2016年2月14日 受難節第1主日礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)3章1〜7節
  説教者  山岡 創 

3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。



「 聖書における夫婦 」
 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」(1節)。今日の聖書箇所は、この御(み)言葉で始まります。これを聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか?“考えが古いなぁ”と、かなりの方が思われるのではないでしょうか。妻の立場にある方の中には、“冗談じゃないわよ”と思う方もいるでしょう。そして、“だから聖書の言うことは現代に通じないのだ”とお感じになるかも知れません。
 一つひとつの夫婦関係を取り上げれば、夫に従うことを喜びと感じている妻の方もおられるかも知れません。けれども、妻が一方的に夫に従うという時代は終わりました。女性を男性よりも下に位置付け、妻は夫の所有物であるかのように考える価値観は、もはや過去のものです。そのような現代の感覚の中で、私たちは、今日の聖書の御言葉をどのように読めば良いのでしょうか。私たちは、信仰告白の中で“聖書は‥‥信仰と生活との誤りなき規範(きはん)なり”と唱(とな)えますけれど、現代人としての私たちの生活に、文字通りには通用しないことが、聖書の中には少なからず書かれているのです。
 ある意味で、それは仕方のないことです。生活に関わる倫理的な教えは、その時代の価値観や制度、生活スタイルに基づいて書かれています。それらは時代と共に変わっていきます。だから、2千年前に書かれたことが、現代において通用しなくても、それは仕方がないことです。
 けれども、時代を超えて、今でも通じる“何か”があるのではないか。大事なものがあるのではないか。現代の夫婦の関係についても、通用する、大切な、本質的な教えがあるのではないか。それを見つけることができれば、私たちは、“聖書は‥‥信仰と生活との誤りなき規範なり”と心から告白することができます。そういう読み方を私たちはすればよいと思うのです。今日の聖書箇所に、「外面的なもの」(3節)と「内面的な人柄」(4節)とありましたが、聖書もやはり、外面的な字面ではなく、書かれている言葉の背後にある、内面的な教えを読み取ることが大切ではないでしょうか。そういう読み方、受け取り方を、私は、皆さんと共にしたいと考えています。

 さて、最初の言葉に続いて、次のように書かれています。
「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1節)。
現代日本においても、妻はクリスチャンですが、夫はノン・クリスチャンという夫婦
がかなり多いと思われます。ペトロの手紙が書かれた2千年前のローマ社会もそうだったようです。特に、キリスト教の教えと信仰は、どちらかと言えば、社会の上流層の婦人たちに受け入れられたようで、彼女たちは、装(よそお)いという面では「編んだ髪」「金の飾り」「派手な衣服」(3節)を身に付けていたようです。
 ペトロは、そのような「外面的なもの」に価値を置くのではなく、「内面的な人柄」を大事にしなさい、と教えています。それは、「柔和でしとやかな気立て」(4節)によって夫に従う、という意味でしょう。それが、ノン・クリスチャンの夫を信仰へと導く「妻の無言の行い」だと言うのです。
 柔和でしとやかな気立て、とは何でしょうか?何でもかんでも言われるがまま、従順に夫に従う、ということではないと思います。現代的には、それはやはり夫に対する妻の思いやりでありましょう。この思いやりは、夫も自分と同じように、信仰に導かれ、救われてほしいと願う気持になります。その願いは、祈りとなります。夫が信仰によって救われてほしいという願う祈りはまさに「無言の行い」です。
 この祈りは、尊く、もっともな願いです。けれども、無言の行いである祈りが、ともすれば有言な態度になることがあるので気を付ける必要があると思います。有言というのは、“あなた、一緒に教会へ行ってみましょう”と誘う、といった意味ではありません。それはよいのです。
 そういうことではなくて、夫が信仰によって救われてほしいと願う気持は、裏を返せば、信仰のない夫の現状を否定しているということになりかねないということです。信仰がなければだめ、クリスチャンでなければだめ、という気持が、知らず知らず、態度に強く表れることがあるかも知れません。口では言わなくても、その空気は相手に伝わり、自分は妻に認められていない、否定されているという気持に夫がなるかも知れません。そうなると、夫を信仰に導くどころではなくなります。相手の現状、ありのままを受け入れて、見守るという思いやりもまた、無言の行いとして私たちには必要ではないかと思うのです。伝道はそこからスタートしてこそ、です。

 夫婦間の思いやりとは何でしょうか?最近、下重暁子さんという方が書いた『家族という病』という本を読みました。この方は、NHKのアナウンサー、民法のキャスターを経て、今はエッセイ、評論、ノン・フィクション、小説など文筆活動をされている方です。日本では“家族”というものが美化されている。しかし、その価値観の中で、家族という名の“呪縛(じゅばく)”に縛られ、事件やトラブルが多発している。そういう家族の問題性をスバリと切っていきます。“家族のことしか話題がない人はつまらない”“子離れできない親は見苦しい”“遺産を残してもいいことは一つもない”“夫婦でも理解し合えることはない”等々。その言葉には頷(うなず)ける内容もたくさんあり、爽やかささえ感じることもあります。
 しかし、だからと言って、下重さんが家族否定論者かと言えば、どうやらそうでもない。彼女自身、離婚を経験された後、二人目の夫と再婚しています。単に家族否定論者であれば、再婚などしないでしょう。その下重さんが、〈二人きりの家族〉という小見出しの付いた文章の中で、
家族とは言うまでもなく、形ではなく心の触れ合い、相手を思いやる気持ちである。
と書いておられます。
 夫が中東のベイルートに、テレビ局の特派員として派遣されている時期があったそうです。お互いに別居生活です。ある時、内戦が激しくなって、夫と連絡が取れなくなった。行方不明で不安な日々が続く。ようやく避難先が分かり、ホテルに電話をかけたがつながらない。何度目かにやっとつながって安堵し、ホッとして力が抜ける。なぜつながらなかったのか?夫も連絡しなければと電話をしまくったため話し中だったのだそうです。その同時に電話をかけ合っていたということに、下重さんは、心が通じた、‥‥家族として私とつれあいがつながることの出来た一瞬だったのかも知れない、と書いています。お互いの思いやりを感じた出来事だったのでしょう。
 余談になりますが、同じ小見出しの文章の中で、下重さんが夫と二人でハワイに旅行された時のエピソードが書かれています。行ったはいいものの、旅先で夫が虫垂炎(ちゅうすいえん)になり、手術をすることになった。その後、手術の跡が癒着して、もう1度手術をすることになり、1ヶ月の入院となってしまった。クリスマス、正月を挟んで、知人もおらず、日本に帰ることもできず、途方に暮れたといいます。
 そんな下重さんの病室に、現地の日本人牧師が来てくれた、困っている人を定期的に見舞うそうで、心のこもった応待に、信頼して相談することができたといいます。
ホテル暮らしの私を心配した牧師夫妻は、私を自宅にひきとって帰国まで世話をしてくれた。見ず知らずの私への心からの奉仕。教会に通う信徒の人々は毎日のように、花を持って来て病室を飾り、病院食ではとれない、おかゆなどを運び、退院時にはお赤飯まで炊いてくださった。なんとお礼を言っていいのか、どの人もそれまで一面識もなかったのだ。‥‥‥
  そこで知ったのは、ボランティアの意味だ。‥‥‥ハワイで知ったのは、困っている人がいたら、知らない人でも知人と同じかそれ以上に手をさしのべるということ。キリスト教の精神が根底にあるのか、ほんとうのボランティアが根づいていた。誰かにどこかで私もお返しせねばと思った。
 思わぬところでクリスチャンの姿が出て来たなぁ、と思いながら、夫と妻の関係ではありませんが、人を信仰へと導く「無言の行い」というのは、こういうことではないだろうか、と感じました。

 ボランティアの精神、その根底にあるものはキリスト教信仰の“愛の心”です。夫と妻の関係においても、それが根本にあることがいちばん大切です。その大切さを語っているのが、今日の聖書箇所に出て来た「同じように」という言葉です。「同じように、妻たちよ‥」(1節)、「同じように、夫たちよ‥」(7節)と2度出て来ました。これは、妻への教えと夫への教えが、同じものに基づいているということです。それは、直前の〈召し使いたちへの勧め〉の中に描かれているイエス・キリストのお姿です。キリストは、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました‥」(24節)と記されています。その生き様は、まさに“愛”そのものです。ご自分の命を犠牲になさるまでに人を愛する、私たちを愛する神の愛です。
この神の愛を信じることで、男も女も、夫も妻も、「命の恵みを共に受け継ぐ者」(7節)とされたのです。天国における永遠の命を希望とし、今、キリストの愛に基づいて、互いに愛し合う者とされたのです。夫と妻の関係には、このキリストの愛に基づいて、相手を思いやる愛が必要です。時には自分が損することも厭(いと)わず、見ず知らずの人にも、いや敵でさえも思いやる愛。それが妻と夫の間に、否すべての人間関係の根底に必要なものだと聖書は語っているのです。

 この愛の関係があれば、「あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7節)。と聖書は語ります。祈りが妨げられるとはどういうことだろう?と疑問に思った方もおられるでしょう。逆に言えば、夫婦の間に問題を抱えたままで、心からの祈りができるか、真っ当な信仰生活を送れるか、それは無理ではないか、ということです。
 月1回の〈やさしい聖書入門〉の集まりで、『忘れ物のぬくもり』というテキストを使って、聖書の学びと信仰の分かち合いをしています。その本の〈最後の宿題〉という章の冒頭で、著者の塩谷直哉牧師が、こんなことを書いています。
  朝、くだらないことで、妻とけんかする。どちらも自分が正しいと思っているので、お互いに謝る気はない。そこで二人とも、だんまりを決め込む。妻の方を見ようともせず、黙々と仕事をこなすわたし。1時間、2時間‥‥おかげでたくさんの雑用が片づく。ざまあみろ。しかし、心が晴れない。どんなにたくさん仕事ができても、大事な人とけんかしたままじゃ、胸がとても苦しい。‥‥
 もちろん、これだけでこのご夫婦の間に愛がないなどとは思いません。けれども、もしこの時、礼拝があったら、二人とも心から礼拝を守ることはできないでしょう。神さまの前に立てないでしょう。愛による赦しがあり、和解があって初めて、私たちは祈ることができる、祈り合うことができる。礼拝を守ることができるのです。
 あるご夫妻は毎日、主の祈りを一緒に祈っていると聞きました。どんなことがあっても、夕食の前に必ず共に祈る。それによって“愛の座”に座り直させられるのです。愛と祈りによって絶えず、夫婦の間がリセットされる。私たちも、そんな夫婦関係を、人との関係を歩んでいきましょう。





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