2016年2月7日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)2章18〜25節
  説教者  山岡 創 

2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。


「 善を行って苦しむなら 」
  私は、子どもの頃、教会学校で読んでもらった紙芝居の中に、強く印象に残っているものがいくつかあります。例えば、〈タイタニックは沈まない〉という紙芝居。絶対に沈まないと信じられていたイギリスの豪華客船タイタニック号が、氷山に衝突し、沈んでしまうという内容でした。聖書と直接関係のなさそうなこの紙芝居がどうして教会にあり、なぜ読まれたのかは分かりませんが、1997年に映画〈タイタニック〉が公開された時、“あっ、あの話だ!”と子どもの頃に見た紙芝居を思い出しました。
 そういう紙芝居の中で、タイトルは覚えていないのですが、記憶に残っているシーンがあります。それは、麦藁帽子をかぶった黒人(アフリカン・アメリカーナ)の奴隷が、主人に打ちたたかれて、後ろへはじけ飛んでいる場面でした。その紙芝居がどんなストーリーだったのか覚えていません。けれども、その場面だけが今も妙に印象に残っています。たぶん子ども心に、その主人の暴力的な扱いに憤りを感じ、打ちたたかれる奴隷を、かわいそうだと感じたからなのでしょう。
 今日読んだ聖書の箇所に、「無慈悲な主人」(18節)と出て来ました。そこを読んだとき、私は子どもの頃に見た紙芝居のワン・シーンを、ふと思い出したのです。

 今から約2千年前、ローマ帝国の社会では、奴隷制度が敷かれていました。戦争での捕虜や借金で我が身を売った者が奴隷となりました。生まれながらに奴隷という人もいました。奴隷と言うと、鎖で数珠(じゅず)つなぎにされて、鞭(むち)で叩かれ、集団でのきつい労働に酷使されているようなイメージを抱くかも知れませんが、実際は少し違うようです。ローマ社会での奴隷は、職人であったり、労働者であったり、一家の会計を管理する執事(しつじ)であったり、家庭教師であったり、医者や哲学者である人もいました。当時、労働・実業は奴隷が担い、自由人は政治に携(たずさ)わるか、趣味・娯楽にふけっていたようです。それが、ここで言われている「召し使いたち」(18節)のことです。召し使いと訳されているギリシア語は元来、家に属する奴隷という意味だそうです。
 家に属しているのですから「主人」がいます。主人の中にも、「善良で寛大な主人」(18節)もいれば、「無慈悲な主人」(18節)もいたようです。
 当時のローマ社会では、奴隷の人格、人権といったものは認められておらず、“物”扱いであり、その家の動産でした。だから、打ちたたかれても、口汚く罵(ののし)られても、それは本来“無慈悲”にも“不当”にもならないことでした。
 そのような行為が無慈悲だと言えるのは、キリスト教信仰による見方だと言うことができます。当時、奴隷たちの間にも、キリスト教の教えは広まっていました。主人も、その家の召し使いもクリスチャンで、同じ教会に属しているということもあったようです。クリスチャンになった奴隷・召し使いたちの中には、教会の牧師となり、監督になり、司教になった人さえいるということです。そういう意味では、奴隷制度そのものを廃止するという考えは、まだキリスト教信仰から生まれていませんが、奴隷を“物”ではなく、“人格”として、“人間”として認める動きは、教会の中で明らかに始まっていたのです。
 だから、クリスチャンとなった主人は、キリスト教の“愛”の教えにより、善良で寛大な主人に変わっていったことでしょう。けれども、キリスト教に縁のない主人たちの中には、相変わらず自分の召し使いを無慈悲に扱い、不当に苦しめる者が少なからずいたでしょう。クリスチャンとなった召し使いは、そのような主人にどのように仕えるか?そんな“かす”のような主人を敬(うやま)うことなどできるか。教会の中で、他の麗(うるわ)しい主人と召し使いの関係を目の当たりにしたら、なおさら無慈悲な自分の主人を敬うことなどできなかったでしょう。仕方がないから、形の上では言うことを聞いて、心の中では蔑(さげす)んでやろう、呪ってやろうと思ったかも知れません。
 ところが、教会の指導者であるペトロは、召し使いたちにこう命じるのです。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)。
 冗談じゃない!と私たちなら思うかも知れません。否、当時の召し使いたちの中にも、“冗談じゃない”と思った人もいたに違いない。奴隷だから、制度だから、従うのは仕方がない。だけど、心からおそれ敬って、なんてできない。善良で寛大な主人なら分かるけど、無慈悲な主人に尊敬の念など持てるはずがない。ペトロの言葉を聞いて、そう思ったとしても不思議ではありません。
 なぜ、心からおそれ敬って仕える必要があるのでしょうか?それは、「神の御(み)心に適(かな)うこと」だからだ、とペトロは語りかけます。
「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉(ほまれ)になるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(19〜20節)。
 この御(み)言葉から、私は、主イエス・キリストが、山上の説教において、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われた教えを思い起こしました。それは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」、「雨を降らせてくださる」天の父なる神の子になるためだ、と主イエスは言われます。そして、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」「どんな優れたことをしたことになろうか」と、今日の聖書箇所の「罪を犯してそれを耐え忍んでも、何の誉になるでしょう」という言葉と似たようなことを言っておられます。否、むしろペトロが主イエスのこの教えを思い出して、このように語っているのかも知れません。無慈悲な主人を敬い仕えるのはなぜか?冗談でしょう、とんでもない!と思うようなことを敢えて実践するのは、善人だけではなく悪人をも愛する神の、その子どもとなるためです。神さまをまねるのです。神さまの生き方をまねることが、神の御心に適うこと、神さまに喜ばれることなのです。
 今日の聖書箇所にも、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範(もはん)を残されたからです」(21節)とありました。キリストが模範であるということは、キリストをまねて生きよ、ということです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えたキリストのように、否、敵を愛した、迫害する者のために祈ったキリストのように生きなさい、ということです。
 22節以下に、主イエス・キリストの生き様が記されています。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。それはまさに“愛”の生き方です。その愛の生き方が極まったものが「十字架」(24節)です。主イエスは、まさしく「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかったのに」(22節)、ご自分に敵対する人々に陥(おとしい)れられて、無慈悲にも十字架に磔(はりつけ)にされました。けれども、敵を罵(ののし)らず、呪わず、それが人の罪を背負って死ぬ愛の業であると受け止めて、それが父なる神の御心に適うと信じて、十字架にお架かりになりました。しかも、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください」(ルカ23章34節)と敵対する人々のために祈られたのです。
 ペトロは言います。主イエス・キリストは「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担(にな)ってくださいました」(24節)。「わたしたち」の中には、ペトロ自身も入っています。ペトロが主イエスを十字架に架けたわけではありません。けれども、彼は主を裏切りました。その罪を思っているのです。ペトロが語りかけている教会の人々は、直接、主イエスに関わったわけではありません。けれども、あなたがたの様々な罪をも、主イエスは担ってくださるとペトロは語りかけます。
 今、ここにいる“私たち”は何者でしょうか?罪の心を持つ者です。罪の心を持つ者として、神の敵であり、主イエスを迫害する者です。けれども、主イエスは私たちを愛し、私たちの罪をも担ってくださった。善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる、神の広い愛を示してくださいました。ペトロが言う「わたしたち」の中に、自分も入っていると、“この私”も主イエスに担っていただいていると、私たちの心にしみじみと通ったとき、この主イエスを敬い、模範とし、無慈悲な主人にも、無慈悲な人にも、愛を持って心から仕えるということの意味が、私たちにも納得されるようになるでしょう。

 現代において、私たちの間には、奴隷と主人という関係はありません。だから、今日の聖書箇所は、私たちには無関係のように感じるかも知れません。けれども、相手に無慈悲を感じることはあります。不当な苦しみを受けていると感じることもあります。職場での上司と部下の関係にそれを感じることがあるでしょう。家庭での夫婦の関係、親子の関係、嫁姑(よめしゅうとめ)の関係等に、それを感じることがあるでしょう。あまりにも不当であり、苦しければ、私たちには、その関係を解消するという方法もあります。会社を辞める、離婚する、家族の縁を切る等です。けれども、現実にはそう簡単に、その関係を解消できないことも少なくありません。歯を食いしばっても、そこに身を置かなければならないこともあります。
 また、そのような無慈悲で不当な関係ではなくても、親が高齢になり、中年になった子が介護をするようになった時、時間的な困難、体力的な困難、経済的な困難に加え、認知症気味になった親から、ひどいことを言われたりして、介護という善を行いながら、心は苦しむということもあるでしょう。
 そういった人間関係の中で、私たちクリスチャンはどのように生きるか?ということが問われています。愛によって善を行い、しかし相手の言葉や態度によって苦しむこともある。しかし、それで良いではないか、とペトロは語りかけるのです。だれが知らずとも、主イエス・キリストは知っておられる。神さまは喜んでおられる。そう信じることによって、私たちは魂の慰(なぐさ)めを見出し、自分の人生を肯定的に生きることができます。
 昨日、本屋に行く用事がありました。店頭に、渡辺和子さんの『置かれたところで咲きなさい』との著書が置かれていました。ロング・セラーです。
 “置かれたところで咲く”とは、こういうことではないだろうか。今日の御言葉から思いました。難しいことです。いつもいつもはできません。不完全です。でも、それでいい。私たちを愛してくださる主イエス・キリストのお赦しをいただきながら、苦しみながらも、愛によって善の花を咲かせることを心がけて、私たちは進みましょう。





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