと言って、十字架に架(か)けて殺すのです。2千年前の話ではありません。現代においても形を変えて起こっている出来事、そして私たちの内でも起こり得る出来事なのです。
 だから、私たちも、愛、喜び、平和、柔和、誠実‥‥そのものであるイエス・キリストを、偽装工事をせずに、“手抜き信仰生活”をせずに、しっかりと教会の基礎に据えなければなりません。もちろん、霊的な家というのは、教会の建物のことではなく、私たちクリスチャン同士の交わり、交流関係のことです。信仰の交わりを共に造り上げていく営みのことです。その交流関係、営みの基礎にあるものが、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口だとしたら、教会が建つわけがありません。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を、お互いの関係の基礎に据えてこそ、イエス・キリストが喜ばれる、しっかりとした教会が造り上げられていきます。ペトロは、そういう教会を求め、目指して行けと、私たちに力強く勧めているのです。

 坂戸いずみ教会で、3年越しの目標として掲げて来た〈わたしたちの教会の理念(教会像)を表わす標語をつくろう〉というテーマが、ようやくまとまろうとしています。今年度初めに役員会に、まとめが任されましたが、この取り組みは、〈キリストの愛とともに歩もう〉という標語に集約されることになりました。この標語は、まさにイエス・キリストを礎石とする、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の教会を造り上げよう、という今日の聖書の内容にぴったりだと感じています。
 私たちの内には、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口に戻ろうとする罪があります。その罪と闘わなければなりません。その罪を思い、イエス・キリストの前に悔い改め、赦(ゆる)しを願い、祈らなければなりません。困難な道です。けれども、思い直し思い直し、赦され、復活しながら、霊的な家、キリストの愛の教会を造り上げるために、その家で救われるために、共に歩んでいきましょう。





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