2016年1月31日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)2章11〜17節
  説教者  山岡 創 

2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

「 自由な人として 」
 イスラム国のテロが、相変わらず世界で猛威を振るっています。彼らの起こす事件をニュースで耳にするたびに、私たちは顔をしかめます。そして、彼らが信じ、その営みの根底にあるイスラム教を、暴力、破壊、戦争を肯定する宗教として否定する人も出て来るでしょう。
 けれども、イスラム教は決して、テロや戦争を肯定する宗教ではない。一部の人たちが、自分たちのやり方を押し通すために、自分勝手な信じ方をしているだけだ。そのように、世界中の多くのイスラム教徒が、イスラム教に対する誤解とイメージ・ダウンを恐れて、一生懸命にアピールしています。
 もし私たちクリスチャンがその立場に置かれたら、やはり必死でアピールするのではないでしょうか。世界のどこかに、キリスト教を掲げながらテロを肯定し、実行する国があったとしたら、私たちはきっと、“キリスト教はそんな宗教ではない”と擁護しようとするでしょう。

 およそ2千年前、新約聖書が書かれた頃、ローマ帝国において、キリスト教は誤解されていました。クリスチャンと教会は「悪人呼ばわり」(12節)されていたようです。どうしてでしょうか?
 たとえば、“キリスト教は人の血を飲み、人肉を食する宗教だ。隠れてそれを行っている”と思われていたようです。それは、聖餐式(せいさんしき)が誤解されたようです。パンとワインを、これはキリストの体、キリストの血と信じていただく儀式が、そのような誤解を招いたようです。
 あるいは、暴君と言われたネロ帝の時代に、ローマの都で大火事が起こりました。その時、この火事騒動を起こして社会を転覆させようとしたのはクリスチャンだと吹聴(ふいちょう)され、その噂によって、彼らは誤解され、処刑されたようです。
 そのように、当時のクリスチャンは誤解され、悪人呼ばわりされ、社会の中で苦しい立場にありました。
 けれども、主イエス・キリストの一番弟子であり、教会の中心人物であったペトロは、「異教徒の間で立派に生活しなさい」(12節)と勧(すす)めました。腐らず、焦らず、やけにならず、立派な生活をしていれば、やがて社会の人々は、キリスト教を見直し、神をあがめるようになるから、と諭(さと)したのです。
 実際、キリスト教の清潔な教えと生き方が、人々に認められている面もあったようです。ローマ社会の人々は、性的に退廃した生活を送り、またコロシアムでの戦いの見世物など残忍な刺激を好むようなところがありました。そのような「肉の欲」(11節)は魂を滅ぼすから避けよ、と命じられていますが、今までそのような生活をしていたローマの人々が、キリスト教に改宗して、肉欲的な生活を避けるようになることが少なからずありました。そのような清潔さが、特に婦人たちに認められたようです。そのようにキリスト教が、ローマ社会の中で認知され、広がっていくことを妬(ねた)み、恐れたがために、クリスチャンたちは悪人呼ばわりされたようです。

 もう一つ、クリスチャンが悪人呼ばわりされた原因があります。それは、ローマ社会の「制度」(13節)との関係でした。ペトロは、「すべて人間の立てた制度に従いなさい」(13節)と命じています。けれども、クリスチャンはその制度に反発することが少なからずあったのでしょう。
 例えば、今日の聖書箇所の直後に〈召し使いたちへの勧め〉という内容があります。召し使い、もう少しストレートに言えば、奴隷のことです。当時は奴隷制度が当たりまえの社会でした。奴隷には人格は認められませんでした。心も感情も許されず、“物”と同じ扱いでした。だから、奴隷を冷酷に、暴力的に扱う主人がほとんどでした。
 キリスト教は、社会的に自由人と奴隷の違いはあっても、人は皆同じ、神の前には罪人であると、しかも赦され、愛されている罪人であると見なしました。だから、奴隷の主人である自由人に対しては、愛を持って、正しく公平に奴隷を扱うように、と諭され、他方、奴隷に対しては、心からおそれ敬って主人に従うように、と教えられています。当時としては、一般には考えられない、非常に進歩的な思想でした。けれども、奴隷制度そのものがおかしい、神の御(み)心に反しているとの考えには、まだ至りませんでした。
 けれども、中には、奴隷制度を否定し、制度そのものをひっくり返そうとするようなクリスチャンも一部にいたかも知れません。
 今日の聖書箇所では、「人間の立てた制度」(13節)として、「統治者としての皇帝」(13節)と、「皇帝が派遣した総督」(14節)が挙げられています。ローマ帝国の政治制度のトップは皇帝であり、帝国内の各州に、皇帝が任命した総督が派遣され、治めていました。使徒信条にも出て来るポンテオ・ピラトは、ユダヤ州に派遣された総督でした。
 ペトロは、皇帝と総督に「服従しなさい」(14節)と命じています。そうすることが「善」(15節)だとペトロは見なしています。皇帝と総督という、人間の立てた政治制度に従うという善を行うことが、キリスト教を悪人呼ばわりする「愚かな者たちの無知な発言を封じる」(15節)ことになり、そうすることが「神の御心」(15節)だとペトロは言うのです。
 けれども、これは言わば“仮の原則”です。浅はかな考えで、徒(いたずら)に制度を破るな、ということです。しかし、人間の立てた制度が神の御心に反する場合は別です。例えば、ローマ皇帝が神を名乗り、自分に対する礼拝を強要するような場合は、クリスチャンは頑(がん)として、これに抵抗したのです。その違いはどこにあるのでしょうか?その判断基準はどこにあるのでしょうか?

 クリスチャンの生活の判断基準、それは現代のクリスチャンである私たちにも当てはまるものです。その判断基準とは、クリスチャンは「旅人」(11節)であり、「自由な人」(16節)であり、「神の僕(しもべ)」(16節)である、ということにあります。
 話は変わりますが、私は旅が大好きです。今週、教会に来ている中学2年生たちが、それぞれの学校で修学旅行に出かけます。京都と奈良、うらやましい限りです。私も中学生の時、京都、奈良に行きましたが、当時は文化財や風景、町の情緒等には全く関心がありませんでしたので、今、もう一度行ってみたいなあと思います。
 何年か前に、日本基督教団の伝道委員を4年務めたことがありました。その働きで、札幌、花巻、大船渡、仙台、那須、流山、静岡、伊豆大島、大阪、岡山等、各地の教会を訪ねました。私は各地に行く度に、早朝、走ったり歩いたりして、町の景色と雰囲気を堪能(たんのう)しました。
 旅先に行くと、皆さんも、何だか解放されたような、大きな気分になることがないでしょうか?それは、日常生活の仕事や人間関係、地域といったしがらみから解放され、自分が知らない、また自分のこともだれも知らない土地に行くからでしょう。簡単に言えば、縛(しば)りがないのです。
 私たちクリスチャンが「旅人」であるということは、私たちの拠点、国籍が天の国にあるからです。イエス・キリストを救い主と信じ、父なる神の愛によって救われ、洗礼を受けて、神さまと救いの契約を結んだ者は、神の国、天国に登録され、そこに国籍を持つようになった者です。だから、クリスチャンというのは、天国からこの世にやって来た旅人だと自己理解をするのです。今、私たちはこの世で、旅人として旅行先で生活しているのです。だから、“この世の縛り”がない。この世の制度や慣習、人間関係のコネや力関係に縛られ、こだわる必要がない。だから、「自由な人」とペトロは言うのです。もちろん、現実はそんなに簡単なことではありません。けれども、私たちは強く信じて、自分を悪い意味でのしがらみから解放すれば、まさに何にも縛られない自由な人としての生き方ができるのです。
 けれども、私たちクリスチャンの自由は“無秩序”という意味ではありません。何でも自分の思いのまま、欲望のままに振る舞って良いという意味ではありません。私たちは天国に属する者となりました。天国には、天国の価値観があります。判断基準があります。それは、「神の御心」(15節)です。その神の御心から見て、どうかということを判断する。神の御心から見て、この世の制度に従うこともあれば、従わないこともある。天の価値観から見て、今ある人間関係を大事にすることもあれば、離れることもある。この世に対しては自由、しかしそれは、私たちが神の御心に従うから、すなわち「神の僕」だからです。
「神の僕として行動しなさい」(16節)とペトロは言います。神の御心に従って行動する。神の御心とは何でしょうか?私は、“愛”だと思います。もし迷ったら、自分の行動は、神を愛し、畏(おそ)れ敬(うやま)うものになっているか、人を愛し、大切にするものになっているかで判断したら良い。時々、自分の行動、言葉、生活を、神を愛し、人を愛することに適(かな)っているかどうか、見直してみたら良い。イエス様だったらどうするか、何と言うかを考えてみたら良い。それが、神の僕として行動するということです。

 とは言え、神の御心に従って行動する場合、具体的には“正解”という絶対的な答えがあるわけではありません。例えば、2千年前なら奴隷制度はありだったわけですが、現代なら、それはあり得ません。具体的な行動は、時代や場所、国によって違います。人によっても違います。まさに「人間が立てた」ものです。だから、神の御心は何かと祈り求めながら、自分で考え、また一緒に考えていく。憲法の改正、基地や軍事力の問題、原発の問題など、政治的な行動は、とても判断が難しい。また、日本という異教社会の中で、例えば、仏式の葬儀の際はどうするか?仏壇は?神棚は?初詣は?クリスチャンとしてどのように振る舞っていくか。これも正解があるわけではありません。もし私の考えがお聞きになりたい方はいましたら、いつでもお尋ねください。
 一つ、具体的な判断と行動例を挙げるとすれば、例えば、私は仏式の葬儀に参列した際は、お焼香(しょうこう)をします。もちろん仏教を信じているわけではありません。自分の信仰はキリスト教だからと、お焼香を辞退するのも一つの判断だとは思います。しかし、私の中では、愛する人を失った悲しみの内にあるご遺族に寄り添い、悲しみを共にするためには、形だけでも心と自分なりの信仰を込めて行うことが、愛に適うと考えています。
 私たちの具体的な行動は、間違うこともあるでしょう。分かっていても完全になんてできないこともあるでしょう。それで良いのです。大事なことは、神の僕として、愛に基づいて考え、行動するように心がけること、それを大切にしていきましょう。





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