2016年2月21日 受難節第2主日礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)3章8〜16節
  説教者  山岡 創 

3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
3:10 「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
3:12 主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。



「 祝福を受け継ぐために 」
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(9節)。
 イエス・キリストの一番弟子であり、キリストの祝福を宣(の)べ伝える使徒となったペトロは、このように語りかけます。あなたがたが神に召され、クリスチャンとされたのは何のためか?それは祝福を受け継ぐためだ、と。
 私たちは、信仰の財産を持っています。それが祝福です。神の祝福です。これは、私たちが信仰の先輩から受け継ぎ、そして次の世代へと渡していくべきものです。教会から教会へと受け継がれてきたものです。

 今、木曜日の聖書と祈り会では創世記を学んでいますが、いちばん最初に、祝福を受け継ぐべく召されたのはアブラハムという人でした。この祝福はアブラハムの子イサクへ、その子ヤコブへと受け継がれ、更にヤコブの12人の子どもたちへと受け継がれていきます。この12人の子孫たちが、やがてエジプトを脱出し、カナン(パレスチナ)の地を占領し、12部族連合としてのイスラエルが生まれるのです。
 彼らにとって祝福とは、土地と子孫でした。神が約束してくださったように、安心して住める土地を獲得し、子孫が繁栄することでした。
余談になりますが、皆さん多くの方がパレスチナ問題をご存じと思います。パレスチナの地で、パレスチナ人とユダヤ人が領土を争っている問題です。紀元1世紀にローマ帝国によってこの地から追い出され、流浪の民となったユダヤ人が、1900年の時を経て、第2次世界大戦後に、この地に続々と戻って来た。シオニズム運動と呼ばれるものです。そして、住んでいたパレスチナ人を追い出して、イスラエルを建国復興した。そのためにパレスチナ人とユダヤ人の間では、今も領土争いが続いている。その根っこにあるものが神の祝福を受け継ぐというユダヤ人の信仰なのです。
 けれども、私たちが信じるイエス・キリストは、受け継ぐべき祝福を、それまでとは違う、全く新しい内容でお語りになりました。それは、この世の土地、国ではなく、神の国を受け継ぐということです。主イエスは、山の上の説教の最初に、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(同10節)とお教えになりました。神の国はこの世のものではありません。天にある国です。同時に信じる人々の間にあるものです。その意味で、主イエスは神の祝福を、目に見える物質的なものから、目に見えない精神的なものに変えたと言っても良いでしょう。別の言葉で言えば、今日の聖書の言葉で言えば、祝福とは、「命を愛し、幸せな日々を過ご(す)」(10節)ことができるようになる、ということです。自分の命を愛し、人の命を愛して過ごせるようになるということです。そこに神の国があります。さて、それはどのように生きることでしょうか?

 家族が無事に過ごせますように。仕事、商売がうまくいきますように。病気にならず、健康でいられますように。私たちは自(おの)ずとこのようなことを願いながら生活しています。そして、そのように生活できたら、私たちは幸せだ、幸いだと考えているかも知れない。神さまに祝福されていると思うかも知れない。逆に、病気になったり、仕事がうまくいかなかったり、家族にトラブルが起こったりしたら、私たちは不幸だと感じるかも知れない。神さまに祝福されていないと感じるかも知れない。そして、こんなことなら信仰なんて無駄だ、無意味だと思うかも知れません。けれども、果たして祝福とはそういうものでしょうか?もしそのように考えるとすれば、私たちの信仰は、かつてのユダヤ人と同じものになります。目に見える、物質的な祝福を求める信仰になります。主イエスが教えた祝福の信仰とは異なるものになります。
 主イエスの教えを受け継いだペトロは、旧約聖書・詩編34編を引用して、次のように語りました。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」(10〜11節)。
 このような生き方の中に、幸せな日々がある。「同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚に」(8節)生きる生活の中に、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に」報いず、「かえって祝福を祈る」(9節)生き方の中に、命を愛することができる日々があるとペトロは言います。これはかつて主イエスが山の上の説教でお教えになったことです。「悪人に手向かってはならない」(マタイ5章39節)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同44節)と。
 確かに、その通りと感じるところもあります。例えば、私たちのおしゃべりがいちばん盛り上がるのは、どんな話題の時か?ともすれば、それは人の悪口を言っている時です。けれども、そこに祝福があるか、幸せがあるかと聞かれたら、ほとんどの人が、ないと答えるに違いありません。舌を制して悪を言わない。それだけでも、私たちは今より幸せに生きられるはずです。
 けれども、同時に、そんなに単純な、簡単なことではないと考えさせられます。昨日の夜、NHKで〈海底の君へ〉というドラマを見ました。藤原竜也が演じる29歳の主人公・前原茂雄は、中学時代、ひどいいじめを受けました。それが元で高校にも行けず、引きこもりになり、そのために母親は疲れ果てて家を出て行ってしまう。そんな自分を変えたい、普通になりたい、家族に迷惑をかけたくないと、茂雄は外に出て、必死に働こうとします。けれども、何かのきっかけでかつてのいじめの記憶がフラッシュ・バックし、パニックを起こし、体調を崩し、働くことができなくなってしまい、職を転々とする。
そんなある日、彼の職場で、一人の中学生が万引き事件を起こします。その際、引き取りに来た姉の手塚真帆と茂雄は出会います。“弟さんの万引きは、いじめられてやらされたものではないか”と話したことがきっかけで、二人は親しくなり、茂雄は真帆に少しずつ心を開いて行きます。自分は、同級生によって、まるで物のように海に放り込まれた時、自分は彼らにとって死んでもいい人間だと感じた。それ以来、自分が生きている意味が分からず、ずっと冷たい海の底にいる、と話す茂雄に、真帆は、“しげちゃんは悪くない。私にはしげちゃんが必要だよ”と抱きしめるのです。
そんなある日、中学の同窓会の案内が届きます。出席を迷っている茂雄のところに、一人の同級生がやって来て、幹事の立花が、お前の返事がないと気にしていると伝えます。立花は中学時代、茂雄をいじめた主犯格でした。不思議に思った茂雄は、立花を訪ね、中学時代、どうして自分のことをいじめたのかと尋ねます。そして、立花が、自分のことを悪いとは全く思っていないことを知り、愕然(がくぜん)とします。そんな時、真帆の弟が中学でひどいいじめに遭い、自殺を図って意識不明の重体になります。
それがきっかけで、茂雄は、こんなに間違った社会を自分が変えなければ、と決心します。爆弾を作り、インターネットで同窓会の爆破を予告し、会に出席して、立花をはじめ同級生たちを巻き添えに、一種の復讐、爆弾テロを起こすことで、いじめの重さを社会に訴えようとします。けれども、間一髪、そこに真帆が現れ、茂雄を止めます。かくて茂雄は捕らえられ、刑務所に5年間、服役することになります。その出所の日、真帆と茂雄の妹が、刑務所の出口で“お帰り”と彼を迎えるシーンでこのドラマは終わりました。
もちろん、爆弾で同級生を巻き添えにするというやり方は間違っています。けれども、だれが彼の気持を非難することができるでしょうか。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と簡単には言えない苦しみの人生を、彼は生きて来たのです。そして現実に、茂雄のような苦しく、辛(つら)い人生を生きている人が、その家族が少なからずいるのです。
このドラマは、そのような人たちの投稿をもとに造られたそうです。番組の最後に、その声をAKB48の高橋みなみが紹介していました。その中の一つに、“あの時、味方が一人でもいたら‥”という言葉がありました。中学時代、茂雄には一人の味方もいませんでした。家族は逃げ場であっても、支える味方にならないことがあります。もし29歳になった茂雄の、海の底にいるような暗闇の人生に光明があったとすれば、それは手塚真帆という存在でしょう。真帆という味方がいたから、茂雄は自殺と爆弾テロを踏みとどまることができたのです。
 それで思ったのですが、当時、ローマ帝国の社会において、ひどい迫害と侮辱を受けていたクリスチャンたちが、それに耐え、復讐を企てず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めることができたとすれば、それは味方がいたからではないだろうか?共に信じ、共に迫害と侮辱を受け、共に苦しみ、共に祈り支え合う仲間がいたからではないでしょうか。そして、この味方、仲間、心の友、心の家族の頂点には、主イエス・キリストがおられます。主イエスは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せ」(2章23節)し、十字架にかかってご自分の命を犠牲にされるまでに、忍耐し、人の罪を負い、私たちを愛し抜かれました。この主イエス・キリストこそ、私たちの苦しみを知り、苦しみを担ってくださる最大の味方、最高の心の友と信じること、それが「心の中でキリストを主とあがめ(る)」(15節)ということです。共に信じ、共に苦しむ仲間、私たちの苦しみを担ってくださる心の友、救い主がいるからこそ、憐れみ深く、謙虚に、悪から遠ざかり、平和を求める心で生きることができるのではないでしょうか。そして、このように信じる仲間とつながって、主イエス・キリストとつながって生きるところに、命を愛する幸せな日々が、祝福の道があるのではないでしょうか。

 「幸せな日々を過ごす」。この言葉の元来の意味は、幸せな日々を“見る”ということだそうです。幸せな日を、祝福というものを、どのように見るかという見方が問われていると考えることもできます。それでふと思い出したのが、相田みつおさんの“しあわせはいつも自分の心がきめる”という言葉でした。相田さんが小学生の頃の話です。太平洋戦争中で、千人書きという、日の丸に千人が氏名を書いて、それを動員された兵士に手向け、戦地に送り出すという慣習があったそうです。その旗に、相田さんは友だちの名前を代筆した。そうしたら、他の友だちがふざけて、芸能人の名前を書き始めた。当然、問題になります。後日朝礼の時、だれが書いたのか?と問われ、相田さんは、芸能人の名は書いていないけれど、友だちの名前を代筆したので、正直に手を挙げた。ところが、他の友だちはだれも手を挙げない。職員室に呼ばれ、色々聞かれたが、そこに書いた友だちの名前は決して言わなかった。書いた仲間が必ず助けに来ると信じたからです。ところが、だれ一人助けには来なかった。この時、相田さんは、“正直者はばかを見る”ということを身をもって体験したと書いています。しかし、その後にこう書いておられます。
  しかし、その反対に「正直は一生の宝」というさわやかな諺(ことわざ)もあります。ものごとというのは一面だけ見たのでは本当の姿はわかりません。常に両面から見ることが大切だと思います。どちらの諺も本当だからです。そして、どちらを選ぶか?それを決めるのは自分です。(『いちずに一本道、いちずに一ツ事』73頁より)
 正直者はばかを見る。クリスチャンも主イエスの言葉どおりに生きたら、そうかも知れません。けれども、12節にあるように「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」と信じるかどうか、決めるのは自分です。不幸としか思えないような人生にも、きっと幸せがある、必ず祝福があると信じるのも自分です。苦しみの中にあっても、共に信じ、互いに愛し合う仲間を得て、共におられる主イエス・キリストに支えられて、慰めと希望と感謝を見ることができるなら、私たちは幸せです。





   ウィンドウを閉じる